少年漫画としての『マリア様がみてる』

0 はじめに

 問題は直球だ。今野緒雪『マリア様がみてる』シリーズ(以下『マリみて』と略記)は、どうしてこんなに人気が出ているのか。
 まずもっての答えはこうだ。それは、『マリみて』が少女小説でありながら、萌えオタの男どもにも受け入れられたからである。これは、他の少女漫画や少女小説にはあまりない現象である。では、改めて問おう。なぜそのような受容が可能であったのか。
 我々の答えはこうだ。『マリア様がみてる』は少年漫画的要素を包含しているのだ。

1 『マリみて』には誰が不在なのか

 遠回りが近道だ。一見無関係の、別の問いを置こう。
 『マリア様がみてる』には、不自然なまでに徹底的に排除されている存在がある。(ただし、本稿は現時点での最新刊「レディ、GO!」まで、単行本を範囲として扱う。)
 もちろん、男性ではない。男は普通に登場する。不在なのは誰か。二十代から三十代の女性がほぼ完全に排除されているのである。
 女性ばかり、という印象を与えがちな『マリみて』であるが、実はその年齢構成には著しい偏りがある。物語に登場するのは、十代の現役高校生および直近の卒業生と老婆、そして母親だけなのだ。繰り返そう。二十代から三十代の女性がほぼ完全に排除されているのである。
 この不在は何を意味するのだろうか。

2 学園ものの固有の難点

 『マリみて』は、ひとまず学園ものに分類できる。ここで、学園ものというジャンルが固有にもつ難点について指摘したい。
 それは、「結局は学生のやっていることでしょ感」がつきまとってしまう、ということである。
 学園ものにおいて、いかに深刻そうに見えるドラマが展開したとしても、それは結局のところ、学校という箱庭のなかでの出来事。根本的なヌルさがどうしても伴う。何が起きても、それは所詮コドモにとっての事件であり、コドモにとってしか重要性をもたないものなのだ。
 この難点をどのようにクリアするか、という点に、学園を舞台にした物語の肝がある。これをそのままにしてしまっては、面白い話はできないのだ。では、今野緒雪は『マリみて』において、どのような戦略を採用し、この難問を解決したのだろうか。

3 リリアンロジックの絶対化

 『マリみて』の戦略はこうだ。リリアン女学園の外部の視点を徹底的に排除することにより、その内部での価値観に絶対性を付与しているのである。
 結局は学生のやっていることでしょ感は、学園ものの外部の視点、つまり、卒業した大人の視点から感じられるものだ。つまり、この外部の視点を排除してしまえば、問題の感覚が生じることはなくなる。舞台を徹底的に学園の内部に限定するのだ。そうすれば、学園内でのあらゆるドラマは、それが学園内でもつかぎりでの重要性をそのまま保ちつづけることになる。
 この方法ならば、学園ものは興ざめの危険から守られるであろう。
 今や我々は、なぜ二十代から三十代の女性が排除されているのか、という問いに答えることができる。
 この年代の女性のもつ視点は、まさにリリアンの論理を相対化するものであろう。男性の視点はよい。彼らは女子高の論理を尊重するから。老婆の視点もよい。老婆においても、懐かしむべき過去として、これまた女子高の論理は尊重される。母親など家族もまた同じ。登場しても問題はない。
 リリアンを卒業し、別の論理で成立する社会に出てしまった同性の視点こそが、もっとも危険なのだ。
 たしかに先代三薔薇は卒業した。しかし、再登場する場合は、あくまで先代薔薇様としての役割を果たすことしかしない。卒業ではないが、久保栞も蟹名静もリリアンの論理の外部に足を踏み出した瞬間、物語に参加する権利を奪われている。このように、徹底的にリリアン外の視点は排除されているわけだ。
 まとめよう。『マリみて』は、徹底的に二十代から三十代の女性の視点を排除することにより、特殊なリリアンロジックで成立する諸エピソードに絶対的な価値を付与しているのである。

4 少年漫画としての『マリみて』

 ここで指摘したいのは、学園内の論理に絶対性を与える、というものが、典型的な少年漫画の文法である、ということだ。
 スポーツものでもいい。喧嘩を繰り返すヤンキーものでもいい。ラブコメでもいい。少年漫画に描かれる学生生活は、ただただ学園内部の価値観を貫くところに成立する。別に高校野球で勝てなくても、プロ野球に入って活躍すればいいはずだ。それなのに、怪我をおして腕が千切れるまで球を投げたりする。喧嘩自慢ヤンキーなぞ、市民大会レベルの格闘技の試合でもボコられて終わりのはずだ。それなのに、無敵のように描かれたりする。それはコドモのやってることだろ、通用しないよ、というツッコミは徹底的に排除される。描かれている世界がすべてなのだ。これが少年漫画における学園ものである。
 そして、既に述べたように、『マリみて』もまたこの論理を採用している。この意味で、『マリみて』は少年漫画なのである。
 これで、今現在の異常なまでの『マリみて』人気に一定の説明が可能になる。
 少年漫画の論理をもつ『マリみて』は、少年漫画しか読んだことがないような男性でも普通にすんなり読むことができる。もとが女性向けライトノベルなのだから、当然女性も読める。というわけで、『マリみて』はジェンダーに無関係に受容されうる。このことが、『マリみて』人気の成立条件の重要な一つをなしている、と思われる。

5 少女漫画の論理

 結局は学生のやっていることでしょ感という問題を、『マリみて』は少年漫画的に処理した。
 では、他の少女漫画はどのようにこれを解決しているのだろうか。
 少女漫画の典型的な戦略の一つは、このある意味での脆さを、逆に徹底的に抉り出すことにより、肯定的なものに描いていく、というものだ。結局は学生のやることだ。しかし、逆にいえば、学生しかできないことだ。これは脆く儚いがゆえに、尊いものである、というように。たとえば、拙稿「紺野キタ『ひみつの階段』の時間論」で指摘したように、紺野キタの方法論はこの軸線上にある。他にぱっと思いつくものとしては、羽海野チカ『ハチミツとクローバー』などか。竹本の塔みたいなもんです。先端がくにゃと曲がっているところがいいんです。この戦略は、少年漫画にはほとんど見られないものである。
 面白いのは、『マリみて』も出発点では少女漫画的だった、ということだ。出発点、すなわち「銀杏のなかの桜」では、乃梨子はたしかにリリアン外の視点をもっていた。そして、その視点があるからこそ、志摩子さんはあれほど脆く儚く美しかったのである。しかし、シリーズ化に伴い、『マリみて』は上述の少年漫画的戦略を採用することになる。乃梨子のツッコミの牙が抜かれ、志摩子が老猫となったのは、まさにこのためなのである。

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