「ヒーローになる」とはどういうことか

 「燃えるヒーローとはなにか」については色々と考えてきたのであるが、ようやっと少し何かがわかってきた気がする。まとめてみたい。
 ちなみに、以下の考察は、パンダマン氏の重要な問題提起がなければ生まれることはなかった。どうもありがとうございました。

 ヒーローの一つの特徴から出発したい。これだ。
 絶体絶命のピンチを乗り越え、運命を切り開くのがヒーローである。
 「和月伸宏『武装錬金』にみる「ヒーローとはなにか」」などで指摘した論点である。ところが、ここには一つの難問がある。絶体絶命なのに、どうしてそのピンチを乗り越えられるのだろうか。

 ここで、ヒーローの能力を考えて、理屈で処理しようとすると、袋小路にはまってしまう。乗り越えられる能力があったのならば、絶体絶命ではなかったことになってしまうから。
 では、何に頼るべきか。端的に「奇跡」だと思われる。
 ヒーローは奇跡を起こすから伝説の英雄になるのだ。

 問題は、奇跡をどのように表現するかだ。
 注意すべきは、奇跡を、キャラクターの設定つまりヒーローの能力に組み込むことはできない、ということだ。主人公が奇跡を起こす能力をもっているのならば、それは奇跡でもなんでもないだろう。
 奇跡は、物語のなかで否応なしに起こってしまうものである。奇跡は、キャラクターの構成要素ではなく、物語の構成要素なのである。
 「オタク道補論・妄想の二つの原理」で提示した、燃えは燃える物語を必要とする、ということも、ここから理解できる。燃えるヒーローは奇跡を要求するが、その奇跡は燃える物語においてしか語れない、というわけだ。
 これはすなわち、奇跡を起こした伝説があってはじめてヒーローが成立するということである。

 つまり、あるキャラクターがヒーローであるかどうかは、そのキャラクターが何を成し遂げたかという結果にそくして決まるのである。
 当たり前の話だ。いくら潜在能力があろうが、英雄的行為を実際に示さねばヒーローにはなれない。やればできる子では駄目だ。やらねばならないのだ。逆に、どんなに能力がなくとも、奇跡を呼んだ者は、それだけでヒーローと見なされる。能力などは、まったく無関係なのだ。
 つまり、最初からヒーローであるようなキャラクターはいないとも言える。一つの奇跡の物語が終わったあとに、ヒーローは生まれる。物語が最後まで語られて、一つの冒険の伝説が幕を閉じるまでは、そこにヒーローは存在していないのである。

 ただし、これで話が終わるわけではない。
 ヒーローは奇跡を呼ぶ、と述べた。しかし、だ。露骨にご都合主義に奇跡が起これば、読者は萎えてしまうだろう。作者のエコヒイキがあるように思われたら、そのキャラクターはヒーローとして認めてもらえない。
 奇跡が起きればいいというものではないのだ。あくまで正当な奇跡が起きなければならない。
 つまり、このキャラクターにならここで奇跡が起こってもいい、起こってほしい、と読者が思っていなければ、たとえ奇跡を起こしても、ヒーローは成立しないのである。
 これはすなわち、奇跡に値するような者のみが奇跡を呼ぶことができるということに他ならない。
 しばしば言われる、愛や勇気が奇跡を起こす、という台詞は、このことを指している。そのキャラクターの愛や勇気をきちんと魅力的に描いていれば、奇跡が起こっても皆が納得するのである。これは馬鹿馬鹿しいことではまったくない。英雄は世界に愛されているからこそ奇跡を呼ぶ。そして、物語の世界を支えているのは、まず読者なのだ。

 ここから、「ヒーローになる」ということは、一見矛盾した様態をもつ、ということが導かれる。
 最初からヒーローであるようなキャラクターはいないにもかかわらず、真のヒーローは生まれたときからヒーローであることを約束されているのだ。
 物語で描かれるヒーローの生き様は、まさにそのキャラクターが奇跡に値するものであることを示すものでなければならない。そして、ヒーローらしからぬ振る舞いを一度でも行えば、奇跡はもはや説得力を失ってしまうだろう。その意味では、ヒーローは最初からヒーローでなければならない。
 「成長のドラマとヒーローの論理」での、ヒーローは最初からヒーローであって成長しない、というテーゼは、ここからも理解できるわけだ。

 「奇跡」という観点から、ヒーロー論をまとめてみた。かなり見通しがよくなったように思えるのだが、どうだろう。

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