眼鏡っ娘論のパラダイム・チェンジのために

はじめに

 我々は眼鏡っ娘について、いかにして語るべきなのだろうか。本稿ではこれを改めて問うてみたい。
 なにをいまさら、と思うなかれ。我々は根本的に誤っていたのかもしれないのだ。少なくとも、昔の私は問題の所在をよく把握できていなかった。

1 旧来の眼鏡っ娘論

 そもそも眼鏡っ娘論の問題とはどのようなものか。問題設定のあり方に着目してみたい。旧来の眼鏡っ娘論の問題設定とは、以下のようなものではなかったか。
 眼鏡っ娘がいる一方で、眼鏡っ娘ではない娘がいる。どこからが眼鏡っ娘で、どこからがそうでないのか、境界線を引かねばならない。
 つまり、眼鏡っ娘という集合から非眼鏡っ娘を排除するための、境界線の論理を考察してきたのである。
 図式で表せば、こうなる。

 「排除の図式;眼鏡っ娘/(境界線の論理)/非眼鏡っ娘」

 このような問題設定が力をもっていたのは、まさに境界線上の事例があったからだ。すなわち、以下の二つである。
 第一に、「かつては眼鏡をかけていたのにコンタクトレンズになった娘」。
 第二に、「目が悪いわけではないのに伊達眼鏡をかける娘」。
 両方ともいまさら説明する必要もないだろうが、もう少し具体的な形となれば、「眼鏡を外したら美人でした」と「オサレメガネ」ということになろうか。この二つをどのように位置づけるか、多くの場合はどのように否定するかで、喧々諤々の論争が繰り広げられてきたのである。

2 旧来の眼鏡っ娘論の限界

 しかし私は、もはやこのような問題設定そのものを乗り越える時期ではないか、と考える。
 境界線の論理についていくら言葉を積み重ねようと、結局は排除の図式に則ったものにしかならない。「これは眼鏡っ娘ではない」という否定を誰かに突きつける言説にしかならないのである。
 眼鏡っ娘の本質を語る営みとしては、これは空しい行いではなかったか。

3 新しい眼鏡っ娘論の構図

 そこで、私は以下のような図式を提案したい。

 「結合の図式;娘→(似合いの論理)←眼鏡」

 「眼鏡っ娘」という言葉はわかりやすいが、眼鏡はかけたりはずしたりできる、という重要な事実を隠蔽しがちである。
 素朴に考えてみよう。眼鏡っ娘というものが単純なものとして存在するわけではない。眼鏡っ娘とは、眼鏡と「娘」の結合体なのである。
 そうであるならば、眼鏡っ娘論とは、眼鏡と「娘」がいかに結合すべきか、という観点から語られるべきということになる。
 これはつまり、ある「娘」にどのような眼鏡が似合うのか、どうして眼鏡が似合うのかを語っていく、ということだ。これを似合いの論理と名づけよう。
 似合いの論理の具体的展開はいろいろと考えられるだろう。私の「屈折理論」などはその一つの試みである。

4 二つの図式における似合いの論理

 もちろん、これまで似合いの論理が語られてこなかったわけではない。たしかに様々に語られてきた。眼鏡っ娘にはゲーテが似合う、白衣もいい、三つ編みはどうだ、等々。
 排除の図式ではなく結合の図式を採用することで、なにが変わるのか。
 眼鏡っ娘一般について教条的に語るのではなく、具体的な眼鏡っ娘について多様に語ることができるようになるのだ。
 とりわけ、ある似合いを語ることが、他の眼鏡っ娘の可能性を否定することにならなくなることに注目したい。排除の図式においては、「眼鏡っ娘には文学が似合う」という主張は、「文学が似合わなければ眼鏡っ娘ではない」という主張を導いてしまう。
 しかし、結合の図式においてはそうならない。結合の図式は、「この娘に眼鏡が似合うのは文学のゆえだ」と主張するのである。ここでの似合いの論理は、あくまである特定の「娘」と眼鏡との間に成立するものであり、他の眼鏡っ娘における別種の似合いの可能性を否定することはない。
 すなわち、豊かな多様性を保持しつつ、様々な眼鏡っ娘の似合いについて語り合うことができるようになるのである。

5 諸問題の再定式化

 さて、結合の図式に則るならば、これまでの眼鏡っ娘をめぐる諸問題を新たな光のもとで捉えなおすことができる。
 「眼鏡を外したら美人でした」への批判がどうして問題設定として不適切なのかといえば、眼鏡っ娘か非眼鏡っ娘かの二者択一を迫ることで、似合う眼鏡と似合わない眼鏡があることを見失わせるからである。
 「かつては眼鏡をかけていたのにコンタクトレンズになる」表象が流通する理由は、以下のように分析すべきだろう。眼鏡が似合う「娘」が存在するということを理解していないから、「娘」に似合う眼鏡を的確に見い出すことができないから、コンタクトに安易に飛びついてしまうのだ。
 似合いの論理をもってすれば、コンタクト推進派をただ殺戮、駆除するだけでなく、「こういう眼鏡ならとてもよく似合うのに」と積極的な提案をし、洗脳、改宗させることも可能かもしれない。
 ところで、コンタクトと眼鏡の併用については、「眼鏡とコンタクトレンズの対立を再考する」を参照されたい。そこて提示した「かけはずしのダイナミズム」も似合いの論理の一展開と考えられる。
 伊達眼鏡についてはどうか。結合図式からすれば、伊達眼鏡の問題とは、ファッションという着用動機が眼鏡の似合いに否定的な効果を及ぼすかどうか、というものと解釈される。
 私としては、伊達眼鏡は否定すべきではない、と考えている。目が悪くない「娘」が眼鏡をかけようとすれば、伊達眼鏡をかけざるをえないのだ。どうしてこれを否定できようか。伊達眼鏡が敵のように思えてしまうのは、排除の図式に凝り固まっているからである。
 もちろん鼻につくオサレもある。しかし、だからといって眼鏡のアクセサリーとしての機能をすべて悪とするのは行きすぎというものだ。伊達ではない眼鏡にも似合わないものがある。これに「似合わない」と言うためにも、やはりファッションの観点が必要となるのだ。お洒落を過剰に嫌うのはオタクの悪い癖である。
 また、オサレメガネとは異なる伊達眼鏡の可能性については、「『屈折リーベ』唐臼にみる伊達眼鏡」で論じておいた。

おわりに

 排除の図式から結合の図式へ。これが私の提案である。
 伊達眼鏡やコンタクトレンズも含みこんで、より豊かに、より多様に、ただただ肯定的に眼鏡っ娘を語っていきたいのだ。
 なんだか今回も方法論の提示だけで実践が伴っていないのであるが、申し訳ない、それは後の課題としたい。

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