オタク道補論・二次創作の倫理

はじめに

 妄想こそがオタクの本質をなす。詳しくは「オタク道」を参照されたい。
 そして、妄想の延長線上に二次創作行為を位置づけることができる。すなわち、文化としてのオタクには、二次創作が不可欠である。
 となれば、そのようなオタクは、オタクではない連中とは少々異なった倫理観をもつのではないか。二次創作を本質とするオタク固有の価値観、「二次創作の倫理」を記述してみたい。

1 キャラクターおよび世界観の共有

 「二次創作の倫理」の根本命題は、一次創作におけるキャラクターと世界観は公共財であり、私有物ではない、というものである。
 これですべてが尽きている。
 二次創作とは、オリジナルの作品からキャラクターないしは世界観を抜き出して、別の作品を創作する行為である。詳しくは「オタク道改訂・妄想の諸類型」などを参照されたい。
 さて、ここで問題になるのは、そのキャラクターないしは世界観は誰のものか、ということである。
 「二次創作の倫理」においては、キャラクターおよび世界観は誰のものでもない。公共財である。一次創作者のものではないのだ。
 そして、キャラクターや世界観は、いくら創作につかっても減ることがないのだから、二次創作は完全に自由である。何ひとつ縛りはない。何をつくろうが、それでいくら金を儲けようが、どうしようが自由なのである。

2 一次創作者の心情について

 「二次創作の倫理」においては、いかに一次創作者が二次創作を嫌がろうが、それを阻止することはできないことになる。愛があろうがなかろうがエロだろうが鬼畜だろうが、二次創作を差し止めることはできない。
 キャラクターも世界観も一次創作者の私有物ではなく、公共の文化財なのだから。
 愛や尊敬のない二次創作に一次創作者が不快感を覚えることもあるかもしれない。気持ちはわかる。しかし、心情的に理解できることがすべて許されるわけではない。いくら嫌な奴でも殴ってはいけないのと同じことだ。二次創作は、一次創作者が好もうが好まなかろうが、自由なのだ。
 一次創作を愛するがゆえに二次創作が行われる場合には、少なからぬ二次創作者が一次創作者の意向を尊重するのかもしれない。しかし、これは、あくまで各々の二次創作者の好意に任せるべき問題として捉えたい。
 もちろん、一次創作者と二次創作者とのあいだに良好な関係があったほうが、状況としては望ましい。私もこれは認める。しかし、原則的には、現在、ディズニーやらコナミやらの著作権者が二次創作者の意向を無視しても問題ないのと同様に、「二次創作の倫理」では一次創作者の意向が無力になるのである。
 ちなみに、「二次創作の倫理」の図式には、著作権者という要素はそもそも登場してこない。

3 一次創作、盗作、二次創作の区別

 注意したいのは、もちろん盗作は許されない、ということである。「二次創作の倫理」において、二次創作と盗作を区別できるのか。簡単にできる。
 モデルとして歴史小説を考えてみればよい。
 歴史小説におけるキャラクターや世界観は、もちろん、誰がどう使ってもよいものだ。吉川英治が宮本武蔵について書いたからといって、他の作家が宮本武蔵について書けなくなるわけではない。歴史上の人物やら歴史上の風俗やらは、歴史小説を創作する者すべてにとっての公共財であり、私有物ではないわけだ。
 しかし、歴史小説にも盗作は存在する。吉川英治『宮本武蔵』の文章をそのまま使えば盗作だ。ここになんら問題はない。
 二次創作においても、まったく同じことが成り立つ。
 オリジナルの作品からキャラクターや世界観を自由に抜き出してよい、ということと、盗作をしてはならない、ということは、矛盾することなく両立可能なのである。
 この歴史小説との類比をもう少し展開すると、二次創作の存在論に導かれる。「二次創作の倫理」は、虚構のキャラクターや世界観は、一次創作者の脳内にあるのではなく、非人称的な虚構空間に公共的にアクセス可能なかたちで存在している、と解釈するのである。
 盗作と二次創作とは明快に区別することができる。では、一次創作と二次創作とはどうか。これまた明快に区別されることは言うまでもない。
 一次創作と二次創作は明確な対照のもとに置かれねばならない。二次創作は、先行する一次創作をまさに自らのオリジナルとして承認することにおいて成立するからだ。一次創作がなければ二次創作にならない、という、ごく当たり前のことだ。
 このとき、一次創作は、虚構のキャラクターや世界観の最初の発見として解釈される。一次創作者とは、文化的創造のための鉱脈の第一発見者なのである。二次創作者は、鉱脈の利用者ということになる。
 一方、盗作は一次創作を偽装するものである。つまり、盗作の存在は、一次創作の身分そのものを侵害し揺るがす。この点で、盗作と二次創作とは決定的に異なるわけだ。
 ちなみに、ポストモダン系論者の「あらゆるテキストはなにかのコピーである」という主張は、盗作と一次創作の境界線をも揺るがすものであり、「二次創作の倫理」よりもかなり過激なものである。そこまでの主張をオタクに帰するのは、買いかぶりであろう。ただし、ある意味で盗人猛々しいにも程がある「二次創作の倫理」をさらに正当化しようとすれば、現代批評理論を引っ張ってこざるをえなくなるのかもしれない。

4 模写と二次創作の区別

 以上の議論は言語表現の場面をモデルにしていた。しかし、漫画やイラストレーション、さらにゲームやらアニメやらの絵画表現については、もう少し考察が必要になってくる。
 模写と二次創作はどのように区別できるのだろうか。
 あるイラストとそっくりのイラストを描けば、それは模写になる。模写はオリジナルに似ている。当たり前のことだ。
 しかし、二次創作のイラストは一次創作のイラストに似てはいるが、模写ではない。同一のキャラクターを描いているから似ているだけなのだ。
 ポチという犬の写真があったとする。その写真そのものを撮った写真は、オリジナルの写真と似ているだろう。一方、ポチを撮った別の写真も、最初の写真と似ているはずだ。しかし、二つの類似性はまったく意味が異なるので、区別されるべきだ。それと同じことである。
 ただし、すぐ気づくことであるが、犬の場合と異なり、虚構のイラストのキャラクターは実在しない。であれば、オリジナルを模写するしかないのではないか。そうではない。ここで、「オタク道」で提示した「キャラ立て読解」という概念を想起されたい。
 二次創作において、オタクはオリジナルのイラストを模写するのではない。オリジナルのイラストを、当該のキャラクターについてのデザイン画として解釈するのだ。そして、そのキャラクターについてのまったく新しいイラストを描いているのである。これは模写とは異なる行為である。
 では、デザイン画そのものの位置づけはどうなるのか。オリジナルの作品からキャラクターや世界観を自由に抜き出してよいのであれば、キャラクターデザインのみを事とする仕事は不可能になってしまうのではないか。少なくとも、キャラクターデザイナーの仕事に報酬を払う人はいなくなってしまうのではないか。
 これも早計である。キャラクターデザイン画は、完成した一個の作品ではない。あくまで一次創作のための材料にすぎない。それゆえ、二次創作の対象にはなりえないのである。
 二次創作の対象は、あくまで作品として発表されたものに限られる。それ以前の段階でキャラクターや世界観を共有する創作活動は、二次創作ではなく、クロスワールドやワールドシェアリングであり、これらは別に考えるべきであろう。

5 二次創作の倫理

 このように、一次創作と、盗作と、二次創作、この三つを区別し、二次創作に固有の位置を割り当てるところに、「二次創作の倫理」は成立する。
 このように定式化された二次創作は、一次創作が自由であるのと同様に、まったく自由とみなされるのである。一次であれ二次であれ、創作であることには変わりはない、というわけだ。
 一方、依然として、盗作は否定される。これまで盗作と一緒くたに否定されてきた二次創作を、一次創作と同じカテゴリーに入れるのである。二次創作も生産的な文化活動である、という意識がこれを裏打ちしている。
 もちろん、境界線上にあって分類の難しい事態はいろいろと考えられる。しかし、だからといって、この基本構図そのものを拒否するべきではない。

6 二次創作と著作権

 オタク(すべてとはいわないが少なくともある一定の割合を占める)が自然にもっている倫理観は、以上のようなものではないか。
 ところで、言うまでもなく、この「二次創作の倫理」は、現行の著作権概念の基礎にある思想とは、かなり異なるものである。その意味で、現行の著作権の概念は、オタク的倫理観と原理的に折り合いがつきにくいものだ、と言えるだろう。
 現在、二次創作活動は、現行法と折り合いをつけつつ行われている。というより、折り合いをつけつつ行わざるをえない。これは仕方のないことだ。
 しかし、処世術はあくまで処世術である。結局は、その場しのぎの対症療法にすぎない。現行法を問い直すことなく前提にして、その枠内でいかに二次創作をお目こぼししてもらうか、という問題設定は、もはや有効性を失っている。というより、同じ話の繰り返しばかりでつまらない。結局は、不毛なマナー論議と「いかにもお勉強しました」的法律知識の垂れ流しに終わってしまっている。
 オタクがらみで著作権論をするならば、現在の二次創作を巡る問題状況を、旧来の著作権思想と「二次創作の倫理」との先鋭な対決として捉え直すべきだ。これにより、いくつか新しい視野が開けてくることが期待できる。たとえば、著作権概念の限界については、音楽におけるサンプリングやら現代アートやらデジタルコピーの技術的進歩やらに絡めて、多くの議論が蓄積されている。二次創作という文化を、この流れに棹さすものとして捉えることもできるようになるだろう。この手の話は誰かがやっていそうに見えて、あまりきちんと詰められたことがない。
 問題の根本、すなわち、キャラクターについてのオタク独特の存在論に目を向けることなしには、内容のある議論は不可能なのである。

おわりに

 本稿は第二版である。
 初稿にかなりの加筆修正を施してある。とりわけ「二次創作の倫理」の位置づけなどは、かなり変更した。もう少し読めるものになっただろうか。
 この書き換えは、サイト「S猫」のしろねこま氏から頂いたコメントをうけてのものである。ほんとうにありがとうございました。
 ただし、もちろん本稿の叙述のすべての責任はエフヤマダにあることを付記しておく。

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