さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
眼鏡者にとって、伊達眼鏡は敵とされている。
しかし、そんなに簡単なものなのか、ということを考えてみたい。
まず、問うべきは、なぜ伊達眼鏡はダメなのか、ということであろう。
普通、こう考えられている。眼鏡をかける必然性がなければ、眼鏡っ娘ではない。とくにかけなくてもよいのにかける眼鏡が伊達眼鏡だとすれば、これは好ましくない、ということになる。判りやすい話だ。
しかし、ここで立ち止まって想定してみよう。
伊達眼鏡をかけざるをえない状況があったらどうするのか。
これは、いかにも人工的な想定のように思われる。しかし、実は、このような事態を描いた作品が既に存在する。
それは、西川魯介『屈折リーベ』である。
眼鏡を語るためには必ず読んでいなければならない必読書。これに、手がかりがある。
第四話「さよならを教えて」において、カラウスが秋保の気を引くために伊達眼鏡をかけるのだ。(p.90ff.)「なんだダテかよ」の一言でバッサリと斬られてしまうのだが、このカラウスの眼鏡をどう評価するのかが問題となる。
ポイントはこうだ。
秋保と異なり、我々にとっては、カラウスが眼鏡をかけるに至る過程が必然的なものとして見えてくるのだ。
恋した男が病的なメガネ者。こっちを向いてもらうには、眼鏡をかける以外にない。それで眼鏡をかける。
恋するキモチは、視力が悪い、ということに負けない、立派な眼鏡をかける理由ではないのか。
こう考えた瞬間、我々にとっては、カラウスの眼鏡はもはや伊達眼鏡ではなくなる。カラウスもまた、変則的ではあるが、眼鏡っ娘の仲間に入る可能性が出てくるわけだ。少なくとも、もはや我々は、条件反射的に伊達眼鏡を拒否する立場に安住することはできないのである。
『屈折リーベ』全体にとっても、カラウスのこのエピソードは重要だ。
眼鏡をかけている篠奈、眼鏡が好きな秋保、これだけでは、話は動かない。眼鏡に縁遠いカラウスの伊達眼鏡こそが、眼鏡とは何か、という根源的な問いかけを展開させる起爆剤となっているのだ。これなしにラブはコメらなかったのだ。
まとめよう。眼鏡者にとって、伊達眼鏡はそう簡単に片付けられるテーマではない。伊達眼鏡は駄目、というのは原則論にすぎない。実際の原則の適用の場面は、もっと複雑で捉えがたいものだ。そして、細部を無視したフェティシズムほどつまらないものはない。我々は常に、伊達眼鏡への配視を忘れてはならないのである。
ともあれ、正味三ページほどのカラウスの眼鏡姿であるが、カラウスの乙女的側面が炸裂した、たいへんによいものであると私は思う。
ゴーグルもかけてるところが、また、もう。