百合萌えと繊細の精神

はじめに

 私が属性について語ると、まあお題目のように「記号に堕落するな」を連呼することになる。
 別に芸風ではない。記号化が好ましくない結果を招来する、ということは、属性一般について言えるのだから仕方がないのだ。
 ところが、百合についてはちょっと注意が必要である。
 私の考えでは、百合萌えについては、他の属性にも増して、属性の記号化に抵抗すべき事情がある。
 百合については、属性一般について成り立つ「記号に堕落するな」というテーゼを超えて、より強く記号化に抵抗すべきなのだ。

萌えと記号化

 「萌え」という語はヌルいオタクちゃんたちに濫用されるうちに、薄っぺらい概念になってしまった。それはまあ仕方のないことだ。私も場合によってはそういう用法をする。しかし、真の萌えは愛するキャラについて妄想が萌えたぎる様を表現するものであるはずだ。
 では、そのような萌えたぎる萌えはどうしたら達成されるのだろうか。
 一般的なところから始めよう。
 私の萌え論の中心テーゼは「萌えはエピソード単位で喚起される」というものである。燃えと異なり、萌えには大きな物語は不要。個別のエピソードの質が、萌えの質を決定する、ということになる。
 では、萌えるエピソードはどのようなものであるべきか。
 そこで一つ思うのが、やはり「記号的な萌えエピソードは萎える」ということである。燃えについては形式性を徹底的に強調したが、萌えについては事情は異なる。萌えにおいてお約束が有効に機能する場面もあるだろうが、基本的には、萌えにおける表現の形式性は、「凡庸」「陳腐」「記号的」として批判の対象となるのだ。
 昨今、手垢のつきまくった凡庸なエピソードをただ垂れ流すだけの「萌えラブコメ」がいかに多いか。工夫のないラブコメの「お約束」の羅列。属性についてもそうだ。眼鏡っ娘には「眼鏡っ娘っぽい眼鏡っ娘エピソード」。ツンデレ娘には「ツンデレっぽいツンデレエピソード」。そんなんばっかりだ。
 わかってお約束をスパイスで入れているならいいが、作り手も受け手もこれが萌えの本道だと勘違いしているから始末が悪い。アホか、ヌルオタどもめ、勘弁してくれ、となるわけだ。
 さて、ここまでは属性一般に当てはまる話である。以上の考察を百合固有の事情に当てはめてみよう。

百合と繊細さ

 百合の醍醐味はどこにあるのか。
 端的に言えば、「記号化の及ばない人間関係を描きうる」ところに存する。
 記号的なエピソードは萌えない、ということを述べた。ところが、考えてみれば、異性間の恋愛というものは日常にありふれている。だいたいどのようなものか、という枠が社会的文化的に決まってしまっている。つまり、異性愛を描く場合、どうしてもエピソードが「凡庸」「陳腐」「記号的」になってしまいがちなのである。
 ところが、だ。百合の場合は異なる。
 百合は非日常である。一般的な人間関係から微妙に逸脱している。そして、日常的には稀な人間関係を紡いでいくエピソードの描写は、そもそもの始めから記号化の罠から逃れている。
 たとえば、「手が触れ合う」だとか「唇を合わせる」とかいったエピソードは、異性愛ならばだいたいそれがどのような意味をもつのかもう決まってしまっている。上手く描かなければすぐ凡庸になってしまう。しかし、百合においてはそうではない。百合では、ある場面で「手が触れ合った」ことが何を意味しているのか、何も決まっていないのである。記号という手がかりがまったくないところで、作り手はそのつど繊細にその意味を描いていかねばならず、読み手はそのつど繊細にその意味を読み取っていかねばならない。
 このような「関係のこのうえない繊細さ」にこそ百合の醍醐味がある。
 御託はいい。紺野キタを読め。それですべて理解できる。最近では袴田めら『最後の制服』がなかなかに繊細だった。さすがに紺野キタのほうが一枚上だとは思うが。
 ここで、冒頭の私の主張が理解できるだろう。百合を「百合モノ」として記号化してしまうと、醍醐味であるはずのエピソードの繊細さが消えてしまうのだ。それでは百合の意味はない。繊細でない百合など無意味なのである。
 ただ、実際問題としては、これは難しい。『百合姉妹』なんかを読み返してみたのだが、繊細に描こうとして「繊細っぽい記号的表現」に頼って失敗してしまう例もあったりするわけで。
 しかし、困難とはいえ、百合が百合たるためには、やはり意識的に記号化に抵抗しなければならないのだ。

思春期同性愛としての百合

 いくつか論点を補強補足しておこう。
 一点め。このような繊細な描写は、基本的には少女漫画が発達させてきたものである。少女漫画の文法を習得していない者は、これを上手く読めないことがままある。それゆえ、たとえば少女漫画を読めない男性オタクが主導する百合は、容易に繊細さを失い、記号に堕落しがちである。
 二点め。この議論は、同性愛一般に当てはまる。つまり、少女同士だけではなく、少年同士であってもいいわけだ。紺野キタも両方描いている。男性オタクはソレ系を読まず嫌いしがちであるが、それはちょっともったいない。
 三点め。本当に面白いのは、やはり思春期同性愛である。成年同士になると、もうガチレズもガチホモもだいたいどんなものかわかってしまっているわけで、異性愛とあまり変わらなくなってしまう。思春期の「それがまだ何なのかよくわかっていない」状態でのエピソードにおいて、繊細さは極致に達する。
 四点め。当然のことながら、「百合萌え」と「抜きにおけるレズ嗜好」は区別されるべきだ。このあたりは「エロゲーは本当にオタク文化なのか」における萌えと抜きの区別を参照していただきたい。
 五点め。これはネタばらしであるが、以上の議論は松浦理英子の思想をオタクの文脈に矮小化してアレンジしたもの、という側面をもつ。かなり酷い矮小化なので、ここで謝っておきたい。どうもすみません。
 六点め。同性愛一般となれば、当然やおいも射程に入れて論じるべきなのだが、私の勉強不足で言及ができなかった。このあたりは腐女子の方々に意見を聞いてみたいところである。基本的に私のオタク論はジェンダーフリーに適用できる一般理論を志向しているのだが、いかんせんそっち系に知り合いがいないので、実際どうなのかはわからない。

百合的世界観の功罪

 これまで百合を理念型において考察してきた。今度は応用編である。
 百合は繊細であるべきだ。しかし、繊細な関係の描写をゼロから構築するのはかなり大変な作業である。そこで、近年の一部の作品は、特殊な世界観を無条件に前提することで百合関係を描きやすくする、という方法論を採用しているように思われる。
 いくつか例を挙げてみよう。
 今野緒雪『マリア様がみてる』においては、「姉妹制度」が百合を支えている。よく考えてみると意味不明な設定である。しかし、これがあるから、今野緒雪は『マリみて』世界において百合チックなエピソードを縦横無尽に描くことができるのだ。もしこの設定がなかったら、個々の百合な関係をそのつど状況から描きおこさなければならない。「姉妹制度」がその手間を省いてくれているのである。
 ただまあ、『マリみて』も巻を重ねるにつれて、「姉妹制度」設定に頼りすぎてエピソードの繊細さにたいする配慮を欠いてしまう場合が見受けられるようになってきた。このあたりは難しいところである。
 同様の方法論を採用しているのが、林家志弦『はやて×ブレード』である。ここでは「刃友制度」ということになる。ただし、林家志弦の百合はギャグに落とす芸風なので、エピソードの繊細さを軸に論じてもあまり意味はないかもしれない。
 ゲームでは『アカイイト』の伝奇要素などに着目されたい。この作品の伝奇要素は少々凡庸であるが、百合関係を上手く導くための道具立てと解釈すると、納得ができる。『アトラク=ナクア』の伝奇はもう少し射程が広いかな。
 こう見てくると、現行の百合ブーム(雑誌『百合姉妹』もすぐ潰れたし、実体があるのかどうかは怪しいが)を支えている作品には、百合を導く特殊設定をまず提示してしまう方法論を採用しているものが多いようだ。
 このタイプの作品は百合エピソードを描き易いうえに、「少年漫画としての『マリア様がみてる』」において既に指摘したように、少女漫画的な繊細な描写を読むスキルがあまりない人間にもとっつきやすいという利点をももつ。
 ただし、その一方で、先にも述べたように、設定に頼って繊細さを忘却する危険性をも孕む。諸刃の剣というところか。
 最後にこの系統に見えてちょっと異なるタイプの作品を挙げておこう。
 『カレイドスター』は面白い。とりたてて百合的世界観を立てているわけではない。「憧れの人」とか「ライバル」とかいったスポ根的な関係に、それ以上の百合百合な雰囲気を重ね描きしているのだ。それが上手くいったので、馬鹿スポ根としても百合風味としても二度美味しくまとまった。
 『少女革命ウテナ』はこの線では解釈できない。『ウテナ』においては特殊きわまりない世界設定のうちで百合百合な関係が紡がれるわけだが、その世界設定を打破して真の関係を取り結んでいく方向に話は進んでいくわけで、もう少し構造は複雑である。丁寧に読まねばならない。

百合モノの周縁について

 以上が私が考える百合の本道である。
 しかし、オタクの妄想する力は侮れない。百合愛好者は、たんに女の子が複数いて仲良くしていれば、そこに百合を読み込んでしまう。というわけで、厳密には百合モノとは言えないような作品が百合萌えの文脈で言及されることが多いように思われる。
 そのあたりでいくつか気になる作品を見ておく。
 ばらスィー『苺ましまろ』には、いまひとつ繊細さにたいするこだわりが感じられない。百合モノとしては私はあまり評価していない。たんなるオタク向け萌えサプリメントの域をあまり出ていないのではないか。それが悪いというわけではないが。
 『ふたりはプリキュア』にも繊細さが足りない。設定そのものは百合向きなので、この文脈でしばしば言及されるわけだが、本編はこの点にかんして端的に凡庸である。百合読みを誘発するだけで、そのものとしては百合要素はほぼない、と考えるべきであろう。触発されたオタクの妄想や二次創作のほうがよっぽど百合百合しているように思われる。
 『処女はお姉さまに恋してる』は厳密には百合モノではないのでここに挙げるべきではないのだが、一点だけ指摘しておく。このゲームが面白いのは、百合モノにおけるベタ表現を、女装という擬似百合設定に載せることにより、再度ユニークなものに仕立て直している点である。百合は繊細であれ、と言いたいわけだが、それでも『マリみて』以降、悪い意味での百合の「お約束」ができてしまいつつある。これをもう一度ひっくり返してみせた、というところは、なかなか面白いのではないか。
 『極上生徒会』(アニメ版)は中途半端である。この作品は二つの方向性を追いかけてどちらにも失敗している。
 第一に、いわゆる生徒会モノ、いわば『魁!!男塾』の女性版という方向性がある。馬鹿な力をもった連中が諸問題を馬鹿らしく解決するのが面白い、という破天荒馬鹿漫画を女性でやったら面白いのでは、という発想だ。第二に、まさに本稿の主題であるところの、特殊な世界観を前提にして繊細な関係を描く百合モノという方向性がある。
 『極上』の駄目なところは、第一の方向性で考えると大人しすぎるのだが、第二の方向性で考えると粗雑にすぎる、という点にある。もっとハジけて繊細さなどブッちぎり、快作、小川雅史『速攻生徒会』くらいまでテンションを上げるか、『マリみて』のようにもっと繊細に少女たちの人間関係を描いていくか、もしくは頑張って二つの歯車を噛み合わせるか、どうにかしなければ駄目作品のまま終わるだろう。
 まだ他にも論ずべき作品はあるかと思うが、だいたい私の百合論の基本線は提示できたと思うので、ここらで止めておく。

おわりに

 本稿の方向性は、百合を徹底的にその繊細さにおいてのみ評価するものであった。これは、自分で反省してみても、ちょいと原理主義にすぎる立場である。
 一方、実は私は百合萌え歴が結構浅い。かててくわえて、少女漫画読みのスキルも実はそれほど高くない。そもそも思春期同性愛モノをどれだけちゃんと読んだんですか、と詰問されたら、涙目になって下を向いてしまうくらいにヌルい。
 知識の浅い原理主義者ほど空気の読めない行為をやらかしやすい、というのは、誰でも認める真理であろう。
 ということで、もしかすると本稿は根本的に間違った主張をしていたりするかもしれない。ちょっと心配である。おかしな点があったらご教示いただければ幸いである。

ページ上部へ