『たまゆら』と『夏色キセキ』にみる萌えアニメ事情

はじめに

 いわゆる「ご当地もの萌えアニメ」のうち、私がわりと気に入っている二作を取りあげて気づいたことを記しておきたい。『たまゆら』と『夏色キセキ』にである。二作はそれぞれ異なる方向で作品としての工夫を凝らしている。ところが、前者の工夫はそれなりに成功している一方で、後者の工夫はいまひとつ実っていないように思われる。そのあたりの事情を考察しておくことで、現代の萌えアニメ事情についてなんらかの理解が得られることが期待できるであろう。

ふりがなアニメとしての『たまゆら』

 まずは『たまゆら』から。TVシリーズの二期も決定したようで、さすがの人気のシリーズというべきか。この作品の工夫は、萌えアニメのうちでも、癒し系と呼ばれるジャンルのありかたを考えるうえで非常に参考になる。

 『たまゆら』を私は「ふりがなアニメ」というカテゴリーに振り分けたい。小学生が読む本には、すべての漢字にふりがながふってあったりする。それと同じように、『たまゆら』は、あらゆるシーンの意味をキャラクターがモノローグで説明してしまう。ふりがなだらけの本で漢字の読み方に悩む必要がないように、『たまゆら』は物語の解釈に悩む必要がまったくないようなつくりになっているのである。

 さて、このつくりは、よく考えると、作品の核を損なっているように思われる。メインキャラクターの四人を特徴づける道具立てをそれぞれ並べてみれば、沢渡楓は写真、塙かおるはポプリ、岡崎のりえは菓子作り、桜田麻音は口笛というわけで、どれも言語に頼らないでなにかを伝達することができるようなものとなっている。この線に素直に沿って構成するのであれば、『たまゆら』という作品は、言語によって意味を語りたてることを徹底的に排したつくりになっていたはずである。しかし、実際は、この作品はまったく逆の方に特化したつくりになっているわけだ。

 なぜそうなったのか。癒し系アニメとしての方向性を突き詰めるためではないか、と私は考えている。物語を解釈するためには頭を使わなければならない。しかし、頭を使うことはストレスになる。それでは癒しにならない。そこで、『たまゆら』は、視聴者がなにひとつ解釈しなくてもいいように、おかゆのように噛み砕いた解釈不要の物語を提供しようとしているのである。『たまゆら』の癒し感の出どころとしてまず着目すべきは、物語の内容やキャラの設定などではなく、この徹底した「ふりがなふり」なのである。

 さて、ふりがなだらけの本は、漢字を読める者にとっては逆に読みにくくなってしまうはずだ。『たまゆら』も、ときに説明過剰で押しつけがましく、余韻に欠けるところがある。これは明らかな欠点である。しかし、全般的には、ふりがなの多さがうざったくならないようなバランスを上手にとっている、と評価できるだろう。

『夏色キセキ』の繊細さと受容の難しさ

 『夏色キセキ』はなかなかによくできている。スフィア云々で盛り上げようとしていたが、この作品は基本的に地味で繊細なジュヴナイルなのであって、そのような盛り上がりにはそぐわないように私には思われる。しかし、『夏色キセキ』は、よくできているわりに、そのよさが理解され評価されることが少ないようにも思われる。その原因を考えてみたい。

 この作品中のすべての要素は「中学二年生の夏休みを描く」という一点に定められている。小学生でも高校生でもない、中学生。一年生でも三年生でもない、二年生。この、ここしかない、というストライクゾーンの一角に丁寧に丁寧にコントロールしてボールを投げ込んでいって、ほとんど外さなかった。具体的な指摘は省くが、四人の主人公たちの可愛さも、愚かさも、背伸びの具合も、喜びも迷いも悩みも、すべて中学二年生ならでは、というところの枠に収まっている。このあたりの仕事は実によいものであった。

 しかし、この仕事のよさは、評価されにくいものである。二つ理由を挙げたい。

 一つめの理由は、さきほどの『たまゆら』のまさに正反対のものである。『夏色キセキ』のよさを評価するためには知的なコストがかかるのである。

 先に指摘したコントロールの繊細さを理解できるのは、一定以上の選球眼を備えた者だけであり、そもそもそのような視聴者は多くはない。さらに、選球眼をもっていたとしても、それを発揮するためにはそれなりの気合いを入れて作品を観賞しなければならない。それは疲れるし面倒なことである。かくして、多くの視聴者は、ストライクゾーンの意識なしに『夏色キセキ』を見ることになる。しかし、先に述べたように、主人公たち四人が中学二年生である、というストライクゾーンの枠をきちんと理解していなければ、この作品の仕事のよさはまったく気かれないままに終わってしまうだろう。『夏色キセキ』の萌えアニメとしての問題点は、『たまゆら』のような、脊髄反射だけの感想や評価にも対応できるような工夫を欠いていたことに存するのである。

 二つめの理由は、『夏色キセキ』があまりにも萌えアニメでありすぎる、ということである。

 繰り返しになるが、『夏色キセキ』のよさは、中学二年生を中学二年生として描く、というところにある。生じる問題も、その解決も、中学二年生にとってのものでしかない。大仰な展開や過激な崩しは徹底的に排されている。つまり、『夏色キセキ』は中学生キャラをいかに中学生キャラとして描くか、ということに特化した作品になっている。これはすなわち、この作品が純粋な意味でのキャラ萌えアニメであることを意味する。しかし、このような作品は、ライトなオタクにとってはしばしば退屈に感じられてしまいがちだ。

 私はかつて「おっさんは萌えアニメがお好き」というテキストにおいて、キャラに萌えるということにかんして一つの仮説を立てておいた。それを少し整理させて再度述べておきたい。

 ライトなオタクは萌え中心に視聴をする、と言われるが、実はそのようなことはない。キャラに深く萌えるためには、丁寧に物語を読み込んで、キャラの造形を自らの妄想のうちにつくりあげる必要がある。これには、かなり高い読解能力が必要となる。ライトなオタクにはそこまでの能力はない。そのため、ライトなオタクは、イメージに反して、狭義の萌えだけではなく、わかりやすいギャグやパロディ、大仰なアクションやエキセントリックなドラマとかいった要素も盛り込まれた作品のほうを好みがちである。実際問題として、一般に「萌えアニメ」と呼ばれて受けている作品は、萌え以外の要素をも過剰に含んだものばかりであろう。ライトなオタクは萌え中心に視聴をする、というのは、たんなる思いこみ、都市伝説にすぎない。

 さて、『夏色キセキ』は、特定の年代の瞬間を切り取ってキャラを丁寧に描こうとしている。その意味で、この作品は純粋な萌えアニメである。しかし、純粋な萌えアニメというものは、本来きわめて地味で繊細なものであり、広く受けるような性格のものではないのである。『夏色キセキ』は、あまりにも萌えアニメでありすぎたために、通な人、好きな人以外には評価されにくくなってしまったのだ。

おわりに

 「おっさんは萌えアニメがお好き」は五年ほど前のテキストなのであるが、それを書いたきっかけは 『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』であった。このテキストでは『たまゆら』と『夏色キセキ』を取り上げたわけだが、ここまで書いて考えてみるに、どうやらあのあたりから現在まで、萌えアニメをめぐる事情は根本的には変化していないようである。

 ところで、『たまゆら』では、私は『hitotose』の三次ちひろちゃんがお気に入りである。可愛い。『夏色キセキ』は花木優香がいい。いや、花木優香がいいというより、花木優香の戸松遥がいい。わりと器用なために薄れがちな戸松声の戸松声したところが前面に出ていて、台詞を聞いていてなかなかに心地よかったのである。

 最後に、せっかくの機会なので、『夏色キセキ』の御石様について一つの解釈を述べておきたい。私はかつて、「燃えオタの萌えツボ」というテキストにおいて、作品中のキャラたちをグループ単位で愛でる場合の視座として「床になって支えたい」というものを提唱した。そのさいの「床」とは、「その日常をなんの見返りもなく支えたい」という欲望を究極的にシンプルに表現したものであった。この作品における御石様の位置づけはそれに近いと思われる。完全に無償で支えるだけでは味気ないので、ちょっとだけ干渉したいなあ、という我々の欲望が固まって、二次元と三次元の壁を突き抜けて現出したのが、あの巨石なのである。だからあの石は、作品世界に遍在するのである。

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