『スカイガールズ』についての覚書

 『スカイガールズ』はずっと好きな作品の一つであったのだが、語ろうとするとどうしても『ストライクウィッチーズ』との比較が入ってきてしまうような気がして、どうも気が乗らなかった。しかし、いろいろあって私にとって『ストライクウィッチーズ』の一連のプロジェクトがかなりどうでもよいものになってきたため、そちらを無視して『スカイガールズ』だけを純粋に扱うことができるようになった。ということで、このテキストを書いたわけだが、まとめる時点になって『スカイガールズ』パチスロ化の情報が出てきた。なかなかに複雑な気もちである。(パチンコについての私の態度については、「私家版オタク事典」「パチンコ」の項を参照されたい。)二期とまではいかなくとも、Blu-rayの箱くらいは出るのだろうか。期待しないで待っている。

 かつて「部活動モノの諸相」というテキストで、私は「部活動モノ」というくくりでいくつかの作品をまとめて論じた。そのときはこの概念で、部活動を描いた作品と部活動っぽい雰囲気の作品とをひっくるめて考えていたのであるが、このあたりはもう少しきちんとした整理をすべきであった。「部活動をそのまま描いた作品」を「狭義の部活動モノ」とするのであれば、「部活動を描いてはいないが、作中の諸設定を部活動をモデルに立てている作品」は別扱いにしたほうがよさそうだ。たとえば、後者のほうは「疑似部活動モノ」とでも呼ぶことができるだろう。疑似部活動モノのポイントは、先のテキストですでに語ったので省略する。

 さて、『スカイガールズ』である。この作品は疑似部活動モノの形式を確信犯的に選択したうえで、上手に使いこなしている。疑似部活動モノはこうやればいい、という教科書になるくらいである。

 この作品の人間関係の形式が部活動そのままであることは見やすい。ソニックダイバー隊の人間関係は、部活動の先輩、同輩、後輩の関係になぞらえて描かれる。さらに、整備員はマネージャー、指揮官は顧問の先生、軍医は保険の先生、母艦の艦長は校長先生、副長は教頭先生、それぞれが学校における役割に一分のズレもなく当てはまる。そっくりそのまま部活動である。他にも、桜野音羽と橘僚平との関係が、そのまま学園ラブコメのそれになっていたりと、部活動あるいは学校モデルを採用してる部分は枚挙にいとまがない。

 さて、ここで私がよくできている、と思うのは、組織を完全に軍隊にしなかったところである。軍隊組織を疑似部活動モノで描く作品は少なくない。しかし、当たり前と言えば当たり前の話であるが、軍隊は部活動ではないわけで、そのような描きかたには必ず無理が出る。キャラクターの魅力だけで押しきることができる萌え豚相手の商売であればいざしらず、そこそこまともな視聴者を相手にするのであれば、そのような無理は必ず見透かされ、うすっぺらい、と失笑を買うことになるだろう。ところが、『スカイガールズ』は、ここの間合いの取りかたがなかなかに上手い。

 ソニックダイバーは兵器として運用されてはいるが、建前としては、まったく新しい飛行の概念を実現した、人命救助のための機体である。これは劇中でも建前でしかないのであるが、この建前に自分の夢を重ねる冬后蒼哉の存在がよく効いていて、結果、ソニックダイバー隊には、たんなる軍隊の一部隊ではない、そうであってはならない、という意味が盛り込まれることになる。ここに部活動的なノリが重ねられるのが味噌である。この工夫のおかげで、部活動的なノリがあまり違和感なく軍隊へと導入されることになった。本来別物であるはずの部活動的な雰囲気と軍隊的な雰囲気を繋いで、いいとこどりを実現させたのは、劇中でソニックダイバーそのものがもつ両義性なのである。

 さて、以上で指摘したような工夫のうえで、『スカイガールズ』の物語は手堅く展開していく。隙がない、手堅い、というと褒めているのかどうかわからないが、この域にまで達していない作品がほとんどなのが現状である。ただし、そうはいっても物足りない点がないわけではない。二点ほど指摘しておきたい。

 一点め。敵であるワームに個性がないのが辛い。スーパーメカのスーパーバトルで視聴者を楽しませようとするのであれば、物語との展開とは別に、毎回の戦闘描写の面白さが必要になってくる。そして、それを支えるのは、襲いくる敵の多様性に他ならない。ところがこの作品、どうも弾けかたが足りない。ワームが人間的な意図的行動をする存在ではないうえに、所詮はワームだから、という枠内の振る舞いしかしないので、多様性を出そうとする工夫がどうも中途半端に終わっている。毎回、視聴者の度肝を抜くようなヘンテコなワームが登場して、やはり毎回視聴者の度肝を抜くようなヘンテコな対策をもってそれを倒す、といったようなノリがもっと強く出れば、もっとよくなっただろう。このあたりは、さすが名作、『新世紀エヴァンゲリオン』や『勇者王ガオガイガー』は非常に高いレベルで実現している。使徒やソンダーは、「使徒」とか「ゾンダー」とかいったかたちで便宜上括られてはいるが、それぞれの個体が一つの種であるかのような個性を放っている。しかし、『スカイガールズ』のワームは、どこまでいっても結局はワーム、というほどの個性しかもっていない。このあたり、設定がしっかりしているところに逆に引きずられて、弾け損ねたのかな、と思う。

 二点め。ギャフン描写が足りない。過去の拙稿「ギャフン描写の快楽」で書いたことであるが、主人公たちが誰かをギャフンと言わせる、というシーンは、物語の盛り上がりにきわめて効果的なものである。しかし、この作品には、ギャフン描写が十分に盛り込まれていない。敵はワームであるから、そもそもギャフンと言うことはない。そうであるならば、人間側のほうに、主人公たちにたいして悪意や敵意を向けるキャラクターをきちんと配置しておくべきであった。この作品の場合、ほとんどのキャラクターが結局はいい人、まともな人なので、ギャフンと言う役割を果たす者がいなくなってしまっている。そのため、物語の展開の切迫感や緊張感、あるいは、結末のカタルシスが、どうにも物足りなくなってしまっているのである。惜しいところである。(おまけの「釣りバカ瑛花さん」が面白く感じられるのは、お笑いの枠内ではあるのだが、本編では足りないギャフン描写の大盤振る舞いをしているからである。)

 総括しよう。『スカイガールズ』という作品は、いかにもなエロスーツ美少女キャッキャウフフアニメの皮を被りつつも、堅実な設定に基づいた堅実な物語を展開してくれている。その心意気が私にはとても好ましいのである。

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