おっさんは萌えアニメがお好き

 我々が燃えるためには、なにか我々にとって価値あることが達成されることが必要であろう。英雄的な行為、崇高な振る舞い、偉大な人格に、我々は燃えるのである。
 ところが、あるキャラないしはキャラの行動について、いくら作品中で偉大だ偉大だと述べたてたとしても、当然のことながら、受け手が納得できなければどうにもならない。そして、このような作品と受け手の意識のズレは、さまざまな原因から起こりうる。

 たとえば、受け手のセンスが足りない場合がある。
 特撮などが典型か。子どもとオタクは作品中のヒーローの偉大さを素直に感じ取れる。しかし、中二病患者や心の濁った大人どもは、賢しげなツッコミを薄っぺらく振り回して、この偉大さを否定したりするのである。
 また、狂おしい純愛の大河ドラマなどに燃える(私の定義からするとここは萌えるではなく燃えるになる)ことにも、一定のセンスがいるだろう。私などは、「燃えは萌えに優先する」みたいな変な価値観をもっているので、短編以上の長さの恋愛ドラマに耐えられなかったりする。すぐ飽きて、どうでもいいからさっさと交尾しちまえ、とか、はいはいさっさと駆け落ちでも心中でもしたら、とか思ってしまうのだ。つまり、私には、重厚な恋愛の偉大さ深遠さを心の底から感じるセンスがないのである。これはただただ私のセンスのなさが悪い。エロマンガの読みすぎかもしれない。

 また、作品そのものに問題がある場合もあろう。
 プロットが甘かったり描写が拙かったりするために、作中で重大な事跡とされるものが、受け手にはどうしてもそう受け取れない、ということがある。偉業のはずの振る舞いが、受け手には独りよがりで幼稚な行為にしか思えなかったりするわけだ。これは萎える。
 一時期、そのような諸作品がセカイ系とか呼ばれて、もてはやされたりけなされたりすることがあった。ごく一部を除いて馬鹿馬鹿しい議論であった。私の見るところでは、セカイ系云々を語る論者のほとんどは、たんに作品創作の技巧が未熟なだけの事例(また、その欠点に気づけない読み手の未熟さの事例)を、なにか思想にかかわる事柄だと勘違いして大騒ぎしているだけである。ここになんらの生産性もない。

 年齢のギャップがズレを生む場合もある。
 八十年代風学園反抗行動を例にとってみよう。一部の青少年は窓ガラス壊して回ったり盗んだバイクで走り出したりする振る舞いに血をたぎらせる。それは偉大なレジスタンス行為に思えるからだ。ところが、多くのおっさんおばさんはそういう行動に燃えることができない。年寄りがこれに肯定的評価を下すとしたら、「ちっぽけなやんちゃに一所懸命になったりしてヤング世代は可愛いなあ」というものでしかありえない。
 年をとると青春モノに燃えられなくなるわけだ。甘酸っぱい感傷を味わうことしかできなくなるのである。
 逆の例が、ジブリの『紅の豚』だろうか。年上の友人(オタク)が絶賛しているのを、若いころの私はあまり理解できなかった。ところが、一定の年齢になったとたん、パチンとスイッチが入ったように「わかる」ようになった。つまりは、これはオッサン向けに特化したおとぎ話であり、私もオッサンになった、というわけだ。
 『紅の豚』は、ある程度やさぐれないと、心の底から燃えられないところがある作品なのだ。

 ごくたまに、きちんと両方の読み方ができる作品もある。いい子ども向け作品には、対象年齢ピッタリの受け手は血湧き肉躍らせて楽しむことができ、大人は生暖かい目でまったり楽しむことができるものが見つかる。
 ちなみに、これを、同一の作品中に子ども向け要素と大人向け要素が混在している場合と混同してはならないだろう。ここで問題になっているのは、あくまで一個同一の表現が二様の読み方を許す、ということだからである。
 ちょっとズレる話だが付け加えておけば、『ウルトラマンメビウス』は、昭和のウルトラ兄弟たちが出演するときを除いては、私にとっては燃えの対象ではない。サコミズ隊長の視線でGUYSのかわいいヒヨコたちが育つのを生暖かく見守る、いわば萌え特撮である。小さいお友だちは素直に燃えているのであろうが。

 さて、ここまでは「ある受け手の感じる燃えを別の受け手が理解できない」ということを問題にした。実はこれは前フリである。本当にしたい話はこの裏である。「ある受け手の感じる萌えを別の受け手が理解できない」ということがあるように思うのだ。

 わかりやすくするために、ここでも年齢を補助線にしてみたい。
 おっさんなオタクを考えてみよう。おっさん(そしてたぶんおばさんもそうなのだが、以下おっさんで代表させる)は疲れている。癒されたいのだ。仕事のあとは、ささやかで可愛らしい箱庭な世界を一歩離れたところから生暖かい目で愛でていたいのだ。
 つまり、おっさんは、ただ萌えるだけで満足する。素の萌え、生の萌えを楽しめるのである。
 ところが、若くてギトギトしている世代は、どこかでそれ以上のドラマを求めがちだ。あっさり味の癒しでは満足できず、なにか受け手の心を揺り動かすような要素が欲しくなってしまう。このような連中がおっさん好みの薄味の萌えに触れると、なにか物足りない、つまらない、という感想を抱くことになる。
 ここには根本的なズレがある。おっさんは、ハムスターの籠を覗き込んでいるつもりでいる。ころころふにふにした微妙な仕草をまったりと眺めようとしているのだ。しかし、血の気の多い若い子たちは、ハブとマングースの檻を覗いているノリで、なんでケンカしないんだ、つまんない、と文句を言ってしまうわけだ。

 もちろんこれは年齢とは別の契機によっても成立する事態である。
 問題は、燃えやら泣きやらの要素を抜きにして、純粋に萌えの快楽だけに浸ることができるのか、という点にある。
 心を揺り動かすような大文字のドラマなしに、キャラを愛でることだけを淡々と行うことができるのか。そのような作品を評価することができるのか。ここが問われている。

 こんどはテキトーに具体例を挙げていこう。

 『錬金3級まじかる?ぽか〜ん』のユルさは特筆すべきものである。スケールの小さい事件、とるにたりない出来事、拍子抜けする結末を気の抜けたノリで重ねていくだけ。しかし、そこがなんともいえずいい。この落ち着いた安定した下らなさが、なんとも心地いいのである。

 『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』も、物語はささやかである。作中で主人公たちが一所懸命頑張って行動するわけだが、実のところたいしたことはやっていないわけだ。そして、成し遂げたことも、基本的にたいしたことではないわけだ。
 そして、まさにそこが素晴らしい。理想の(=ゆーとぴあ的な)青春とは、まさに「たいしたことない事柄で本気になれること」なのである。その描写は、汚れつちまつた受け手の心に甘酸っぱいほんのりとした情感(ちょっとセピア色)を生むのである。

 さて、こういう作品について、盛り上がりが足りない、とか、そんなオチでは肩透かしだ、とか思ってしまう人がいる。こういう人は、どこかで心を震撼させるようなドラマを期待してしまっているわけだ。つまり、ただただ萌えの妄想に浸ることで満ち足りることができない。燃えや泣きが欲しくなるという煩悩から逃れることができていないわけで、修行不足と言っていいだろう。
 ちなみに、『まじぽか』や『まなび』に「すごく感動しました」という人は、それはそれで物語をたくさん読む修業(こんどはこっち)が足りない気がする。そんなにたいした話ではないだろう。そして、たいした話ではないことが肝心なのだ。

 また、私は原作版の氷川へきる『ぱにぽに』の力の抜け具合がたいへんに好きなのだが、どうもアニメ版の『ぱにぽにだっしゅ』のほうを評価する人が多いようなのだ。これが私にはわからない。アニメ版はどこか肩に力が入っていて、原作の魅力であるところのだらしなさが消えてしまっているように思うのだ。このユルいだらしなさは、そこに燃え要素が一切入っていない、ということを意味する。それっぽい展開があっても、氷川へきるはかならずそこに肩すかしを入れてくる。私としてはそこがいいのだが、逆に物足りなさを感じてしまう人がいるのかもしれない。

 アニメばっかりでもなんなので、実写映画からもひとつ。『SWING GIRLS』のノリもユルい。この作品において、登場人物たちは、キャーキャー適当に楽しんでいるうちに楽器が上手くなってしまう。ここで、挫折と特訓そして苦悩をつきぬけて歓喜へのドラマを期待していた人は、拍子抜けする。しかし、スポ根的熱血は、味つけとしてちょっと重く、客を胃もたれさせかねないものだ。『SWING GIRLS』の薄味は、キャラを愛でさせることを主眼とした、がくえんゆーとぴあな萌え青春映画を成立させる。それはそれで味つけの戦略としてアリなのだ。

 そろそろシメよう。
 わりと「最近のヌルいオタクは萌えばかりだ」と主張するオタク論が多いのだが、本当にそうなのだろうか。高純度の萌えは、燃え要素や泣き要素をあまり含まないために、非常にユルいものになる。そして、実はこのユルさは、ある程度スキルを積んだり、年をとって枯れたりしないと楽しめないものだったりするのではないか。
 私としては、実際の若いヌルオタは、純粋な萌えよりも、燃えや泣きが軽くブレンドされたもの、つまりはごくフツーのドラマを好む感じがする。『まなび』に感動したという子も、『まなび』にはドラマ性が足りないという子も、どちらもこの前提の枠内で動いているのである。また、『らき☆すた』の受容などにみられる「ネタとしての消費」という振る舞いも、ここから理解できる。若い子は、ドラマ性の少ない作品については、ネタとして消費する以外の受容の様式をもたないのである。
 ユルい萌えをそのままで肯定し評価することは、なかなかに難しいことなのである。このあたり、もうちょっと先入観を排して考えてみるべきではないだろうか。

 最後に一つ注意をしておけば、このユルさは批評の不可能性を意味しない。ユルい萌えというジャンルの枠内でも、優れた作品と劣った作品が当然ある。それを判別できるかどうかで、オタクの能力も測られる。
 上に挙げたようなユル萌え作品を画一的で無内容であると評する言説をしばしば目にするが、失笑するほかない。ご当人が、ユルい癒し系の萌えというジャンルにおける優劣を繊細に判別することができないだけのことだ。なんのことはない、偉そうに批判をしているつもりで、自らのオタク的知覚の解像度の低さを晒しているだけのことなのだ。

 どうでもいいことであるが、ここのところ忙しい。
 疲労が蓄積したときには、高濃度の萌えを血中に投与しないと私は死ぬから大変である。以前には、大量に萌え四コマを買い込んで読んで多忙な時期を乗り切ったりした。今回助けになったのは、『まなび』である。非常にいい癒しになった。なんだか最近、妄想において、「嫁にしたい」ではなく「お父さんになりたい」と思うようになってきた。学園祭でベース弾いていた娘のお父さんになりたい。ああ、でもパンクなんか聴くなメタルを聴けとか言ってしまって嫌われちゃうかも。どうしよう。

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