部活動モノの諸相

はじめに

 例によって小理屈を山盛りに盛り込んであるが、基本的にはアニメ版の『けいおん!』『大正野球娘。』『咲-Saki-』の感想文である。

偏在する部活動

 最近のアニメには部活動モノが多い、としばしば言われるが、実はそうではないのではないか。実情は、多いどころではなくて、すべてが部活動であり、部活動しかないのではないか。対等の関係は部活の同期で、上下関係は先輩後輩か先生と生徒関係、リーダーは委員長か顧問で、規律は部則。最近のアニメで描かれる社会集団は、すべて表面だけペンキを塗りかえた部活動なのではないか。たとえば、『ストライクウィッチーズ』とか『マクロスF』とかその他もろもろの作品に出てくる団体を、軍隊だと思うから違和感が出るのだ。あれはすべて本性は部活動なのだ。そう考えると、それらの作品における描写の違和感のいくつかは解消するのである。

 私がこう述べたからといって、これを批判と受け止めて欲しくはない。すべてが部活動あるいは擬似部活動として描かれる、ということは、一概に悪いこととは言えない。この世界に成立しうる人間関係のなかで、部活動やサークル活動こそが最も楽しくなりうるものであろう。基本的に人間が嫌いの私ですらそう思う。そうであるならば、作中の人間関係を部活動をベースに描くことは、十分に合理的であることになる。社会集団のありようを正確に描くことが現実における辛く嫌なことがらを作品中に不必要に導き入れてしまうことを意味するのであれば、ハナからそれを避けるのも、娯楽作品の採る戦略としては間違いではないのである。

 一言だけ付け加えれば、問題が起きるのは、作中の社会集団が過大な権力や暴力を保持している場合が多い。これ、上手く描かないと、作中の権力や暴力の行使が正当性をまったく欠いているように見えてしまうのである。たとえば、アニメやラノベによくある「すごい生徒会」とか「すごい風紀委員会」とかを想起されたい。なんで有権者はこんな精神の幼い子たちに治安維持を任せているんだ、というわけだ。ただし、ここでも留保が必要である。作中の権力や暴力の行使が正当性を欠いているように見えてはいけない、と述べた。しかし、その正当性は、必ずしも制度的に保証されなければならないわけではない。物語的に保証されればいいのであり、むしろ、そのほうが望ましいのである。ある暴力の使用を制度的に正当化された集団がその暴力を使ったとしても、お話としては面白くない。そうではなく、やっちゃいけない暴力をやらざるをえなくなってやっちゃう話が、娯楽作品の暴力をより楽しくするのである。本来、NY市警の一介の警官が悪人を片っ端から射殺してはいけないのだが、凶悪なテロリストを阻止できる奴がブルース・ウィリスしかいないので、まあ、皆殺しにしても仕方ないな、というのが『ダイ・ハード』シリーズであろう。この例では個人であるが、集団であっても同じである。現実とは違い、娯楽作品においては、暴力を正当化するのは制度ではなく話の流れであるべきなのだ。

部活動モノの二つの方向性

 話が流れてしまった。部活動モノばかりであり、ある意味、それでいいのだ、ということを述べた。しかし、ここで考えてみたいのは、ひとくくりにしてしまった「部活動モノ」というジャンルがはたしてどこまで一枚岩のものなのか、ということである。私見では、部活動モノはその構造からして大きく二つの類型への分類が可能である。

 そもそも部活動とは、芸術、学問、運動競技といった、なんらかの文化的営為のために行われる集団活動であるはずだ。しかし、ここで、重要な区別が生じる。その文化的営為があくまで真の目的なのか、名目上の目的で実のところ手段にすぎないのか、という区別である。たとえばサッカー部があるとしよう。同じサッカー部と呼ばれる部活動でも、そのあり方には違いがありうる。一方には、サッカーをやりたい人たちがサッカーをやるために集まったサッカー部があるだろう。しかし、もう一方には、なんでもいいから友だちをつくりたい人たちが手っ取り早いからという理由でサッカーをダシにして集まったサッカー部もありうるだろう。どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。私が指摘したいのは、この二つの部活動のあり方は、娯楽作品において、いささか異なる物語の論理を導く、ということである。

 いわゆるスポーツものというジャンルでは、基本的にはあくまで部活動は目的である。挙げるのも馬鹿馬鹿しい例であるが、水島新司『ドカベン』の明訓高校の連中は野球で勝つために集まった集団なのであって、楽しく友情を交わすための手段として野球をしている集団ではない。サッカーであれバスケであれ、スポーツ漫画の集団はだいたいそうである。文化部になるとそれが緩くなり、河合克敏『とめはねっ!』あたりを見ればわかるように、書道にそのものとして追求する価値があるとされつつも、それを通じて得られる友だち関係のほうにも重点が置かれたりする。柏原麻実『宙のまにまに』は、天文部活動という目的になりにくいものを話の流れに応じて目的に据えてみせる手つきが読みどころのひとつであろう。スポーツをやっていても、土塚理弘、五十嵐あぐり『Bamboo Blade』あたりは「友だち関係手段としての部活動」の要素がかなり強い。文化部モノの古典、ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』になると、普段は写真をまったく忘れていたりする。手段としての部活動という要素が前面に出ているというわけだ。

 このように、部活動モノには、話を導く論理が二要素ある。簡単に言ってしまえば、「目的としての部活動」要素と「手段としての部活動」要素ということになろうか。別に具体的な作品が必ずどちらかに分類されるというわけではないし、どちらかの要素に主題を必ず絞らないといけないというわけでもない。しかし、この二つの要素の配置が上手くいっていないと、部活動モノは読者に違和感を与えるものになってしまうのではないか、と私は考える。

 ここでやっと本題に入ることができる。最近多いとされる、アニメの部活動モノであるが、これらは「目的としての部活動」モノと「手段としての部活動」モノという二つの要素をどのように処理しえているのだろうか。いくつかの作品を挙げて考えてみたい。

けいおん!

 まずは『けいおん!』である。それなりに楽しんで見つつも、私はこのアニメのところどころで微妙な違和感を覚えていて、それがいったいなにに由来するのかをいろいろと考えていた。面白いことに、アニメにはモヤモヤする一方で、漫画版のかきふらい『けいおん!』には、その違和感はない。アニメ版だけにある違和感なのだ。それは、結局以下のようなことだったようだ。

 原作版『けいおん!』は基本的に「手段としての部活動」の方向性を採用している。つまり、あくまで女の子の仲良し関係がまず目指されるべきものとしてあって、バンド云々は基本的にその仲良し関係を構成するための手段にすぎないのである。音楽関連の描写も、キャラクターやキャラクターどうしの関係をより魅力的に描くための小道具として位置づけられていて、その方向性は第一巻から第三巻に至るまで揺らいでいないと思われる。原作の軽音部はダラダラ楽しく過ごしているだけで、たいした音楽的価値を生み出していない。ライヴの模様などもごくあっさりと描かれるだけだ。そして、あまり成長しない。たまにいい演奏をすることもあるが、そのあとに大失敗もする。こういったノリは、「手段としての部活動」に親和的である。音楽的に飛びぬけた成果を出さないからこそ、バンド活動ではなく、そこで営まれる友だち関係のほうが目的なのだ、ということが明確に表現されるのである。

 他方、アニメ版は少々雰囲気が異なる。こちらの展開では、軽音部は地道に音楽的成果を積み重ねているように描かれている。メンバーを集め、オリジナル曲をつくり、練習をし、ライヴを重ね、といったバンド活動の流れがはっきりした物語の軸となっているのである。そして、最終的に、軽音部の活動が平沢唯の人格的成長を促したかのような描写がなされて終るわけだ。アニメ版は、原作のエピソードをそのままなぞっているようなところでも、描き方の方向性が原作とは異なっている、少なくとも、異なっているように感じられるのである。このあたり、アニメで音楽モノをやると実際に音が出てしまうので、きちんと聴ける演奏を流さざるをえない、ということもあるのだろう。

 さて、問題は、このようなアニメ版の雰囲気が、どちらかというと「目的としての部活動」に親和的なものである、という点にある。部活動上の成功や部活動をつうじた成長を描くのであれば、その部活動は手段ではなく目的の位置に置かれていなければならない。というのも、そうでないと、受け手にとって、物語のなかの成功や成長が正当に獲得されたものとは思えなくなってしまうのである。簡単に言えば、一所懸命に打ち込んだからこそ良い結果が得られました、という物語上の因果関係がお話の説得力を構成するのであり、これは手段としてではなく目的として部活動が行われていなければ、なかなか描きにくいものなのである。

 ところが、『けいおん!』アニメ版はこのあたりがはっきりしていない。「目的としての部活動」に親和的な描写を盛り込みつつも、原作由来の「手段としての部活動」なノリがそのまま残っている。そして、この二つの要素を上手く調和させることができていないのである。ダラダラワイワイ皆で集まっているだけで楽しい、という思想と、部活動をすることで成長できる、という思想とが、ときに上手く合成されずに水と油のように分離してしまっているのだ。

 私の違和感は、どうやら、このへんに根をもっていたようだ。たとえば私は、「そこにロックがあり、お前には才能があるのに、なぜちゃんと練習しないんだ」と思ってしまったし、「練習しなくてもいいから、部室ではなにか音楽を聴いているべきではないか」とも思ってしまった。また、「最終回のライヴは原作どおり失敗してもよかったのではないか」とも思った。こういった居心地の悪さは、「目的としての部活動」に親和的な描写と「手段としての部活動」に親和的な描写が混在しているために、私の脳ミソが話の全体像を上手く処理できなかったせいで生じていたのである。このあたり、私にも原因があるのかもしれない。全体像を捉えようとしなければ、つまり、シーンごとにキャラクターを切り取って萌えるタイプの接し方を貫いていれば、こういうことは起きないだろう。

大正野球娘。

 続いて『大正野球娘。』に目を向けたい。このアニメ版、私はわりと好きなのであるが、見終わって、あと一試合必要だったのではないか、という思いを抱いた。これがどこに由来するのかを考えてみたい。

 ここでも原作との比較が有益である。注目すべきは、野球というスポーツの位置づけだ。原作、神楽坂淳『大正野球娘。』においては、野球の扱いは基本的に「別にみんな野球にこだわっていないのだが、なぜかいつも野球をやる羽目になってしまう」というものである。いわば巻き込まれ型なのである。これはすなわち、原作の桜花会の野球活動が「手段としての部活動」でしかない、ということを意味する。原作はむしろ「女の子がとにかくいろいろなものを食べるさまを愛でる小説」として読めさえするのである。

 他方、アニメ版はここでもまた少々雰囲気が異なる。たとえば、野球経験者がいるとか、菊坂胡蝶が自らのアイデンティティを探して野球に参加していたりとか、小学生チームと練習試合を重ねていたりとか、そういった要素が、この作品が「巻き込まれて始めた野球がだんだんそのものとして楽しくなっていく」系の物語であることを強く示唆する。そして、その方向性がもっともよく見てとれるのは、言うまでもなく朝香中学との試合の展開である。月映巴の本塁打の描き方などがわかりやすいのだが、原作は、この一試合に勝利できればそれでいい、というノリで、野球以外の要素を外部からいろいろと持ち込んでしまう。やはり野球は手段なのだ。しかし、アニメ版はきちんと野球で正面から渡り合い、そのうえで善戦空しく惜敗している。この違いは大きい。アニメ版のこの展開は、ここでの野球が物語上のたんなる道具立てではなく、まさに描かれるべき主題に格上げされていることを意味する。すなわち、アニメ版の桜花会の野球活動は「目的としての部活動」になっているのだ。

 さて、ここで、私のアニメ版にたいする物足りなさが説明できる。アニメ版にはもう一試合、「なにかの目的のためにする試合」ではなく、「ただ試合がしたいからする試合」の描写がちらっとでも必要なのである。朝香中学との試合は、そもそも野球がやりたいがために組まれたものではない。野球は少女たちの意地を通すための手段として偶然選ばれたにすぎないものであった。しかし、「なにかの目的のためにする試合」は、「その目的を達成したいのであれば、別のより合理的な方策もあったのでは」という含みをどこかに残してしまう。それでは「目的としての部活動」にならない。そういう余地をなくすためにも、やはり最後は「別に理由なんかいらない、楽しくてたまらないから野球するのだ」というような、ゲームそのものに内在する純粋な楽しさをそのものとして明確に提示する必要があるわけだ。そうでないと、「目的としての部活動」の展開がきちんと着地しないのである。そのための一試合がないために、少し尻が切れたような印象が最後に残ってしまうのではないだろうか。

 追記。DVDおよびBlu-ray版ではエピローグが描き足されていて、その後も野球をやっている彼女たちを見ることができるようになっている。これが欲しかった。これで締まった。

咲-Saki-

 ここまでの話でわかるように、別ジャンルの作品をアニメ化する瞬間に「手段としての部活動」と「目的としての部活動」の力点の置き方がズレる、という現象がしばしば観察できる。しかし、『咲-Saki-』の場合はちょっと事情が異なる。原作の小林立『咲-Saki-』は、どちらかといえば「目的としての部活動」色が強い作品であると言えるだろう。劇中で描かれる人間関係にかかわるあらゆる問題は、麻雀卓を囲んだ勝負をつうじて解決される。すべてが麻雀を中心に回っていくのだ。アニメ版もそれに準じて「目的としての部活動」ラインで展開していた。ここにズレはない。しかし、問題は、原作の話がまだ途中であるところで、アニメに一区切りをつけなければならなかったところに生じた。結果、アニメ版においては、抽象的な「全国へ」の掛け声は連呼されるのだが、物語として清澄高校麻雀部の活動がなにを目的としているのかがぼやけてしまった。

 まあ、他にやりようもないので、清澄の主人公たちの物語が投げっ放しに終ってしまった、ということは仕方がないとしよう。私が注目したいのは、サブ主人公たちの属する三つの麻雀部である。県大会編が終って全国死闘編へ、という流れを強調するのであれば、敗退した残り三校にかんしては、すべてのドラマに決着をつけておくべきであろう。この観点から振り返ってみると、龍門渕と鶴賀については、問題はない。龍門渕の擬似家族ドラマには決着がついたので、これはいい。鶴賀のガチ百合恋愛ドラマにも決着がついたので、これもまたいい。両方とも「目的としての部活動」のラインにきちんと沿った展開であったと言えるだろう。直面していた諸問題を麻雀があったからこそ乗り越えられた、といった感じが明確に出ていた。

 物足りないのは、風越女子である。ここにかんしては、なにも始まっていないし、終ってもいない。だからどうにもこのチーム、影が薄くなってしまった。私見を述べさせてもらえば、アニメ版で独自に展開された県大会個人戦で本当に描くべきは、竹井久と宮永咲の対決ではなかった。あれは蛇足である。そうではなく、福路美穂子と池田華菜の対決を描くべきであり、そして、池田のキャプテン超えを描くべきであったのだ。風越女子にかんして描くべき物語は、次期部長の池田が現部長福路を超えること、これ以外にない。それがないと、風越女子の人間関係は「麻雀を手段とした仲良しクラブ」で終ってしまう。それでは他のチームと釣り合わない。池田華菜が「素敵な先輩に憧れる無邪気な後輩」から一歩脱皮する姿を私は見たかった。そして、それを描く機会は県大会個人戦決勝しかなかった。アニメはアニメできちんと締めるのであれば、ここでも「目的としての部活動」を貫いてほしかったのである。

 こういう話をすると(たいがい酒を飲んでいることもあり)「池田華菜」という名前を出した時点でするっとネタ扱いされてしまうのであるが、私としてはもうちょっとよく考えた反応が欲しいところである。池田がネタキャラ扱いされるのは、まさに上述のような描かれるべき物語を描いてもらえなかったからなのだ。そこを見誤ってはならないのである。

おわりに

 いちおう誰が好きとかも書いておいたほうがいいのだろうか。別にオチもなにもつかないから不要であろうな。このテキストはウェブログでちょこちょこ小出しにしていた思考をまとめたものである。未整理な発想の時点で何人かの方々に寄せていただいたコメントが、今回のまとめにさいしてたいへん参考になった。どうもありがとうございました。

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