『仮面ライダー響鬼』第三十話問題について

 ここは気をつけたいところなのだが、問題の核心は、あくまで「第三十話があまり褒められた出来ではなかったこと」にある。
 そりゃこれまでの『響鬼』だって完璧にはほど遠かった。言いたいことはいくつもあった。

 でも、やっぱり基本的には面白かったんだよ、これまでは。
 ところが、面白くなかったんだよ、第三十話は。

 「プロデューサーや脚本家が交替したこと」「それに伴って路線変更が行われる(らしい)こと」そのものについては、別にとやかく言うことはない。
 私は高寺成紀の信者でもないし、白倉伸一郎のアンチでもない(つもりだ、誰も信じてくれないがな)。
 『仮面ライダー響鬼』が作品としての統一を保ちつつ、よい方向に完成されていくならば、誰がどうつくろうが、まったく問題はなかったのである。

 でも、面白くなかったんだよ、第三十話は。
 そして、「面白くなかったこと」については、やはり誰かが責めを負うべきなのだ。

 「面白くなかったこと」の原因は、二つのレベルで論じることができる。
 第一に、現スタッフがこんなモノをつくってしまった原因はどこにあるのか、というレベル。第二に、旧スタッフが現スタッフに交替してしまった原因はなにか、というレベルである。
 しかし、この第二レベルでの原因については、ここで私が云々すべきものではない。ここには「大人の事情」というヤツが多分に含まれる。それをここで推測しても有益ではない。
 ということで、以下では、第一のレベルでのみ、原因の追究を試みたい。というか、プロデューサーと脚本家について、日頃から思っていたことを書いておきたい。

 白倉伸一郎には、子どもの未来社、寺子屋新書から出ている『ヒーローと正義』(2004年)という著書がある。
 これを読むと、彼の基本姿勢が、私の「ベタの正義論」の対極にある、ということがよくわかる。
 彼は、現実の正義についての正義論を、そのまま虚構の正義の描写に置き移そうとしているのだ。
 私は前掲拙稿において、そのような試みは、多くの場合作品の燃えを台無しにする、と述べておいた。ただし、「ベタの正義論」は、試みそのものを否定するものではなく、あくまでプラグマティックな提言である。彼の思想そのものを否定する気はない。彼の試みが成功しているのであれば、文句をつける気はまったくない。(ただし、それにしても白倉の議論の運びはちょっと危うすぎる。たとえばロールズを、思想史の文脈抜きに、辞書の定義だけを頼りにやっつける、というのは、「青少年はすべてゲーム脳」という主張くらい乱暴ではないか。)
 しかし、これだけは言っておく。白倉伸一郎がプロデューサーを手がけた平成仮面ライダーシリーズは、すべて、ぜんぶ、みなからみなまで、私は嫌いである。まったく肌に合わない。

 井上敏樹が無能だ、とは誰も言えないだろう。
 私も『鳥人戦隊ジェットマン』や『超光戦士シャンゼリオン』の仕事は非常に高く評価している。
 彼は「調子にのって自分の能力ギリギリの変化球を投げようとするタイプ」に思える。その変化球が上手く決まったのが、『ジェットマン』や『シャンゼリオン』だった、と私は考えている。
 変化球のキレにかんしてならば、私は彼を買っている。

 しかし、これは、井上敏樹が「仮面ライダー」とは相性が絶対的に悪い、ということを意味する。
 なぜならば、「仮面ライダー」は王道でなければならないからだ。
 「東映スーパー戦隊」は、緩い形式を満たしてさえいれば、なにをやってもいいシリーズである。トレンディドラマ戦隊をやってもまったくかまわない。新しいメタルヒーローものをつくろう、という場合も、もちろんなにをやっても自由である。
 こういうところならば、井上敏樹がどういう変化球を投げようが、私はそれにどうこう言うことはしない。結果、面白ければもちろん支持する。
 しかし、「仮面ライダー」だけはそうはいかない。
 「称号としての仮面ライダー」で述べたように、「仮面ライダー」が「仮面ライダー」であるためには、絶対に譲れない魂というものがある。その魂を直球でド真ん中に投げ込んでこない作品には、「仮面ライダー」の「称号」を認めるわけにはいかないのだ。絶対に駄目だ。断固として拒否である。
 ところが、井上敏樹には、こういうド直球を投げ込む能力や心意気があまり見られない。そういう脚本家に「仮面ライダー」を任せるのは、私としてはあまり感心しない。
 技巧派ぶってピロピロと変化球を投げくさり、「仮面ライダー」の「称号」を有名無実のものとしてしまう危険性が大である。多くの平成ライダーでそうだったように。

 というわけで、やはり白倉伸一郎には「ヒーロー」を任せてはならんし、井上敏樹には「仮面ライダー」を任せてはならんのだ、ほらやっぱりこうなったじゃないか、なぜそれにみな気づかんのだ、と私は怒りと哀しみと絶望の怨念を滾らせているわけだ。

 注意してほしいのは、これはあくまで第一のレベルでの原因の話であり、第二レベルの話ではない、ということだ。
 もう取り繕ってもしかたないのでぶっちゃければ、私は白倉&井上の芸風があまり好みではない。感動で泣きながら『仮面ライダークウガ』を視聴していた高寺支持者である。しかし、第二レベルの原因、つまり、どうして白倉&井上が出てこなければならなかったのか、ということになれば、彼ら二人を責めるのはお門違いということになろう 。理由はどうあれ「作品を途中で投げる状況に陥った」高寺成紀や、「高寺を切って白倉を選んだ」お偉いさんたちの責任を問わなければならないわけだ。
 ただし、先にも述べたように、このあたりの「大人の事情」は外からは推測するしかない。
 本稿もいいかげん不毛だが、それはもっと不毛だ。

 いやいや、もちろん、実際問題としては、まだわからない。
 交替劇から、まだ二話しか経っていない。
 この二話は駄目だった。
 しかし、なにかしらの奇跡がおこって、白倉&井上ペアが素晴らしい『響鬼』を完成させてくれるかもしれないのだ。
 しばらくは温かい目で見守っていくべきなのだろう。

 …そうとでも思わなければ、やってられねーよ、まったく。『武装錬金』は打ち切られるし、『極上生徒会』はいつまでたっても面白くならねーし、ついには『響鬼』がコレだ。
 佐渡川準『無敵看板娘』第14巻144話「知らぬ間に汚れていたよ」を何度も読み返し、やさぐれた論調をなるべく押さえたのにもかかわらず、かなり攻撃的になってしまった。
 白倉、井上ファンには不愉快な内容になっているかもしれないが、ご容赦いだたきたい。君たちはこれから白倉&井上版『響鬼』を存分に楽しめるんだから、負け犬の遠吠えなんか無視しちゃってくださいな。

<追記>

 その後のいきさつをば。
 「しばらくは温かい目で見守っていくべきなのだろう」と書いたのだが、結局私は第三十二話を最後まで視聴することができなかった。あまりにも苦痛だったので。
 以降、私は『仮面ライダー響鬼』を観ることを止めた。

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