週刊少年ジャンプと和月伸宏『武装錬金』

『武装錬金』面白いよ

 アニメは最終回まで、ゲームはクリアまで、そして漫画は最終話を読むまで評価は控えたい。原則的にはそうなのだが、面白いものを面白いと言わないのもストレスがたまる。というわけで、言いたい。
 和月伸宏『武装錬金』は面白い。
 これだけでは芸がないので、ちょっと特殊な角度から、この作品の着目すべき点を示しておきたい。

燃えとは何だったか

 「オタク道補論・妄想の二つの原理」において、「燃え」について語っておいた。その要点をまとめると、以下のようになる。
 「燃え」作品は、必ず「〜もの」というかたちで、あるジャンルに属す。
 各ジャンルには、そのジャンルであるかぎり、目指さねばならない理想のかたちがある。これを当該ジャンルの「燃え」の理念と呼ぶ。この「燃え」の理念にどれだけ近づいているかによって、その作品の「燃え」度が決まる。
 これを、別の角度から述べるとどうなるか。燃えさせるためには、それが属するジャンルの一定の形式を遵守しなければならない、とでもなろうか。理念を共有すれば、自ずと形式も一致するだろうから。

燃えの論理を理解している和月伸宏

 ここで、『武装錬金』に話を戻そう。単行本の作者コメントが興味深い。
 私が『武装錬金』に着目するのは、作者の和月伸宏が、燃える少年漫画の理念をきちんと理解したうえで、創作活動を行っているようだからだ。
 燃える少年漫画には、燃える少年漫画かくあるべし、という理念がある。そして、その理念を描くためにもっとも有効な形式がある。和月伸宏、この形式を、きちんと自覚的に押さえつつ『武装錬金』を描いているのである。
 燃える少年漫画は、愛と正義、勇気と友情を描かねばならない。努力は、優しさは、けっして裏切らないということを描かねばならない。
 そして、それを描くためには、こういうときにはヒーローはこうしなければならない、こういうときにはヒロインはこうしなければならない、こういうときにはライバルはこうしなければならない、そのような形式を踏まなければならない。そうでなければ、燃えないのである。
 そして、和月伸宏は、本能もしくは偶然でこれに則るのではなく、形式の存在を認識したうえで自覚的にこれに従っていると思われる。
 作品内容もさることながら、この創作姿勢に私の燃え理論の実証例を見ることができて、たいへんに心強いのである。

ジャンプ漫画と燃え

 加えて指摘したいのが、このような創作の姿勢は、週刊少年ジャンプという媒体において、非常に特異な試みである、という点である。『武装錬金』を王道ジャンプ漫画と評する意見がある。しかし、私はこれに同意しない。王道少年漫画ではあるが、王道ジャンプ漫画ではない、と私は見る。
 歴代の王道ジャンプ燃え漫画を想起されたい。ゆでたまごや車田正美あたりの古典から尾田栄一郎まで、どれでもいい。そのほとんどが、個別のバトル状況をきわめて特殊な仕方に設定し盛り上げることにより、キャラを立てていることに注意されたい。これがジャンプ漫画的な燃やし方である。
 ジャンプ漫画における典型的手法とは、理念など脇に置いて勢いで繋いでいく、というものなのだ。毎週のバトルをノリで盛り上げればそれでいい、という思想である。燃やすにあたっても、個別のエピソードの盛り上がりが全てなのである。
 ところが。この方法は、「燃え」の一般理論からすれば、非合理なものである。「萌えの主観説」で指摘したように、エピソード単位で成立するのは「萌え」であって「燃え」ではない。「燃え」には諸エピソードを貫徹する理念が必要なはずなのだ。
 なぜこんな燃やし方をしなければならないのか。ジャンプ漫画が置かれている状況が特殊だからだ。では、ジャンプ的状況とは何か。言うまでもなく、打ち切りシステムである。打ち切りに対応するためには、とにかく毎週山場が欲しい。理念の貫徹などを優先させていては、話に谷間ができてしまう。ジャンプの燃やし方は、打ち切りに適応するために進化した手法なのである。普遍性をもつものではないのだ。
 そして、付け加えて言うならば、このジャンプ的手法は、非合理であるだけにはとどまらず、「燃え」とあまり相性のよいものではない。目先のエピソードの盛り上がりにかまけて燃えの理念を軽んじた瞬間、バトルがバトルを呼びインフレしてグダグダ、という落とし穴にすぐはまってしまう。そうなったらもう、燃えない。キャラがバトルのための駒でしかなくなり、立たなくなるのだ。

『武装錬金』の非ジャンプ的性格

 ここで、再び『武装錬金』に目を向けよう。
 『武装錬金』は、少年漫画における「燃え」の理念と形式に則り、「燃え」を追求している。つまり、この作品は、まったくジャンプ的ではない仕方で燃やそうとしている。この作品の「燃え」ポイントの核心は、個別のバトル描写にではなく、ヒーローの一貫した生き様にあるのだ。(だからバトル描写で少々モタついても燃えるわけだ。)
 それゆえに、『武装錬金』の燃えはジャンプ漫画らしくない仕方で心に響く。正統派王道少年漫画の燃えだ。私としては、これが心地よい。まあもちろんジャンプのノリも嫌いではないのだが。
 その一方で、ジャンプ的手法を採らないのだから、その分、打ち切りの危険は増える。実際、毎週のあの掲載順位はどうにも心臓に悪い。これまでの考察からすると、ある意味当然のことなのだが、何とかならんもんか、と思わずにはいられない。
 ともあれ、こういうわけで、『武装錬金』は王道少年漫画ではあるが、王道ジャンプ漫画ではないのである。週刊少年ジャンプにおける連載の試みとしては、たいへんに興味深いものであると考えられるのだ。
 (追記。それゆえ結局打ち切られてしまいました。)

燃え漫画の読み方について少々

 この機会に、少々別の角度から、燃えについて論じておきたい。
 よくいろいろな漫画について、ココはアレのパクリだ云々、という議論がなされる。
 正しい指摘も少なからずあるのだが、時折混じっているのが、「燃え」に要求される形式性をパクリと勘違いしているものである。これは五七五だから俳句はぜんぶ芭蕉のパクリというのと同レベルの間違いである。一定の形式を遵守する、ということは、燃える作品が成立するために必要不可欠な契機である。オリジナリティは、この形式を前提した上で成立する。
 『武装錬金』も、形式をきちんと踏まえつつ、燃えて、かつ、ストロベリーな独自性を存分に発揮していってほしいものである。

おわりに

 ともあれ、和月伸宏はよい仕事をしている。『武装錬金』がこのまま上手くいけば、彼は安定してよいものを描ける練達の少年漫画家になってくれるのではないか。長谷川裕一みたいな。
 蝶期待しています。内容については、いずれまた。

<追記>

 ということで、「和月伸宏『武装錬金』にみる「ヒーローとはなにか」」で具体的な内実に立ち入って考察を行ったので、こちらもよろしく。

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