オタクにおけるラジオ文化について

 仕事がキツくなると生活がグダグダになる。そうなると精神が濃いものを受けつけなくなる。もちろんオタク分は常に必要としてはいる。しかし、精神的な咀嚼力消化力がかなり落ちているので、重い話や捻った話が駄目になってしまうのだ。そういう状態のときは軽くて薄いものが有難くなってくる。風邪のときのお粥と同じことだ。

 では、オタク的営みにおける「お粥」とはなにか。かつて「萌え四コマはどうしてこうなのか」で論じた萌え系の四コマ漫画などが一つの例となるだろう。しかし、もちろん他にもある。たとえば、ここのところの私は、夜中にただただ『Radio To Heart 2』を聴いてニタニタすることで癒されていた。

 オタクという存在をどのようなジャンルから語るべきなのか。こう問いを立てると、多くの場合、アニメやらゲームやら漫画やらが挙がってくる。もちろんこれらのジャンルは重要であり、オタク的教養の表の核心を構成している。 しかし、裏側のより深いところでオタク的生の一側面を支えている契機があるのではないか。すなわち、Webラジオも含めた、ラジオを聴く、という営みである。

 これまで、ラジオというメディアには十分な注意が払われてこなかった。

 非オタクの一般人でも、アニメやらゲームやら漫画やらは、少なくともどのようなものか知っている。それについてどのようにオタク連中が語るのかも、ぼんやりとではあれ、一定のイメージを抱いている。しかし、だ。連中はオタクなラジオについてはまったく知らない。オタクもラジオについてはあまりいろいろ語ることはない。そのせいか、従来のオタク論においても、ラジオについてはほとんど語られてこなかった気がする。

 しかし、ラジオやWebラジオは、少なくとも一部のオタクの生において、確かに重要な価値をもっている。ラジオやらWebラジオやらを聴くという営みは、解明が俟たれるオタクの隠された秘儀なのである。(別の話になるが、ラジオといえば「伊集院光」という契機もなかなかに興味深い。私の経験では、ポロリとこぼした伊集院ネタに過敏に反応した奴は、必ずといっていいほど根っコからの駄目人間であった。)

 では、なぜラジオにはこれまで目が向けられてこなかったのか。私の考えでは、そもそもラジオ体験は、他のオタク的な営みにはない特殊性をもっている。それがラジオをオタク論で扱いにくくさせていたのではないか。もちろん、他にもいろいろと副次的な原因(たとえば、ラジオそのものが今や斜陽のメディアであることなど)は考えられるかもしれないが、ここでは無視してもいいだろう。では、その特殊性とはなにか。

 ここで問うべきは、我々がラジオでどのようなコンテンツを聴いているのか、ということだ。まず、ラジオがたんにオタク的な情報を伝達するだけのものである場合には、あまり問題はない。また、ラジオドラマを聴くことも、とくに問題なく位置づけることができる。「オタク道」以来強調してきたことであるが、私は「妄想」を核にしてオタクを理解している。ラジオドラマ内のキャラクターについての妄想云々、という基本構図がそのまま成立するであろう。

 しかし、もちろん、それだけではない。というより、実際にオタクが聴いているラジオコンテンツは、なんとも緩みきった声優のダベリであるのがほとんどなのである。そこにわかりやすい形で物語は登場してこない。アニメやらゲームやら漫画やらとは異なるのだ。しかし、それでもなお、声優がダベるラジオ番組がオタク性に満ち満ちていることを誰も否定できないだろう。ラジオにおけるオタク性を理解するためには、妄想中心主義の図式を応用していかなければならないのだ。

 では、どのように応用すべきなのか。ここで重要なものとして浮上してくるのが、やはり「声優」そのものである。 オタクはラジオにおいて、通常の意味での物語を媒介せずに、声優というキャラクターを妄想の対象としている、と言えるのではないだろうか。この、「キャラクターとしての声優」がもつ特殊性こそが、オタク的なラジオコンテンツの特殊性の原因となっている。

 ということで、我々は、ラジオを離れ、声優についての考察に移行しなければならない。ラジオというメディアに着目することにより、声優という新しい問題圏が拓けてきたというわけだ。(もちろんラジオ以外にもキャラクターとしての声優が前面に出てくる場面はある。とくに近年は雑誌やらイベントやらウェブサイトやらも無視できない。昔は声優の雑誌なんかなかったのになあ。)

 問題の所在が明らかになってきた。これまでオタク的営みのさまざまな側面について論じてきた。しかし、いわゆる声優オタクについては正面から扱ってはこなかった。今こそこの難題に立ち向かうべきときが来たというわけだ。私の考えでは、ここで、声優にオタク的に関わるさいの独特の「イタさ」が手がかりになる。オタクはすべてイタいものなのだが、それでもなお我々は、声優について語るさいには、オタクに一般的なイタさとは別の、独特のキツい痛々しさに足を突っ込んでいる感じをもつ。このイタさの由来を考察していくことが我々の課題なのである。

 と、まあ、勇ましいことを言っておいてなんだが、この作業は稿を改めて行うことにしたい。少し長くなりそうなので。

 ということで、最初の話題に戻るのだが、『Radio To Heart 2』、なかなかに面白い。ここ数年ラジオやらWebラジオにはとんとご無沙汰だったのだが、久しぶりに絡めとられてしまった。

 ただ、この楽しさは説明するのが難しい。とにかく酷くグダグダだ。伊藤静も落合祐里香も正直どうしようもない。しかし、これが化学反応というものなのだろうか、ガラの悪さとアタマの悪さが噛み合って、なんだかすべてが許せてしまう。さらには、聴き続けていくと、今度はグダグダさが麻薬的な心地よさをもって響いてきてしまうのだ。いやはや、キャラクターの組み合わせの妙としか言いようがない。少なくとも私にとっては『To Heart 2』のゲームやアニメよりも面白い。今や、タマ姉&このみよりも、伊藤静&落合祐里香の印象のほうが脳に濃く焼きついてしまっている。

 ただ、一つ気になるのは、この四月から地上派に進出してしまうことだ。これで、あの素晴らしきグダグダ感がなくなってしまうと惜しい。ダメ度が減少しないことをただただ祈るばかりである。

 ついでに、落合祐里香がもう少し幸せになることも祈っておこう。どうやら私は年甲斐もなくゆりしーの魅力にヤられてしまったようだ。

 追記。このテキストの初稿を書いてからのち、声優のアイドル的受容がさらに一般化し、いくつかの点で記述が古くなってしまったと思われるところがある。しかし、大筋では論旨を変更する必要はないように思うので、そのままにしておく。その後の落合祐里香改め長谷優里奈の活躍あるいは迷走については、まあ、なんというか、コメントはしないでおきたい。

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