萌え四コマはどうしてこうなのか

  萌え系の四コマ誌が増えた。連中がどのあたりを狙っているのか、そして、実際に読んでいるのはどのへんなのか、よくは知らない。
 私にとっての萌え四コマは、栄養ドリンク剤のようなものである。手っ取り早くオタク分を摂取しなくては辛くてやってられないときがある。そんなときに、萌え四コマがちょうどいい、というわけだ。そして、栄養ドリンクが種類豊富にあること自体は、悪いことではない。
 ところが、だ。萌え四コマ誌をぱらぱら眺めてみれば判るように、このジャンル、結構打率が低い。萌え四コマバブルで粗製濫造の風潮であることを引いても、ちょっと平均値が低いように思われる。
 これは困る。たんなる娯楽としてではない。栄養ドリンク剤として読んでいるのだ。効かないと生活に支障が出てしまう。
 というわけで、萌え四コマについてちょっと考えてみた。

 そもそも、萌え四コマとは何なのか。この問いを適切に再定式化するならば、なぜ「萌え」と「四コマ」が結びつくのか、となるだろう。
 ここで、拙稿「萌えの主観説」を参照されたい。そこで私は、萌え妄想はエピソード単位で喚起される、と主張しておいた。萌えるためには大きなストーリーを把握する必要はなく、個々のエピソードを読んでいくだけで足りる。すなわち、萌やすためには、大きなストーリーは必要ない。細かいエピソードが適切に積み重ねられていれば、それだけで萌えは成立しうるのだ。
 これが答えになる。萌え四コマとは、このエピソード至上主義の究極形態なのである。
 萌やすために不必要な要素を削っていく、ということは、すなわち、萌えエピソードの最小単位を追求する、ということである。といっても、一コマや二コマでは、そもそもエピソードが成立しないであろう。四コマがエピソードの最小単位なのだ。
 かくして、萌え漫画の形態は必然的に萌え四コマに帰着するのである。

 しかし、萌え漫画が究極形態であるのなら、どうしてよい作品が増えていかないのだろうか。
 ここで、これまた拙稿「妄想の弁証法」を参照していただきたい。
 その基本的な主張は、「クリエイターが萌えを追求しようとすると、かえって萌えなくなる」というものである。その理由は、萌えキャラを造形しようとだけしても、結局のところ、記号を寄せ集めた薄っぺらいキャラしかできないから、であった。
 この理論、まさに現在のダメな萌え四コマに当てはまると思われる。
 薄っぺらい記号そのもののキャラがチマチマ描かれているだけ。
 これでは萌えない。一定の修練を積んだオタクの妄想は、こんなもので発動することはないのである。

 さて、以上の考察から導かれる結論は、意外に地味なものである。
 普通の四コマ漫画としても面白いものでなくては、萌える四コマとして成立しないのである。
 キャラ萌えが成立するためには、キャラが最初の記号的な設定を超えて、立ちと深みをもっていなくてはならない。そして、そのためには、その漫画が萌え以外のところできちんと漫画として読めるものになっていなければならない。
 これはつまり、四コマのエピソードがそれとして面白くなければならない、ということであろう。
 なんだか当たり前のことのような気がする。しかし、萌え四コマの現状はこうなっていない。受けそうな造形のキャラを並べることで終わって、四コマのエピソードのキレ味を等閑にしたもののなんと多いことか。
 ただまあ、これは皮肉なことでもある。
 萌え四コマが四コマであるのは、萌えのみを追求した結果のはずなのだ。それこそ栄養ドリンク剤のように、手軽に萌えを摂取できるための手段としての萌え四コマだったはずだ。
 しかし、萌えのみを追求するがゆえに、萌え四コマは、妄想の弁証法に、キャラが記号化してかえって萌えなくなるという逆説に、非常に容易に嵌まり込むものになってしまっているのだ。
 人生、楽はできないのである。萌えにかんしても、然り。
 萌えさえあればオタクが喰いついて儲かるだろ、程度の萌え四コマは、結局失敗するのだ。

 なんだか話がネガティヴな方向に流れすぎたので、最後に現在の時点での私のお気に入りの単行本を挙げておく。萌え補給のために入手したものだが、期待以上に楽しませてもらいました。

 まずは野々原ちき『姉妹の方程式』。
 地味さが肝である。実は一美などは結構エキセントリックな造形で、この造形をそのまま転がしてしまうと、派手ではあるがありがちなエピソードしか出てこない危険性もあった。しかし、貧乏姉妹モノ、という地味な枷が上手い具合にこのあたりを和らげて、いい雰囲気にしているんじゃよ。
 次いで荒井チェリー『三者三葉』。
 この作品、体力バカ、腹黒メガネ、(元)お嬢様、とステロタイプなところを並べただけのように一見思える。しかし、キャラの属性に頼らず、きちんと三人娘の三様の関係を構築して、それに基づいて話を転がしているので、ちゃんと面白いのである。まあ、こんなこと基本の「き」なのだが。安心して読める。
 最後に弓長九天『さゆリン』。
 これはもう、言うまでもない。主人公たるさゆりさんのキャラがガッチリ立っているので面白いのだ。ただ、濃い人が一人だけなので、ネタ出しが大変そうだ。先に挙げた二作品のように濃いのが複数いれば、そのカラミで話を転がし易いと思うのだが。逆に言うと、キャラを増やして話を転がすようになってしまってはこの作品の独特の味が失われてしまうのかもしれない。これからの作者のお手並み拝見といったところである。

 まああんまり数を挙げても仕方ないので、ごく最近のを三つくらい、ということで。
 この萌え四コマバブルもどうせすぐはじけるのだろうが、楽しい作品はジャンル全体の沈没に巻き込まれずに残って欲しいものである。

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