チャイナドレスからの属性論

属性論の位置づけ

 オタク論における私の関心の推移をまとめておこう。
 まずはオタクの定義問題を扱った。続いて、「萌え」および「燃え」の論理の定式化を試みた。
 現在の関心は、「萌え」における「属性の論理」を整理することにある。
 私の属性論のポイントは、まずもって、属性をキャラを分類するための手段に矮小化してはならない、という点にある。
 しかし、否定的な見解をただ述べ立てるだけでは生産的ではない。萌え属性をどのように把握するべきか、具体的な例にそくして考察していきたい。

チャイナドレス愛

 というわけで、チャイナドレスである。
 私はチャイナドレスが大好きである。二次でも三次でもイケる。(ちなみに眼鏡についてもそうである。)
 チャイナっ娘が好きであるばかりか、チャイナドレスだけでも大丈夫。中華街の店頭に飾ってあるのを眺めているだけで、他人に優しくなれる。それほど好きである。
 それはともかく、チャイナドレス属性というものを改めて考えてみると、いくつかの面白い特徴に気づく。
 それを手がかりに、属性一般について考察してみたい。

服装を属性化すること

 髪型やらスタイルやら、外見にかんする属性は多い。当然のように服装も属性として扱われている。
 しかし、当たり前の話であるが、人は容易に髪型を変えることができ、また、いろいろな服に着替えることができる。それなのに、どうして外見がキャラの属性としての読解を許すのだろうか。
 髪型については、それでも「変わらないのがおかしい」とまでは言えない。しかし、服装については違う。現実世界において、人は必ず着替えるのだ。それでも服装が属性になるとすれば、どのようなメカニズムに基づいてなのだろうか。(ちなみに眼鏡は視力補正器具としての役割をもつので、服装系の属性の典型ではない。)
 もっとも簡単な答えは、次のようなものだ。
 キャラにいろいろな服を着せ替えるのは大変である。そのため、オタクが妄想の対象とするキャラの多くは着たきりスズメである。それゆえ、服装は属性とされる。
 しかし、そのような答えでは不十分であろう。ここで注意すべきは、服装のすべてが属性と解釈されるわけではないことである。もしも属性がたんなるキャラ分類の手がかりであれば、どんな服装であれ属性と解釈されよう。しかし、そうはなっていないのではないか。
 もう少しよく考えなければならない。

制服としての服装属性

 基本はこうなっているのではないか。
 属性が属性であるかぎり、そのキャラの本質を規定するものでなくてはならない。
 つまり、服装が属性であるならばは、「彼女はそのような服装を着るようなキャラである」というように服装のありようを内面化することができなければならない。そうしてはじめて、服装は着替え可能であるにもかかわらず、属性として扱いうるようになるのである。
 これは、普通に考えれば、その服装を好むか好まないか、ということであろう。しかし、ここで一歩踏み込んでみたい。
 この事情を「属性としての服装はすべて制服である」というように表現することもできるのではないか。
 制服は、ある職業に特有の服装であろう。つまり、制服とは、いつもソレを着ていなければならないものであり、また、資格をもたない者は着てはならないものである。
 さて、職業は、キャラの本質に深く関わるものである。それゆえ、制服はキャラの本質をかなり深く規定しうるわけだ。
 理論的に、制服は属性に馴染みやすいのである。
 実際問題として、服装系の属性には、職業に密接に結びついたものがきわめて多いと思われる。セーラー服やら巫女装束やら白衣やらランドセルやらメイド服やらスク水やら。どれも職業や社会的地位に密接に結びついた服装、すなわち制服なのである。
 そして、この辺を支えているのは以下のような事情であると思われる。
 たんに「こんな感じの服を着るのが好きで、それが似合っている」というだけでは、キャラの本質にはなかなか踏み込めない。(それは我々オタクの側の服装にたいする感受性の低さの現われでもある。)それゆえに、服装系の属性の多くは、制服的なあり方をしているのではないか。

チャイナドレス属性の論理

 ここから本題である。
 チャイナドレス属性が面白いのは、以上のような制服的な服装系の属性に則っていないように思えるからだ。
 普通の属性は「そのような属性をもったキャラに萌える」というように、一度キャラクターの本質に回収されうるものであろう。制服もそうだ。
 しかし、チャイナドレス萌えの思考様式はそうではないのではないか。チャイナ萌えの醍醐味は、「萌えたキャラにはチャイナドレスを一回着せてみたい」ということにおいても成立するように思われるのである。
 他方、巫女萌えは、巫女でないキャラに巫女装束を着せたい、とはあまり思わない。眼鏡萌えは、眼鏡っ娘でないキャラに眼鏡をかけさせたい、とはあまり思わない。逆に、「格好だけ巫女でもダメだ」とか「伊達眼鏡は邪道だ」とか吠えるのが、濃さというものであろう。
 通常は、真の萌えは安易なコスプレを許さないのである。
 しかし、チャイナドレス萌えは違う。どんなキャラであっても、萌えた娘にチャイナドレスを着せてみたい、という欲望を肯定するのである。ここにチャイナ萌えの特徴があると思われる。
 つまり、チャイナドレス属性は、キャラの本質に関係せずとも、イレギュラーなシチュエーションとしても萌えを喚起しうるのである。
 ところで、この論理は、チャイナ固有のものではなく、盛装一般について当てはまると思われるかもしれない。しかし、普通のドレスは、お姫様属性やお嬢様属性にとっての制服として解釈されがちのような気もする。
 純粋に「一回着せてみたい盛装」としてだけ考えられるのは、チャイナドレスと浴衣に振袖、そしてウェディングドレスくらいではないか。以外に少ないのだ。

抜きの論理とチャイナドレス属性

 さて、このようなチャイナドレス属性の論理について、エロにおける「抜きの論理」との同型性を指摘できる。
 「エロゲーは本当にオタク文化なのか」において、私は「萌えの論理」と「抜きの論理」を区別しておいた。そこで「抜きの論理」は「抜けるシチュエーションを求める」という観点から説明された。そして、それは萌えるキャラを重視する「萌えの論理」とは先鋭に対立するものである、と位置づけられた。
 簡略化すればこういうことである。
 あるシチュエーションが抜きのツボであり、また、あるキャラに萌えていれば、「あのキャラを一回あのシチュエーションに置いてみたい」と妄想するのが抜きの論理である。
 これは、「「萌え」の三つの用法」で論じた「エピソードについての萌え」と混同されやすい。しかし、決定的に異なるのは、抜きの論理がキャラの本質にはまったく関係しない、という点である。萌えシチュはキャラによって異なるが、抜けるシチュは抜く当人の嗜好にのみ依存する。
 さて、この抜きの論理が、チャイナドレスを着せたい、という妄想と構造上はほぼ同じである点に着目したい。
 どんなキャラであれ、萌えたキャラにはチャイナドレスを着せてみたいのだ。これは、とにかく「チャイナドレスを着る」というシチュエーションを重視する、ということであろう。『To Heart 2』のキャラ全員にチャイナドレス着せて並べることも許容される。それがチャイナドレス萌えなのだ。ところが、繰り返しになるが、ナース萌えなどはそうはいかない。白衣とは無関係なキャラに白衣を着せたとしても、それはたんなるコスプレである。そのときの萌えは、本職の看護師さんが白衣を着た場合の萌えとは区別されるだろう。白衣はナース萌えの醍醐味の核心には届かないのである。
 つまり、こういうことだ。
 チャイナドレス萌えは、「萌え」であるにもかかわらず、「抜き」と同型の振る舞いをなすのだ。
 この辺の構造上の一致は興味深い。
 たとえば以下のようにも考えられる。チャイナドレス属性の萌えは、抜きの論理が萌えに転化して成立したものではないか。前記の拙稿においては、萌えと抜きを厳密に区別した。しかし、例外はつねに存する。チャイナドレス属性においては、抜きの論理が直接的なエロとは切り離され、特殊な萌えの形態を採って現出しているのである。
 オタクの萌えは、安易な単純化を許さない、かくも複線的な構造をなしているのである。
 (抜きから転化した萌えの例としてもっと理解しやすいのは、バニーやら裸エプロンやら裸Yシャツやらであろう。萌えたキャラにはとにかく一回着せてみたい、という萌えである。しかし、これらには色濃くエロの痕跡が残っている。抜きと萌えの中間的な形態ということになろうか。)

属性とはなにか

 さて、冒頭の問いに立ち戻ろう。属性とはなんなのか。本稿は、これを服装系の属性にそくして考えてきた。
 そこでの教訓は、以下のようなものである。
 属性は個々別々に独立の論理をもつものであり、属性一般として語ることには慎重でなければならない。
 これまで論じてきたように、同じ服装系の属性に思えたとしても、たとえば白衣属性や巫女装束属性とチャイナドレス属性ではその論理がまったく異なるのである。
 各々の属性に応じて、萌えの論理はここまで多様なのであり、その多様性を損なうような強引な定義には慎重になるべきである。今のところ私としては、一般的な定式化は「「萌え」の三つの用法」で示した「妄想のための便利な道具」といった程度で満足すべき、くらいしか言えない。
 ただし、見込みとしては、属性は、その論理に基づいて、「萌え」属性、「抜き」属性、「抜きから転化した萌え」属性に分類できるようだ。
 「萌え」属性は、キャラの本質にかかわるもの。
 「抜き」属性は、キャラではなく、シチュエーションのエロさについて語られるもの。ただし、私見では、これはオタク的な論理に基づくものではない。
 「抜きから転化した萌え」属性は、シチュエーションについて語られるが、直接的なエロを含まないもの。
 このような区別ができるのではないか。まあ、もう少し色々な属性を分析してみなければ確言はできないのだが。

おわりに

 属性を使うと、萌えを語るのが容易になる。属性は便利な道具である。しかし、だからといって、それに甘えて安易に萌えを云々するというのはいかがなものか。脊髄反射で萌え萌え喚くような態度では、その属性の真髄へとは到達できはしないだろう。
 属性についてなにごとかを言おうとするならば、その醍醐味はどこに存するのか、というところまで考えて語らねば意味がない。属性をたんなる分類の手段としてだけ捉えていてはダメだ。細部への深いコダワリがなくては、その属性を正しく語ることができるようにはならない。
 そして、細部にコダワっていくと、やはりチャイナドレス属性のもつ論理の特殊性が気になってくるわけで。それをなんとか明らかにしてみよう、と試みたのが、この論考というわけである。
 しかし、なんだか属性についての一般論とチャイナドレス属性についての話が混ざり合って散漫になってしまった。ご容赦願いたい。

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