オタク道改訂・妄想の諸類型

はじめに

 本稿では、「オタク道」ならびにそれ以降書き連ねてきた私のオタク論に修正を加えることを試みたい。
 私の議論の欠陥を指摘してくださったのは、サイト「S猫」の管理人である、しろねこま氏である。本稿に新しい発想があるとするならば、そのほとんどがしろねこま氏の提言に触発をうけてのものである。たとえば、「世界観の共有」「何々化妄想の位置づけ」「RPGにおける妄想」などの鍵となる論点は、すべてしろねこま氏に提示していただいたものであり、私の発見ではない。
 ただし、本稿の叙述の責任はすべて私エフヤマダにある。

「妄想」とはなにか

 私はオタクの本質を「妄想」に置く。この主張そのものは変わらない。
 欠陥があったのは「妄想」の定義である。ただし、全面的な誤りというわけではない。定義が一面的であったのだ。「妄想」の一種のみをとりあげて、それがすべてであるかのように語ってしまっていたのである。
 まず、新しい「妄想」の定義として、以下のものを採用したい。
 「妄想」とは、オリジナルの物語から要素を抜き出して、それを利用して別の物語を創造することである。

「妄想」の諸類型

 このとき、「妄想」は、オリジナルの物語のどの要素に着目するかによって、いくつかの類型に分類されることになる。
 オリジナルの物語となんらかの要素を共有することがなければ、それは「妄想」ではなく「創作」である。それゆえ、定義上、「妄想」の産物の物語は、オリジナルの物語と要素を共有する。その共有する要素の種類に着目することにより、「妄想」を分類することができるのである。
 可能性はいくつか考えられるが、代表的なものとして、以下の三つを本稿では検討したい。

(1) 「キャラクター共有妄想」。
(2) 「世界観共有妄想」。
(3) 「構造共有妄想」。

 どれも、オタク的な「妄想」の営みとして無視してはならないものである。ただし、あらゆる「妄想」がどれかにきちんと分類される、と主張したいわけではない。これらは理念型である。実際の「妄想」や「二次創作」は、これらの組み合わせから理解されねばならない。
 順に見ていこう。

「キャラクター共有妄想」とはなにか

 これは、オリジナルの物語から、「キャラクター」を抜き出して、それについて「妄想」を行うものである。このタイプの「妄想」については、すでにいくつかの拙稿で考察を行ってきた。説明は不要であろう。
 私の過ちは、「キャラクター共有妄想」のみを「妄想」と考えて、他のタイプの「妄想」への配視を怠っていたことにある。「キャラクター共有妄想」は、あくまで「妄想」一般の一類型として位置づけるべきであったのだ。

「世界観共有妄想」とはなにか

 これは、オリジナルの物語から、「世界観」を抜き出して、それについて「妄想」を行うものである。
 「キャラクター共有妄想」は、ある物語のキャラを別のシチュエーションないしは別の世界に置く。それにたいして、「世界観共有妄想」は、ある物語の世界に別の視点や別のキャラを置きいれるのである。
 オリジナルの物語内の「個別的対象」ではなく、「法則」や「規則」、「制度」などを保存する、といってもよいだろう。
 『機動戦士ガンダム』を肴に、アムロもシャアも出てこない「一年戦争」の一風景を妄想する場合などを考えていただけばわかりやすいだろう。この「妄想」は、「世界観が立っている」物語について成立しやすい。SFやファンタジー系などが典型であるが、もちろん、祐巳や祥子の出てこない「リリアン女学園」の一風景の妄想などもありえよう。
 このとき、オリジナルのキャラは一人もでてこなくてもかまわない。「キャラクター共有妄想」とはまったく異なるわけだ。「世界観」がきちんと共有されていれば、それで「妄想」は「妄想」として成立する。
 私はこのタイプの「妄想」の存在を見落としていた。
 どうしてこんな失敗をしたのか反省してみるに、どうも「考証」の位置づけが甘かったようだ。「オタク的な考証」を「ハードSF愛好者的な考証」と混同していたようだ。これらをきちんと区別すべきであった。
 「批評」は作品そのものを対象とするが、「考証」は作品の物語内の世界観を対象とする。「ハードSF愛好者的な考証」は、世界観の合理的再構成そのものを目的とする。これはしばしば(つねにではない)、整合性やリアリティのみを至上価値とする、作品の擬似批評になってしまう。オタクとしては、これはつまらない態度である。「オタク的な考証」においては、「妄想」のために「物語から魅力的な世界観を抽出すること」がなされる。あくまで「考証」の目的は「妄想」にある。「考証」の眼目を異にするわけだ。これを「妄想」のための「世界観立て読解」とでも名づけておこうか。
 また、「萌え」と「抜き」について区別を行った際に、シチュエーション重視の視点をオタク的ではないものとして排除したのだが、こことの混同もあったかもしれない。

「構造共有妄想」とはなにか

 これは、オリジナルの物語から、「構造」のみを抜き出して、それについて「妄想」を行うものである。
 「妄想」に基づく「二次創作」を思い浮かべてもらうとわかりやすい。
 この「妄想」はしばしば「何々化」という表現で語られる。極端なものとしては「女体化」や、腐女子が行う「同性愛者化」が挙げられる。穏健なものとしては、「お笑い化」「ラブコメ化」などが挙げられよう。一時期は、猫も杓子も「あずまんが化」や「バキ化」「ジョジョ化」をやっていたこともあった。
 この場合、キャラも世界観も保存されているとは言いがたい。
 たとえば、キャラを「女体化」してしまえば、世界観も大きな変更を蒙るだろう。また、世界観を「お笑い化」してしまえば、キャラの属性も変わらざるをえないだろう。
 この「妄想」は「キャラクター共有妄想」でも「世界観共有妄想」でもないわけだ。
 では、ここではなにがオリジナルの物語と共有されている要素なのか。それは、「構造」である。
 「何々化妄想」においては、キャラおよび世界観の変換がなされるわけだ。その際、変換は規則に則っていなければならないし、その規則は誰にでも容易に理解可能でなければならない、という縛りがあると思われる。
 理解可能な規則に基づく変換は、物語のキャラや世界観を変更する。しかし、「物語の構造」は保存するのである。
 もっともわかりやすいのが、キャラ同士の関係性である。
 『月姫』世界からバトル要素を完全に排して「ラブコメ化」しても、志貴は秋葉の尻にしかれっぱなしでなければおかしい。クトゥルーの神々を「女体化」しても、ニャルラトホテップとクトゥグアは仲が悪くなければおかしい。やおい妄想において、カップリングの受け攻めにあれだけ熱くなるのも、「同性愛者化」したとしても、物語内のキャラの人間関係という「構造」は最大限保存すべきだからであろう。
 もちろん「構造」は複数のキャラ同士の関係性だけのことではない。「戦闘機を萌え化しました」とかいう場合には、その一キャラのデザインが、もとの戦闘機のデザインと「構造」を共有していることが要求されよう。
 変換規則が大胆すぎる場合や一貫性が欠ける場合には、「構造」すら保存されなくなるだろう。それはもはや「妄想」ではなく、別の作品の「創作」と解釈される。
 これが「構造共有妄想」の論理である。
 残念ながら、私はこれも把握し損ねていた。

作品の類型と「妄想」の類型

 以上、「妄想」の三類型を確認した。次いで、これらのオタク論における位置づけを確認しておきたい。
 「妄想」はオタクの能動的な営みである。それゆえ、私は「妄想」の類型を作品のジャンルに直接的に結びつける発想には反対である。以上の議論は、あくまでオタクの営みの分類であって、作品の分類ではない。私の考えでは、オタク論から作品論を行うと必ず破綻する。逆も然り。
 もちろん、物語の類型と「妄想」の類型との間には、親和性があることは確かだ。
 たとえば、世界観が立っていない場合には、「世界観共有妄想」はできない、というより、しても仕方がない。現実の現代社会がそのまま舞台になっている物語などはそうである。また、一部のRPGのように、キャラの規定が厳密になされていない場合には、純粋な「キャラクター共有妄想」は成立しにくいだろう。「世界観共有妄想」が中心になる。このときは、キャラについて「妄想」しているように見える場合でも、「世界観を反映した職業属性」などが「妄想」の内実を支えていることが多い。
 別の角度から言えば、「キャラクター共有妄想」好きと「世界観共有妄想」好き、という対比には、ファンタジー派とSF派、仮面ライダー派とウルトラマン派、スーパー派とリアル派、といったような対比が重なってきうる。
 しかし、原理的には、どの物語についてどう「妄想」しようがオタクの勝手、と言っておくべきだろう。別にハードSFをキャラ萌えで読んでもいいし、萌え四コマの世界観を妄想してもいいのだ。当人が楽しければ。
 また、近年のオタクにおいては「キャラクター共有妄想」の契機のが強い、ということも言えるかもしれないが、時代の診断をすることは本稿の目的ではない。オタクの「妄想」の醍醐味は、「作品の正しい読み方」を無視するところにあると私は考えている。事実問題としての親和性や流行を強調しすぎてはならないだろう。
 「キャラクター共有妄想」のみに目を取られて、「世界観共有妄想」や「構造共有妄想」が別に独特の論理をもって存在していることを見失うと、オタクの正しい把握は損なわれてしまうのだ。

「妄想」に類似しているが区別すべきもの

 新しい定義に則ると、これまでの私の主張よりも「妄想」概念の外延がかなり広くなることになる。そこで、ここで「妄想」と混同しやすいものをいくつか確認し、注意を喚起しておきたい。
 ここでのポイントは、「妄想」は能動的な営みではあるが、あくまで二次創作である、ということだ。
 まず、オリジナルの物語の作者が続編を創作する営みは、「妄想」ではない。キャラや世界観を共有した物語を創作するわけだが、もちろんこれは「オリジナルの物語の情報量の拡大」であって、「妄想」ではない。ある意味、当たり前の話である。
 この場合も、キャラや世界観の保存が問題になることがある。たとえば、『魔界都市〈新宿〉』のメフィストは今とは別人じゃん、といったように。しかし、これは「妄想」におけるものとは別問題である。
 さらに、なにかの原作を「翻案」して新しい作品を創作する営みも「妄想」ではない。同様の理由で、いわゆる「メディアミックス」も別扱いにすべきであろう。漫画化とか、アニメ化とか、ノベライゼーションとかいった作業は、それはそれとして一つの一次創作行為として捉えるべきであり、「妄想」の論理で解釈すべきではない。
 また、「シェアードキャラクター(クロスワールド)」や「シェアードワールド」を前提にした創作も、厳密にはオタクの「妄想」とは区別すべきである。キャラや世界観の設定を共有して、作品の競作が行われることがある。このとき、その創作行為は、「キャラクター共有妄想」や「世界観共有妄想」にかなり類似したものとなる。
 しかし、ここで注意すべきは、オタクは、そもそもキャラや世界観の共有を前提としていない物語についても「キャラクター共有妄想」や「世界観共有妄想」をしうる、ということである。
 これは、オタクの「妄想」において、「オリジナルの物語についてのオタク的な読み」が先行しているからだ。先に指摘した「世界観立て読解」や、「オタク道」で指摘した「キャラ立て読解」などがその一例となる。
 最初から設定の共有が前提された創作には、この「オタク的な読解」の契機が決定的に欠けている。やはりオタク特有の「妄想」とは区別すべきなのである。ことオタク論ということになれば、「妄想」だけを強調するのは片手落ちであり、独特の物語読解の作法にも着目すべきだと私は考える。
 同様の理由で、TRPGやMMORPGを典型とする、自由度の高いゲームにおける快楽も、厳密には「妄想」とは言えない。「欠落のあるオリジナルの物語を埋めていきつつ読む快楽」と「オリジナルの物語を読んだあと、別の物語を妄想する快楽」とは、近いところにあるが、やはり異なる。
 ゲーマーはゲームを楽しむが、オタクはゲームをやり終わったあとに妄想を楽しむのである。この意味で、オタクとゲーマーは異なる。自由度のない一本道シナリオを許容するか否かなどを考えてみれば、この差異は容易に理解できるだろう。もちろん、ゲーマーでありかつオタクである人間も多いのだが。
 ここまで見てくると、オタク論が独特の領域をなすことを改めて理解していただけると思う。旧来の作品論の概念でも作家論の概念でも読者論の概念でも、オタクをきちんと位置づけることはできない。妄想論、二次創作論を核にしなければならないのだ。ところが、ここはほぼ未踏の地で、手探りでやっていくほかないのよ。

おわりに

 まだまだ論じるべきことは残っている。以上の「妄想」の三類型を、「萌え」と「燃え」という概念対と交錯させる作業などが必要になってくるはずだ。
 さらには、これまでの拙稿で、無理矢理「キャラ共有妄想」から解釈していた諸現象の位置づけ直しもしなければならない。
 しかし、ちょっともう体力の限界なので、指摘するだけにとどめたい。
 思い返せば、私のオタク論の基本的立場をまとめた「オタク道」は、実はかなり古いテキストである。もっとも古い版には2000年の日付がついていたりする。当時は、無理矢理カタギの友人に読ませたりしていた。なんとも酷いことをしていたものである。
 それ以降、いろいろとオタクについて考えてきた。たまにはネットをうろついて他人の文章を読んだりもした。そのうえで、あまり修正の必要性を感じることはなかったのだが、いやはや甘かった。見落としていたことがあったよ、間違ってたよ。反省するに、「キャラクター共有妄想」中心主義という自らの趣味嗜好に囚われるあまり、大局を見失っていたし、利口ぶったSF者どもの論理だけで愛のない世界観考証にうんざりするあまり、「世界観共有妄想」の快楽を忘れていたようだ。
 ともあれ、久しぶりに他人の指摘に心から「エウレカー!」と叫ぶ体験をした。このようにして学問というのは進歩していくのだなあ、と思うと感慨深いものがある。
 しろねこま氏には心から感謝したい。本当にありがとうございました。

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