『仮面ライダーOOO』と魔法少女と力の論理

はじめに

 『仮面ライダーOOO』が最終回を迎えた。全体として、過不足なくまとまったよい作品であった。テーマも明快だし、語り口もそつがない。加えて玩具も大量に売ったわけで、東映特撮というブランドはさすがにいい職人を揃えていい仕事させるなあ、と感心した。とりわけ、俳優の上手さはピカイチであった。なかでも三浦涼介が抜群で、全体を引っ張っていたと思う。ただし、小さい子どもが『OOO』ファンの友人は、「息子がアンクの乱暴な言葉使いを真似するのがちょっと困る」と愚痴っていたが。なるほど、と、ちょっと笑ってしまった。

 惜しいところを言うとすれば、敵側の造形が全体的に小粒だっただろうか。「欲望」をテーマにする、というのはそれはそれで面白いのであるが、欲望は基本的に行為の動機を説明するものにしかならない。しかし、この手の物語を絵的に面白くするのは、行為の動機ではなく結果なのだよね。悪者が引き起こそうとする結果がとんでもないものであれば、その動機なんかどうでもいいのである。ところが、動機のほうを描くことにこだわったせいか、『OOO』では、最後まで、「ぼくらの住むこの世界」が悪者どもによって絶対的な危機に瀕している、という、予想される結果の深刻さが上手く描けていなかったように感じた。火野映司とアンクの物語、という軸がよく描けすぎていたことも、世界の危機をめぐる物語が傍流であるように思われる度合いを強めてしまったかもしれない。

 もうひとつだけ、ちょっと私が引っかかるところを。小林靖子の書く仮面ライダーは基本的にファンタジーであり寓話であって、SFではない。『龍騎』や『電王』でもその傾向はあったのだが、『OOO』にそれは顕著である。端的に言えば、作中に登場する超常的な力が、超科学ではなく魔法になっているのである。注意しておけば、錬金術ネタを使っている、などという表層的なことが問題なのではない。簡単に違いを説明しておけば、超科学も科学であるかぎり、人間の側の事情とは無関係なしに自然に存在する力を扱っているはずで、それを利用するためには技術が必要となるはずだ。ところが、『OOO』のヤミーは人間の欲望をなんの制約もなしに直接に叶えてしまう。そのため、善悪無記の科学や技術の力をどのように使うか、という石ノ森章太郎ヒーロー伝統のテーマが物語の軸から完全に退いてしまい、人間が自分の内面の欲望とどうつきあうか、という「心の問題」のみに焦点が当てられることになっている。これはテーマ選択がそうだった、というだけのことで、まったく悪いことでもなんでもないのだが、純粋な私の好みとしては、ちょっと物足りなく思った。

 感想はこのくらいにしておこう。以下、少し突っ込んで、私の『OOO』の読み方を述べておきたい。

『OOO』における「仮面ライダー」批判

 『OOO』の物語のテーマは言うまでもなく「欲望」なのであるが、問題はこのテーマがどのような語られ方をしていたか、というところにある。興味深いのは、『OOO』の物語を昭和版仮面ライダーにたいする批判として解釈することができる、ということである。

 私はかつて「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」というテキストで、昭和ライダーシリーズの基本的な物語構造を分析しておいた。昭和ライダーは基本的に自分以外のみんなの幸せのために戦うものである。仮面ライダーは改造人間であるがゆえに、自らの幸福を追求することがそもそもできない。それゆえに、純粋かつ普遍的な正義の味方たりうる。これが私の主張であった。

 ところが、『OOO』の物語はこれに真っ向から否を唱えるものであるように読める。火野映司は徹底的な利他主義者として、自らの欲望を、すなわち、自らの幸福追求をまったく顧みずに、戦いにのめり込んでいく。その姿は、一見すると、上で述べた理想の昭和ライダーそのものであるかのように思われる。しかし、そのような火野映司を『OOO』は肯定しない。そこにもまた、みんなを助けたい、そして、そのための力が欲しい、という欲望が存在しているのではないか。そして、力が欲しい、という欲望は、それが充足されたときには幸福を生むのではないか。すなわち、仮面ライダーであっても、自らの幸福追求から完全に切り離されてあることはないのではないか。このように問うていくのである。これらの問いはまさに、先ほど提示した昭和ライダーの基本構図そのものにたいして根本的な疑念を投げかけるものであろう。

 『OOO』の面白さの核心のひとつは、この大胆な問いかけの試みにある。『OOO』という作品は、仮面ライダーの本質への根本的な挑戦において成立しているのである。しかし、私は『OOO』の仮面ライダー批判の背後には、一つの重大なトリックが隠されている、と考える。以下、そのトリックがどんなものであるのかを解明していこう。

魔法少女ものとその二類型

 ここで本稿は、仮面ライダーからいったん離れ、魔法少女ものに目を向けたい。魔法少女ものというジャンルに存する二つの類型の区別が、本稿の問題にたいして有効な手がかりを与えてくれるからである。

 現在 「魔法少女もの」と呼ばれている作品群はあまりにも多種多様になってしまっている。そこには、きちんとした論理にしたがったなんらかの下位分類を施してやることが求められている。そういった分類の軸はさまざまなものが考えられるであろうか、ここではその一つに着目して議論を進める。

 まず、魔法少女ものの大まかな推移を確認しておきたい。以下では、基本的にはテレビアニメ作品のみを扱う。

 1966年の『魔法使いサリー』を皮切りに、1970年代にさまざまな魔女っ子もの、魔法少女ものが制作された。このあたりを古典的魔女っ子の時代と呼ぶことができるだろう。1980年代には、ぴえろ系の魔法少女ものが時代を席巻し、ここで近代魔法少女イメージが確立した。アイドルものジャンルとの融合などは、この時代に生まれた現象である。

 大きく時代が動くのは、1990年代前半である。1992年の『美少女戦士セーラームーン』あたりを嚆矢として、魔法少女ものが、いわゆる戦闘美少女ものと融合したのである。2011年の『魔法少女まどかマギカ』まで連なる系譜の発端がここにある。1990年代後半にもまた、注目すべき展開が見られた。1996年の『魔法少女プリティサミー』あたりから、大きな男性のお友だち向け作品が制作されはじめたのである。それと同時に、実際の過去作品とは必ずしも対応しない、パロディ化された魔法少女もののイメージが広まっていき、さらには、そのイメージに基づいて新しい作品が制作されるようにもなった。そして、1998年の『カードキャプターさくら』、1999年の『おジャ魔女どれみ』といった画期的な作品を経由しつつ、21世紀の現代魔法少女ものの時代へと繋がっていくわけだ。

 さて、ここで注目したいのは、戦闘美少女ものとの融合である。私はここで、魔法少女ものの論理にかんして、まったく新しい方向性が生じた、と考えている。その新しさのポイントとなるのは、魔法の力がなにに役に立つか、ということである。ここに、「戦闘美少女と融合した魔法少女もの」と「それ以外の伝統的な魔法少女もの」とのあいだの決定的な差異が成立しているように思われるのである。

 伝統的な魔法少女ものの魔法が達成させてくれることがらは、基本的には、日常的な別の手段によっても達成可能なものである。魔法の利点は、日常的な手段よりもコストがかからずにできる、というところに置かれるわけだ。普通は人助けをするのは大変であるが、魔法であれば簡単にできる。普通はアイドルになって活躍するのは大変であるが、魔法であれば簡単にできる。等々、等々。このあたりの論理は、先にも挙げた『どれみ』などに明確に見てとることができるだろう。『どれみ』においては、他者の精神を制御することや死者を蘇生させることなど、日常的な手段によって不可能なことは、魔法においても禁止されているのである。

 ところが、この特徴が、戦闘美少女系魔法少女には基本的に当てはまらない。この場合の魔法は、基本的に、日常的な手段では打倒することが不可能な危機に対抗するためのものである。逆に、そういった非日常的な危機がなければ、魔法の使いどころはなくなってしまうであろう。このように、伝統的魔法少女と戦闘美少女系魔法少女のあいだには、魔法の使いみちにかんして、決定的な論理の違いが存するのである。

仮面ライダーにおける二つの力の区別

 さて、以上の考察は、魔法少女ものではない作品にかんしても見通しを与えてくれる。というのも、『OOO』の昭和ライダー批判の骨格は、これら二つの力を作為的に重ね合わせることにおいて成立している、と解しうるのである。ここで注目すべきは、火野映司の欲望した「力」の性質である。

 本来、火野映司が欲していたものは、人を助けるための卓越した力であった。これはどちらかといえば、伝統的な魔法少女ものにおける魔法に近いものである。普通の人間であっても人助けはできる。しかし、コストがかかるので、救えない場合も出てきてしまう。もっと力があれば、もっと助けられる、というわけだ。こちらの力を「日常に属する力」と名付けておこう。

 では、オーズとなった火野映司が得た力はなんだったか。ここが問題である。こちらはまさしく、戦闘美少女系魔法少女ものの魔法にほかならない。これは考えてみれば当然のことである。戦闘美少女は広義のヒーローものに属するのであり、戦闘美少女系魔法少女ものの魔法とは、つまるところはヒーローの戦闘能力に他ならない。非日常的な使いみちしかない、という特徴は、元来はヒーローの力の特徴なのである。それを戦闘美少女系魔法少女ものが引き継いでいるだけなのだ。ともあれ、オーズの力なんぞは、グリードという非日常的な脅威を打倒することにしか役に立たないのであって、それ以外の使いみちなどないであろう。こちらの力は「非日常に属する力」と呼ぶことにしたい。

 さて、この二つの力は、昭和ライダーにおいて先鋭に区別されてきたものである。この論点は、私がかつて「王道としての『仮面ライダー電王』」で「二世界論的ヒーロー」という概念を導入して強調したことに直結する。昭和ライダーは日常世界の秩序をその裏側の非日常的な世界においてひそかに守るものである。これは、裏を返せば、昭和ライダーが日常世界の枠内の悪にたいして無力であることを意味する。貧困、搾取、戦乱、疫病、ついでに言えば、ドメスティックバイオレンスやパワーハラスメント、こういった日常世界に属する悪を制するための力を昭和ライダーはもたない。だが、それでいいのだ。そういった悪は、我々が地道に解消していくべきものであり、仮面ライダーにその解決を頼るべきものではないからである。

 以上の考察にもとづいて「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」の議論をさらに展開させることができる。そこで私は、昭和ライダーが人間的な幸福を失うかわりに純粋な正義を獲得する、と論じた。しかし、昭和ライダーが失うのは、人間的な幸福だけではない、ということになる。日常的な悪にたいする抵抗力もまた、昭和ライダーは失うのである。昭和ライダーの力は、日常的な悪にたいして使うには、あまりにも異質であり、また、あまりにも強大である。そのため、昭和ライダーは、普通の人間たちとともによりよい日常世界をつくりあげていく営みから排除されてしまう。それゆえ、非日常的な悪を打倒したあとに、昭和ライダーはいずこともなく去っていくことになるわけだ。ただし、このこともまた、昭和ライダーの正義の純粋性を保つものであることに注意すべきであろう。よりよい日常的世界をつくりあげる営みは、たとえば政治的党派性からは切り離せないものであろう。そこにおける正義は絶対的なものではありえないのである。日常に属する力が行使される場面との関わりを断たれてしまうからこそ、昭和ライダーの正義は純粋たりうる、というわけだ。

 以上の考察を踏まえたうえで、再び『OOO』の仮面ライダー批判に立ち戻ってみたい。

『OOO』の物語構造の核心

 火野映司は徹底的な利他主義者である。自らの欲望を捨てて、仮面ライダーとしての戦いにのめり込んでいく。その姿は、過去の仮面ライダーたちと似ているように思える。しかし、そのような火野映司の欲望の欠如を、『OOO』はいびつなものとして描くのであった。さて、もしこれが正しければ、そのいびつさは、たとえば本郷猛や五代雄介にも当てはまることになってしまうだろう。さて、本当にそうなのだろうか。この点について、『OOO』は明確には語っていない。

 私の考えでは、このいびつさは、火野映司にのみ特有のものである。それは、火野映司が、最初から最後まで、先に述べた二つの力を混同しつづけていたことに由来している。いや、より精確に述べるならば、『OOO』という作品が、最初から最後まで、二つの力を意図的に同一視して描いていたことに由来している。

 火野映司は本当は力を欲望していた。それはいいだろう。しかし、すでに述べたように、その力は、伝統的な魔法少女ものの魔法と同じく、日常に属する力の延長線上にあるものだったはずだ。そうであるならば、その欲望はオーズの力をもって満たされるはずがない。オーズの力は非日常に属する力だからだ。端的に言えば、オーズの力を得たとしても、貧困やら搾取やら戦乱やら疫病やらに苦しめられている人々を助けることがよりよくできるわけではまったくない、ということである。ところが、このとても簡単な事実に火野映司はまったく気づかない。この気づかなさは、かなり奇妙なものである。

 さらに、物語の最後になって、火野映司は自分の欲していた力が、オーズとしての非日常に属する力ではなく、日常に属する力としての人間的な絆であることに気づく。しかし、ここもよく考えれば、奇妙である。ついさっきまで、火野映司はグリードの脅威と死闘を繰り広げていた。グリードを打倒するためには、人間的な絆は無力である。オーズという非日常に属する力がなければどうにもならないはずなのである。火野映司は、オーズの力ではなく人間的な絆こそが自分の欲していたものなのだ、と結論づけるが、これはあきらかな勘違いである。オーズの力も対グリードには必要不可欠なものだったはずだ。場合によって必要な力の種類が異なるだけであり、それらの力の重要性を比較することに意味はないはずなのだ。

 このように、物語の決定的な場面において、火野映司は、自分自身がどのようなことがらにかんしていかなる力を欲望しているのか、について致命的な混乱をみせる。ところが、『OOO』は、その混乱をそれとして視聴者に気づかせないように、慎重に物語を語っていく。まさにここにこそ、『OOO』という作品の核心がある。

 先ほど私は『OOO』が投げかけた問いを以下のように整理しておいた。仮面ライダーにもまた、みんなを助けたい、そして、そのための力が欲しい、という欲望が存在しているのではないか。そして、力が欲しい、という欲望は、それが充足されたときには幸福を生むのではないか。すなわち、仮面ライダーであっても、自らの幸福追求から完全に切り離されてあることはないのではないか。今や、これらの問いに答えることが可能になった。

 この問いが成立するのは、日常と非日常、二つの世界を区別しないときだけである。欲望や、それが充足されたときの幸福、という概念は、基本的に日常世界においてのみ意味をもつものである。ところが、この問いで問題になっている力は、仮面ライダーの力、非日常に属する力である。すなわち、この力は、幸福の彼岸にあるはずのものである。つまり、二つの世界およびそれぞれに属する二つの力を先鋭に区別するならば、このような問いはそもそも無効になってしまうはずなのである。結局のところ、この問いが核心を突いたものとなるのは、二つの力を徹底的に同一視する『OOO』における火野映司たいしてだけなのである。

 このように、『OOO』の仮面ライダー批判は、一見するときわめて一般的なものに思えるのであるが、その実、仮面ライダーオーズこと火野映司にしか当てはまらない。たとえば本郷猛や五代雄介には当てはまらないものなのである。しかし、『OOO』はこのあたりを丁寧に丁寧にぼやかして描く。そのため、昭和ライダーを核とする二世界論的ヒーローのありかたにたいして根本的な批判を提起するのに成功しているかのように読めてしまうのだ。これは実に独創的でありまた技巧的に優れた試みである。火野映司という特異な仮面ライダーを造形したうえで、その特異性を巧みに隠蔽してみせる。このような物語の構成および叙述のトリックこそ、『OOO』という作品においてもっとも刺激的な要素である、と私は評価するものである。

おわりに

 『仮面ライダーOOO』、細かいところにまで心憎い配慮がなされているところもよかった。最終回のあとで、公式サイトの「オーズ所持メダル」ページが「割れたアンクのメダル二欠け一枚ぶん」になっているところには、ちょっとグッときてしまった。そして、さらにそのあと、渡部秀と三浦涼介のウェブログを見て、本当にちょっと泣いた。

 最後にちょっとだけおまけを。本稿で私は「伝統的な魔法少女もの」と「戦闘美少女と融合した魔法少女もの」との区別を行った。では、『魔法少女まどかマギカ』はどちらに属するのだろうか。答えは、両方、ということになる。インキュベーターとの契約の論理は、ほぼ「伝統的な魔法少女もの」の定式に則っている。我々が画面のなかに向かって「騙されちゃだめだ、そんな望みを魔法で叶えてはいけないんだ」と叫んでしまうのは、まさにそれが「使ってはいけない魔法」である、ということを『どれみ』などの伝統的な魔法少女ものから学んでいるからである。ところが、いったん契約が成立したあとで与えられる魔法少女の力は、基本的に、魔女と戦う以外にたいして役にたたない戦闘美少女系魔法少女ものに則ったものとなっている。というわけで、『まどマギ』もまた、『OOO』と同様に、二つのタイプの魔法少女もののミクスチャーによって成立している、と解しうるのである。

追記

 誤解を招きやすい書きかたをしてしまったところがあるので、補足しておきたい。掲示板でご指摘いただいた通行人氏に感謝したい。

 私はオーズの力を「非日常の力」として特徴づけた。しかし、これは、オーズの能力を日常的な用途に使うことが想像不可能である、ということを主張しているのではない。もちろん、パワーがあるだとかスピードがあるだとかいった能力は、日常生活で使えばいろいろと役に立つものであるはずだ。ただし、ここで問題になっているのはそのようなことではなく、「ヒーローもの」という物語形式の論理である。

 昭和ライダーを典型とする一部の古典的なヒーローもののフォーマットは、その力が他にも使えるかもしれない、 という含みを完全に無視することにおいて成立している。そうしないと、そのヒーローが対峙している敵対者が日常を超絶した存在である、というニュアンスが表現できなくなってしまうからである。たとえば、仮面ライダーがその能力を使って、コソ泥を捕まえることと、悪の怪人を倒すこと、その両方をやってしまうと、コソ泥と悪の怪人が同レベルの悪になってしまうであろう。これでは、ヒーローものの根っこが掘り返されてしまいかねない。ヒーローとその戦いは、日常を超越していなければならないのである。そういうわけで、警察や軍隊など、現実に存在する合法的暴力装置の仕事のたぐいは、物語形式上の制約からして、あるタイプのヒーローには禁じられることになる。

 本稿で「非日常の力」という特徴づけをするときに私が意味しているのは、このようなことである。

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