燃えオタの萌えツボ

はじめに

 本稿の議論を、皆がこのような属性を尊重すべきだ、というかたちで一般化する気はない。私の自己紹介と捉えていただいてかまわない。自分の内なる欲望を反省し、その傾向性を明確に認識することで、オタク趣味はより豊かに展開する可能性を得るのではないか、とずっと考えていた。そこで、まず隗より始めよ、というわけで、キャラクターやカップリングにかんする私自身の好き嫌いの根ッコを自己分析してみたのが、本稿である。ただし、議論を整理するために、分析する視点を絞ってある。すなわち、私の燃えオタとしての傾向性が、どのように萌えにかんする嗜好に影響を与えているのか、という観点から、考察することにしたい。

単体キャラクターについて

 最初に、単体キャラクターについて萌える情動が生じる場面、これを論じたい。

 どうやら「ヒーローの嫁属性」とでもいうべきものをもっていることが、私のキャラクター愛の必要条件になっているようだ。では、「ヒーローの嫁属性」とはなにか。まだ簡潔に定義する準備が私にはないので、長々しくなってしまうが、以下のような属性を指す。

 妄想してみよう。あるヒーローが長年の戦いでボロボロになり、後進に正義のための戦いを譲って引退したとしよう。その老兵は、市井の片隅で小さな幸せをみつけて、ひっそりと暮らしている。ところがだ。恐るべき悪の魔の手が世界に迫り、後輩ヒーローたちは苦戦に苦戦を重ねることになる。そして最終決戦。このままでは勝てない、と悟った後輩ヒーローは、ついにかつての英雄に助けを求める。もう一度立ちあがってほしい。我々を導き、共に戦ってほしいと。まあ、よくある物語パターンだ。先輩ヒーローにとっては80%くらいの死亡フラグでもある。

 さて、あるキャラが「ヒーローの嫁属性」をもっている、ということを、とりあえず私は以下のように定義する。上述の状況において、あるキャラが問題の老兵の嫁であると想定しよう。そのとき、そのキャラが老兵の出陣を止めたいと思いつつもその想いを言動に出さないでいられるような根性をもっていること、これが、「ヒーローの嫁属性」をもっているということである。

 つまり、「行かないで」「なぜあなたが」「他の人でもいいのでは」「残されたこの子はどうなるの」的な台詞を言わない。心には浮かぶが、ぐっと飲み込む。そして「芝浜」の女房チックに、「あなたの変身ベルトはネジ締めて油紙につつんでしまってあるわ」「可変装甲バイクは整備に出してすぐにもエンジンかかるようにしてあるわ」、とやってほしいのである。

 こういった振る舞いが明らかにできそうなキャラが「ヒーローの嫁属性」をもっている、ということになる。そして、この属性をもっていることが、私のキャラクター愛の必要条件となっているというわけだ。ちなみに、別に性別を逆転させて「ヒロインの婿属性」にすることも同性カップルに適用させることもありだと思うのだが、さしあたり私自身の欲望に合わせて「嫁」としておく。

 さて、誤解されやすいので注意しておけば、この属性は、ヒーローものであろうがなかろうが、作品ジャンルには関係なく、こちらから勝手に妄想して読み込むものである。「この娘ならヒーローの嫁としても立派にやっていけそうだ」というような感じである。また、「この娘は駄目だ」という場合だけでなく、「この娘にかんしては反応がうまく妄想できない」という場合にも、「ヒーローの嫁属性」はなし、ということになる。日常系作品のキャラであろうが学園ラブコメのキャラであろうが、自然に湧いてくる妄想の赴くままに「ヒーローの嫁属性」があるかないかを判断してしまうのが、私の業なのである。

 別の属性との兼ね合いについても少々論じておく。

 面白いのが、戦闘少女属性である。「ヒーローの嫁属性」と相性が良いはずの戦闘少女属性が、実は少々難しいのだ。夫の出陣を送り出すのではなく、「じゃああなたの背中は私が守ってあげる」と言えてしまうキャラについては、「ヒーローの嫁属性」があるかないかを判定しにくいからである。

 ところで、私にはロリ属性と妹属性がない。それは、ひとつには、これらの属性が含意する精神的な幼さが、「ヒーローの嫁属性」と相性が悪いからであるようだ。ロリ、妹に限らず、昭和の二級少女漫画の主人公にありがちの、愛されるのを待っているだけで性根の据わっていないキャラは全般的に駄目である。容姿や能力が十人並みなのはかまわないが、魂が、自らの幸せしか視野に入らないような小市民的なものであってはならない、というわけだ。

 ワガママ系の属性は興味深い。もちろん、こういった状況下でも「私のことを優先させろ」と言ってしまいそうなキャラは失格である。しかし、普段のワガママは、「ヒーローの嫁属性」と適切に組み合わせると、素晴らしいギャップ萌え、あるいはギャップ燃えを生みそうである。

 ヤンデレ、電波系の属性も難しい。「悪との最終決戦に行くとか言って、本当は外に女ができたんでしょう、あなたを殺して私も死ぬわ」と言ってくるようなタイプはどう考えていいのかわからないからである。

 最後に、この観点からして興味深い最近の作品を一つだけ挙げておけば、『仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE』のW部分ということになるだろう。これ、まさしく「ヒーローの嫁属性」をめぐるお話でたいへんに笑わせてもらった。TVシリーズ本編を通して一年間、申し分のない「ヒーローの嫁属性」を発揮していた鳴海亜樹子であるからこそ許される「仮面ライダーアレルギー」であり「ヒーローの嫁属性」批判なのである。あれをポッと出のキャラクターがやったら違和感しか生まれないでしょう。積み重ねた描写があってこそのネタなのではないか。

カップリングについて

 前節では、単体のキャラにたいする「俺の嫁」妄想を扱った。今度はカップリングにおける妄想に着目したい。それも、同性カップリングを扱う。いわゆる腐女子や百合厨は、仲良しの男の子二人組あるいは女の子二人組を見たときに「お前らもう結婚しちゃえよ」と言うであろう。これがもっとも一般的なカップリングにおける妄想である。私もこういう言葉を発してしまうことがしばしばある。しかし、それだけではない。燃えオタであるところの私は異なる妄想に基づいてカップリングを捉えることがある。

 仲の良い女の子二人がいたときに、「こいつらをプリキュアにしたらどうなるだろうか」と考えてしまうのである。(言うまでもなく、元祖およびSSの二人制プリキュアを念頭に置いての話である。)

 発想としてはきわめて単純なものである。魂の絆の真のありようは、難局にあってこそ試される、というわけだ。この二人ならばどんな困難にあってもプリキュア道を貫けるだろう、というようなカップリングは、私にきわめて魅力的に映る。逆に、彼女たちではプリキュアは無理だ、と思えてしまうカップリングには、まあ、そこまでの仲良しだよな、という感じで、あまり魅力を覚えない。つまり、プリキュア妄想が絆の強さのチェック機能を果たすのである。男子どうしのカップリングであれば、たとえばダブルライダー妄想が対応するだろうか。こちらはあまりやったことがないのでわからない。プリキュアの場合、変身前の戦闘能力にたいする要求がほとんどないので、さまざまな作品のさまざまなカップリングについて妄想を試すことができる。このあたり、仮面ライダーとは違うわけで、より妄想への使い勝手がいい、ということはあるかもしれない。

 もちろん、この判定基準も万能ではない。元のキャライメージに合わない場合には当然上手く機能しないのである。たとえば嶽本野ばら『下妻物語』にたいしては、桃子のほうが、変身して飛んだり跳ねたり戦ったりするなんてロココではない、世界が滅びても断固拒否する、と言ってしまいそうなので、駄目である。誉田哲也『武士道シックスティーン』の場合には、奇声をあげながら棒っきれで敵を滅多打ちにするふたりはプリキュア、という絵が面白すぎて、笑いが先に立ってしまってどうにもならない。

グループについて

 これまで、「俺の嫁」および「カップリング」という観点から、燃えオタとしての私のきわめて個人的な萌えツボについて語ってきた。最後に、日常系作品などにおいて典型的な、「このグループの雰囲気がいいんだよ」というような感じについて論じたい。とくに特定のキャラやカップリングを取り上げて愛するのではなく、複数のキャラが織り成す関係を全体的に捉えたうえで、その雰囲気の心地よさを愛する、ということが我々にはしばしばあるだろう。この場合、グループの雰囲気を壊さずに妄想を割り込ませることはなかなか難しい。そのため、このようなグループに萌える心もちは、そのままでは、なんとなくの感覚に依存した、きわめてユルいもので終わってしまう。それではつまらない。そこで、たとえば私は、以下のような妄想を判定基準として用いて、当該グループの雰囲気が真に愛すべきものであるかどうかを確認することになる。

 出発点となる妄想はこうである。自分が仮面ライダー等のヒーローであったとして、すべてを捨ててそのグループの日常を守りたいと思えるかどうか。ここで重要なのは、ヒーローが日常の影で戦うタイプであり、守られているキャラたちは、日常の背後の戦いをまったく知らない、と想定するところである。感謝されたり尊敬されたりといった、見返りは要らない。ただただ純粋に、このキャッキャウフフなひとときを守ってあげたいんだ。こう思えるかどうかのチェックというわけだ。まったく逆に、この連中は心底許せない、ということのチェックのためには、2001年度版金子修介ゴジラが唐突に登場して全部グチャと踏みつぶすさまを妄想してニヤニヤ笑えるかどうか、というものがあるのだが、これはまあ別の話であろう。

 さて、興味深いのは、出発点は出発点にすぎない、ということだ。私には、上のヒーロー妄想が構造だけを残して非常に歪んだかたちで現出することがよくあるのだ。以下の妄想は、一見すると、ただもう純粋にキモチワルいだけのものなのであるが、よくよく分析してみると、ヒーロー妄想の名残りを認めることができる。

 まずは、おこづかいをあげる妄想である。あるグループにちょっと多めのおこづかいをあげたくなるかどうかを妄想してみて、あげたくなるグループはよいもの、あげたくならないグループはいまいち、というわけだ。もちろんこれは、いいオッサンが若い子たちにお金をあげる、という構図そのものの馬鹿馬鹿しさに第一のポイントがあるわけだが、それだけではない。この場合も、あげかたが重要である。みんなに見えるところであげたら、それはあざとい。それは駄目だ。グループのうちの最年長者、あるいはいちばんしっかりした娘をちょっと脇に手招きして、「みんなには私からだとは言わなくていいから、これで美味しいものでも食べなさい」って感じで財布から数枚諭吉を渡す、これである。『みなみけ』では春香、『ストライクウィッチーズ』ではミーナ、『苺ましまろ』では伸恵を呼ぶのだ、とかなんとか。これをやるさまを妄想してニヤニヤしたくなるグループは、よいものである、ということだ。この、見返りなしに援助を与える、という構造が、ヒーロー妄想とまったく同じであることに注目すべきであろう。ヒーローとおこづかいおじさん、見かけの印象は違えど、なりたい、と思う根ッコの欲望はこの文脈にかぎっては同じなのである。

 ただ、この妄想はグループのメンバーにお金持ちキャラがいると通用しない。また、極端な貧乏キャラがいる場合も上手くいかない。おこづかいの適切な金額はグループの人数や年齢構成に応じて変わるのであるが、メンバーに経済格差がありすぎると、いくらあげたらよいのかわからなくなってしまうのである。

 そこで出てくるさらなる変形の妄想として、床になりたいと思えるかどうか、というものがある。つまり、床になることを妄想して、なりたいと思えるグループはよいもの、思えないグループはいまいち、というわけである。なんだそれは、と私も思うのであるが、たぶん先のヒーロー妄想の「その日常をなんの見返りもなく支える」というところを究極的にシンプルにした結果、床、というところに辿りついたのであろう。ちなみに、私にはMっ気がほとんどと言っていいほどないので、踏まれる喜びから床妄想が生じることはありえない。半年くらい前に、酒を飲んでいて『けいおん!』の話になって、「私は桜が丘高校の軽音部部室の床になりたいんだ」と力説した記憶がある。というか、そんなこと言ってましたよ、とときどき指摘される。ずっと、なぜそんなことを思いついたのか、自分でもいまひとつよくわからなかったのであるが、どうやらこれも、ヒーロー妄想がキモチワルさのレベルをいくつも重ねて変化した姿だったようだ。先に述べたように、軽音部には琴吹紬がいるために、おこづかいをあげづらかったのであろう。「床になったとしても、みんなが卒業しちゃったらどうするのだ」とも言われたが、これはあまり問題がない。梓、憂、純がいるではないか。いや、この三人であれば、床にならずともおこづかいをあげることができるので、妄想をこちらに切り替えてもいいわけである。

おわりに

 なんだかよくわからないテキストになってしまった。あらためて読み返してみると、ネタになるほど突飛でもなく、スルーできるほどマトモではない、という、いかにも中途半端なキモチワルさしか私はもっていないのだなあ、と複雑な気持ちになるな。また、言うまでもないことであるが、このような条件に当てはまらない好きなキャラ、カップリング、グループもあるので、私にとってこれがすべて、というわけではない。

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