ハーレムの論理

0 はじめに

 「萌えの主観説」において、萌えの基本的な論理を確認した。
 しかし、昨今のいわゆる萌え作品を分析するためには、これでは足りない。有象無象の萌え漫画やら萌えアニメやらの多くに共通する特徴とは何か。端的に、「ハーレム状態」である。
 ということで、萌え妄想一般についての考察を踏まえたうえで、さらに一歩進み、複数の萌えキャラがゴチャゴチャ絡むハーレム状態における萌えの論理を考察しなければならない。
 最初に定義をしておこう。本稿での「ハーレム状態」は「複数の異性ないしは同性に広くモテモテな調和的状態」を指す。エロ漫画やエロゲーに頻出する「エロにおける複数プレイ」とはちょっと意味が異なるので注意されたい。たんに複数とヤっているだけではダメである。モテモテでなければならない。
 ちなみに、1989年連載開始の竹熊健太郎、相原コージ『サルでも描けるまんが教室』においても、「エロコメ」における「ハーレム状態」が論じられている。しかし、ここでの「ハーレム状態」は、回転寿司方式に「毎回、別の女が次々と現れ手をつける」ものと理解されている。面白いことに、これは現在の我々の理解とはまったく異なる。我々の「ハーレム状態」は、「複数の女に同時に囲まれる」ものだからだ。時間的ハーレムから空間的ハーレムへの転換がここにみてとれる。
 ところで、前もって述べておけば、このような主題ゆえに、以下では十八禁作品への言及が多数なされるので注意されたい。

1 問題提起

 まず最初に確認しておこう。ハーレム状態とはよいものである。「まともな恋愛」の倫理(そんなものがあるとも思えんが)から、これを批判することは、的外れである。
 萌えは、ラヴやエロ関連の欲望を原動力とする。オタクは、欲望を率直に肯定し、妄想すべきであろう。美女美少女、または美男美少年に囲まれてモテモテであることは、たいへんによいものだ。
 一方、ここで我々は気づく。近年のハーレム萌え漫画、ハーレム萌えアニメには、異常なまでに駄作が多いのだ。これは、まずもって、既に論じた安易な萌え狙いによる萌えの貧困化のゆえ、と解せよう。
 しかし、これだけでは、これほどまでの駄作の量を説明するには、少々足りない。ハーレム状態には、なにか特殊事情が存するのではないか。
 ちなみに、「萌え」そのものに内在する駄作への傾向性については、「妄想の弁証法」を補足として読んでいただければありがたい。
 本稿では、ハーレム状態における特殊事情のみにかぎって考察を行う。

2 ハーレム状態は正当化を要求する

 ハーレム状態には、特殊な事情がある。ハーレム状態を設定するためには、「なぜ他ならぬこの主人公がそんなにモテるのか」についての説得的な説明を提示しなければならないのである。
 ハーレム状態は、とてもよいものである。しかし、楽しいからといって、何の脈絡もなく、ただハーレム状態を垂れ流すだけでは萌えてこない。
 楽しいハーレム萌え物語であるためには、ハーレム状態に一定の説得力、リアリティが必要になる。すなわち、ハーレム状態は正当化の論理を必要とするのである。
 ちなみに、このあたりに「エロにおける複数プレイ」との差異がある。エロで抜くためには、シチュエーションについての説得力など不要だ。ただエロくてグチョグチョであればいい。その唐突さ不条理さに笑ってしまうくらいでいい。しかし、エロ抜きで萌やすためには、どうしてもハーレム状態についての説得力が必要なのである。
 ところが、もちろんのこと、ハーレムにリアリティをもたせるのは非常に難しい。現実にありえないからこそ、我々はハーレムを求めるのだから。説得的なハーレム状態を作品中に創造することは、そう簡単ではないのだ。
 しかし、簡単ではないとしても、原理的に不可能とまではいかないだろう。ハーレム状態を正当化する有効な方法論として、いかなるものが考えられるだろうか。よく見られるパターンとして、四種類を挙げて、検討してみよう。
 ところで、以上に述べたように、私はハーレムものというジャンルは肯定するが、具体的なハーレムもの作品の多くについては否定的な態度を採る。嫌いなものにきちんと目配りすることは難しい。そのため、実例の挙げ方がかなり甘い。ご容赦願いたい。

3 魅力描写型

 正攻法で行くならば、とにかく主人公の魅力をきちんと描写すればよい、ということになろう。モテ度に比例した人間的魅力があればよい。当然だ。
 しかし、これも当たり前の話であるが、ハーレムをつくれるほど魅力的な人格を創造するのは難しい。だいたいハーレムの中心にいる時点で我々の常識からすれば人格的にオカシイことになるわけで、原理的に困難を抱えているといってもいいのかもしれない。
 ということで、だいたいの駄作では、ヘタレの腐ったようなのを「ココロがとても優しい」などと言いくるめてごまかそうとするわけだ。そんなことで説得性がつくわけもない。笑止千万である。
 この系統で興味深いのは、エロ漫画ジャンルである。たとえば、月野定規の『♭38℃ Loveberry Twins』は、徹底的にラブラブな複数プレイのエロをグチャグチャネチャネチャ描くことによって、強引に「ハーレムなのに純愛っぽい状況」を創りあげてしまった。冷静に考えると主人公の少年の下半身が魅力的なだけのような気もするのだが、そこをエロ描写の上手さで押し切っている。これには感心した。『星の王子サマ』でも同系統のもっていき方をしている。得意技だな。みた森たつや『ご近所のもんすたあ』と尾野けぬじ(景えんじ)『それでも僕らは…』も興味深い。ハーレムそのものを「この世界はそういう社会制度なのだ」と暴力的に正当化したうえで、普通に優しい男の子を普通にモテさせている。このあたりの力技もエロ漫画ならではだろう。(純愛ハーレム好きがバレるな。)
 ところで、主人公の魅力だけに頼る方法は、インフレの危険性をも抱えている。少し視野を広げ、百合系のハーレム状態を考えてみよう。『カレイドスター』 での苗木野そらの 男女問わぬ すごい モテモテ っぷりやら、今野緒雪『マリア様がみてる』での福沢祐巳のモテっぷり、どちらの場合においても、そらや祐巳の人間的魅力はインフレし、苗木野時空、福沢時空とでも言うべきものになっている。このインフレ対策も難しいところである。

4 燃えでごまかす型

 燃えで正当化する、という方法論も考えられる。我々は直観的に、燃えキャラはモテモテでも当然だと感じる。この心理を利用するわけだ。ここで萌えと燃えが交差する。萌えと燃えとのハイブリッド、一粒で二度美味しいハンバーグカレー、お子様ランチが期待される。『天地無用!魎皇鬼』や『サクラ大戦』からの伝統ある芸風だ。
 腕のいい漫画家の作品を二つ挙げてみよう。
 大石まさる『ピピンとピント』は正直最初は何をやりたいのかよく見えなかったのだが、二巻を読んで「説得力のあるハーレム状態」を構成しようとしているのではないか、と思えてきた。もしそうだとすると、少なくとも二巻の展開は「燃えでごまかす型」に分類できるだろう。
 長谷川裕一の『マーメイド・ヘヴン』は絶対に確信犯だ。御大が「ほらな、こうやって燃えるSF海洋冒険モノに織り込めば、ハーレム状態でも好きなように描けちゃうんだよ」とやってみせた作品にちがいない。
 例がマイナーなのは、この系統も駄作のほうが多いためなので、ご容赦いただきたい。
 さらに、ハーレムとまではいかない「多方面でモテモテ属性」と「燃えキャラ属性」との並存、というだけならば、例はいくつも挙げられよう。例えば、『月姫』世界において遠野志貴はこれでもかというほどモテまくる。しかし、それほど違和感を抱かせないのは、燃えキャラとして一定程度の成功を収めているからである。また、『うたわれるもの』においてハクオロさんがハーレム状態にあっても違和感はない。(小山力也の声が入るとさらに説得力が増す。)藤田和日郎『うしおととら』の蒼月潮なんかも当然のように女性に好かれまくる。燃えによる正当化の典型例である。
 ところで、この方法も当たり前のような難点をもつ。燃える作品を創作するのは難しいのだ。中途半端な燃えを狙って失敗すると、これまた目も当てられなくなってしまう。近年の糞のような自称ロボットアニメどもを思い浮かべてもらえばよい。漫画では、赤松健『魔法先生ネギま!』をこの系統に分類できよう。この作品の燃え描写は上手くない。少なくとも私には、魂の欠けた表層のみの燃え滓にしか見えない。ついでにちょっとコメントしておけば、彼は売れる漫画を製造するのがどんどん上手くなっていくが、それに反比例してどんどん内容に魅力がなくなっていく、面白いタイプである。私としては、素直にラブコメを描いていた『AIが止まらない!』がいちばん面白かったと思うのだが。ホント赤松嫌いだなあ、俺。閑話休題。ゲームで興味深いのは、『ゆめりあ』である。この作品は、燃えでハーレム状態を正当化しようとしたが、きちんと燃えを描ききれなかった、と分析できるのだ。戦闘と名のついた苦痛な作業が残ったのみなのだ。ハンバーグカレーもなかなかに難しいものだ。

5 近親系属性利用型

 近親系の属性を流用する、という方法も考えられる。複数の異性から好かれていてもおかしくない場合がある。女性に限れば、彼女たちが妹であり、姉であり、幼馴染である場合だ。ここを突破口にすると、ハーレムの道は容易に開ける。自覚的にこの方法論を採用したのは、『シスタープリンセス』における「妹は兄を当然好きだから」であろう。姉ならば、『姉、ちゃんとしようよっ!』における「姉は弟を当然好きだから」か。ぢたま某『Kiss×sis』はこの方向での聖典といえよう。また、あまりの馬鹿馬鹿しさに感動すら覚える、佳作エロゲー『お願いお星さま』における「幼馴染からハーレムに移行するのはわりと自然」という論理あたりも参考になろう。この方法は、かなり有効であるようだ。
 ただ、当然のことながら、これですべてを賄おうとすれば、主題は限定される。近親系属性だけでハーレムへの需要を満たすことは不可能である。

6 擬似ラブコメ型

 最後に検討したい方法論は、笑いでごまかす、というものである。これが最もよく見られる方法論である。
 ハーレム状態の不自然さをごまかすため、全体の雰囲気をラブコメテイストにしてしまえ、というわけだ。このタイプの作品の難点は単純で、笑わせるのは難しい、これに尽きる。ギャグをナメてもらっては困る。浅薄な萌えにうすら寒いギャグの取り合わせは、よく目にするところのものである。本稿冒頭で指摘した萌えハーレムの貧困は、ほとんどこの擬似ラブコメ型ハーレムの失敗に由来するものと考えられる。
 この種の駄作は厳しく批判されるべきである。それは認める。しかし、批判のやり方について、少々考えておくべきことがある。
 注意したいのは、卵と鶏の先後関係である。ハーレムで萌えさせたい、という意図が先行し、その正当化の方法論として、ラブコメの隠れ蓑が選択されているわけだ。
 これまで、ハーレム系駄作については、つまらぬダメダメなラブコメ、という角度から解釈、批判が行われることが多かった。恋愛ドラマとしてあまりにも面白くない、ただのエロ妄想の垂れ流しではないか、というように。しかし、私見では、このような批判は的を外している。ハーレム系作品が多くの場合ラブコメ的な外見をまとうのは、ひとえにハーレム状態の正当化のためである。ラブコメは、ハーレム作品の本質をなしてはいない。ラブコメ要素は、あくまで道具にすぎないのだ。
 ゆえに、恋愛ドラマとして出来が悪い、という批判は核心を逸していて、生産的ではない。ハーレム系作品は、まずもって、ハーレムの萌えを追求する観点から評価されるべきである。駄作が駄作であるのは、ハーレムでモテモテな状態を正当化するのに失敗して、我々をきちんと萌やしてくれないからであり、それ以外ではないのである。

7 まとめ

 以上、ハーレムの論理について簡単ながら論じた。
 本稿の肝を纏めておこう。
 ハーレム系作品は多い。さらに、そのほとんどが駄作である。
 しかし、これを批判するあまり、オタクのハーレムに萌える欲望までを否定してしまっては、どうしようもない。オタクは内在的な批判を心がけるべきである。あるハーレム系作品が駄作なのは、ハーレム系作品だからではなく、ハーレム系作品として不十分だからだ。
 あまりに下らない作品が多すぎるからといって、ハーレムという夢想まで否定してしまうというのは、哀しすぎることだ。
 こういうわけで、なんとか内在的分析の道具立ての見取り図くらいは描いておこう、と試みたのが、本稿であった。
 駄作の氾濫のなか、年季が入り愚痴っぽくなったオタクがつい見失ってしまいそうな、ハーレム状態とはよいものである、というキモチを確認したかったのである。
 ところで、冒頭で「ハーレム状態」を「複数の異性ないしは同性に広くモテモテな調和的状態」と定義した。これは広くモテモテであっても調和的ではない場合、すなわち修羅場状態が独立の扱いを必要とするからだ。
 修羅場状態にかんしては、ハーレム状態のような正当化はあまり必要とされない。そもそも修羅場になるということは、ハーレム状態が成立しえていない、ということであり、その意味では異常性はない。複数の異性やら同性やらに手を出して修羅場になる、というのは、当たり前のことなのだ。それゆえ、とりたてて正当化を要しないのである。
 ちなみに、私としては、こちらも嫌いではない。あんまり痛々しく破滅的なのはちょっと…だが。

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