ギャフン描写の快楽

はじめに

 ある作品を鑑賞していて、なんとはなしに物足りなさを感じることがある。もちろん、その物足りなさの内実は場合によっていろいろである。しかし、そのような多様性の一方で、よくある味つけミスについて、一般的な教訓を導き出すこともまた可能である。たとえば、「適切なギャフン描写の欠如」は、一般に、味つけがボケている、という印象を与えがちだ。ギャフン描写は、物語に独特の爽快感を付け加える。これが欲しいところに利いていないと、読者や視聴者(以下、「鑑賞者」という語で一括して表す)は、どうしても物足りなさを覚えることになってしまうのである。

ギャフン描写とはなにか

 ギャフン描写とはなにか。簡単に言えば、物語のあるキャラクターが、別のキャラをギャフンと言わせる、という描写である。表現を簡潔にするために、以降、ギャフンと言わせるキャラを「驚かし役」、ギャフンと言わせられるキャラを「驚かされ役」と便宜上呼ぶことにしたい。描写が鑑賞者をギャフンと言わせることが問題になっているのではない、ということに注意されたい。物語のなかのキャラをギャフンと言わせる描写が問題となっている。その描写で鑑賞者がギャフンと言うかどうかはまた別の問題である。

 では、どのようなときに驚かされ役はギャフンと言うのだろうか。ただたんにびっくりしただけの状態を、ギャフンと言った、とは表現しないであろう。「ギャフン」とは、自分の価値判断が誤っていたことに驚いたときに出る言葉である。すなわち、まず、驚かされ役は、脅かし役の価値を低く見積もっていなければならない。そして、なんらかのきっかけで、自分の誤りを知ることにならなければならない。驚かし役は、思っていた以上の価値をもつ者だったのである。このとき、そのあまりの衝撃に、「ギャフン」という言葉が発せられてしまう、というわけだ。

 このようなドラマティックな承認の組み換え描写は、鑑賞者に強いカタルシスを与えてくれる。多くの出来のいい娯楽作品には、このギャフン描写が適切に盛り込まれている。適切に、ということは、「こいつは誰かにギャフンと言わせられるべきだ」というようなキャラがきちんと驚かされ役になり、「こいつは誰かをギャフンと言わせるべきだ」というようなキャラがきちんと驚かし役になっている、ということである。

 さて、このようなギャフン描写にはいくつかのパターンがあり、それによって、カタルシスのありかたも少しずつ異なっていく。重要なものを挙げてみたい。

見くびるなよ!

 舐められている驚かし役が、自らの価値を無理矢理にでも認めさせる、というところにポイントが置かれるパターンである。友情で努力な過程を経て、勝利あるいはそれに近い善戦でもって驚かされ役をギャフンと言わせる、というのが定番であろうか。

 たとえば、アニメ『大正野球娘。』は、まさに「見くびるなよ!」的ギャフン描写を追求することを貫いた作品であった。映画ならば、たとえば『ダイ・ハード』、ここでは準備万端整えて悪事の運びは完璧だと思っていたテロリストどもが、舐めきっていた中年太りで禿のNY市警の警官一人に片っ端からギャフンギャフンと言わされていくことになる。ライトノベルから例を挙げれば、このタイプのギャフン描写を戯画化寸前まで極端に突き詰めたのが、東出祐一郎『ケモノガリ』第一巻ということになろうか。第二巻以降は、主人公がゲッターエンペラーレベルに強い、ということが敵方にとって周知の事実になってしまうので、ギャフン描写は物語の中核から退くことになる。驚かされ役がこちらを舐めてくれなくなってしまえば、当然、ギャフンと言わせることはできないのである。

そ、そんな馬鹿な!

 「見くびるなよ!」の場合は、驚かし役におもにスポットが当てられるわけだが、驚かされ役に注目する場合もありうる。誰かあるいは何かを舐めている驚かせ役が、その傲慢さにたいしてしっぺ返しを喰らう、というところにポイントが置かれるパターンである。

 たいていは、驚かされ役の「そ、そんな馬鹿な!」は驚かし役の「見くびるなよ!」と組になっているわけだが、驚かし役が人間以外の存在であって人格をもたない場合には、「そ、そんな馬鹿な!」だけが描写されることになる。たとえば、怪獣ものの場合は、怪獣を舐めていて痛い目に遭う登場人物が定番である。『ガメラ 大怪獣空中決戦』では、ギャオスの捕獲作戦をゴリ押しして大損害を出したり、『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』では、バラゴンと記念写真を撮っていてゴジラに虐殺されたり、といったお馬鹿さんが驚かされ役として重要な役割を果たしている。怪獣だけでなく、自然災害や大事故などを扱った娯楽作品においては、その出来事の危険性を盛り上げるために、「そ、そんな馬鹿な!」だけでギャフン描写が構成されることになるのである。

げぇ、お前は!

 驚かし役が正体を隠していて、それを明かすことで驚かされ役をギャフンと言わせる、というパターンもある。舐めていた、というよりは、騙されていた、というわけだ。これはオタク系作品というよりは、時代劇の定番である。『水戸黄門』や『遠山の金さん』など、誰でもすぐに思いつくだろう。チートレベルの変装スキルがあったりする場合を除けば、基本的に「げぇ、お前は!」が通用するのは、一人の驚かされ役にたいして一回のみであるので、上に挙げた時代劇では、驚かされ役つまり悪役は毎週交代することになる。

ああ、そうだったのか!

 驚かし役が意図せずに驚かされ役をギャフンと言わせてしまうパターンもある。よくある展開としては、驚かし役が死ぬかどこか遠くへ行ってしまうかしたあとで、驚かされ役が事件の真相に気づく、というものだ。児童向けの作品しか思いかばないが、新美南吉『ごん狐』やら『フランダースの犬』やらは、驚かし役が死んだあとで、残された驚かされ役が遅まきながら真実を知って、ギャフンと後悔する、というラストになっている。もちろん、奴らをギャフンと言わせてやろう、という意図のもと、「見くびるなよ!」と叫んで自ら腹をカッ捌いたりしてしまう展開は、別のものである。驚かし役が死んでいない場合としては、バーネット『小公女』などはどうだろうか。あの物語のラストで、セーラ・クルーは、意図したわけではないのだが、ミンチン院長を死ぬほどギャフンと言わせることに成功している。

ギャフン描写の使いどころ

 徹底的にギャフン描写を意識した作品として、『STAR DRIVER 輝きのタクト』を挙げておきたい。ヒーローは周囲のキャラクターを片っ端からギャフンと言わせまくるべきである、という明快な方針が貫かれていた。微妙だったのがヒロインの立て方であろうか。作中でもっとも他者をギャフンと言わせたのはアゲマキ・ワコではなくワタナベ・カナコであったので、ちょっと喰われた感じが残ってしまった。ワコ専用の驚かされ役として、アタリ・コウとケイ・マドカが投入されているのだが、それでもちょっと足りなかったのである。このように、鑑賞者はギャフンと言わせる驚かし役をヒーローやヒロイン、あるいは有力なライバルキャラとして認知しがちである。

 『魔法少女まどかマギカ』は興味深い。たぶんほとんどの鑑賞者が、あの糞インキュベーターに一発ギャフンと言わせてやりたい、という欲求を抱いて物語を追っていたと思うのだが、設定上、インキュベイターには感情がないことになっているので、ギャフン描写を盛り込むことができなかった。ところが、本作のラストの締め方は、インキュベイターを敵に設定しないことで、この点にかんする鑑賞者の欲求を上手くすかして処理している。このあたり、なかなかやるな、と思わせる。

 ギャフン描写はなかなか使い勝手のいい手段なのであるが、その半面、コミカルな印象が出てしまいがちになるうえに、ちょっと安っぽくて露骨で品がない、という欠点もある。たとえば、1954年の第一作『ゴジラ』には、私が思い出すかぎりでは、ギャフン描写のカタルシスはほぼ存在しない。来襲するゴジラを誰一人として舐めていない。舐めていないにもかかわらず、人間たちは無残にも蹂躙されてしまうのである。また、ゴジラに立ち向かう芹沢博士を舐める者も一人もいない。そうであるにもかかわらず、いや、そうであるからこそ、芹沢博士は死を選ぶのである。ギャフン描写を切り捨てたがゆえに、『ゴジラ』は重厚な悲劇の雰囲気をまとうことができたのである。

おわりに

 『STAR DRIVER』の核心はギャフン描写にある、との直観から考え始めたのであるが、それがここまで膨れ上がってしまった。もっとさっくりまとまると思っていたのに。ギャフン。

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