王道としての『仮面ライダー電王』

 『仮面ライダー電王』はヒーローものの王道にある作品である。
 見かけの「らしくなさ」に目を奪われて本質を見失ってはならない。

 英雄譚によくあるモチーフとして「失われたなにかを見つける」というものがある。この「失われたなにか」に「みんなの平和な日常」を組み込むと、いわゆるヒーローものができあがる。失われた「みんなの平和な日常」を回復するために戦うのが、ぼくたちわたしたちのヒーローたちだ、というわけだ。
 さて、そのようなヒーローものの物語は、以下のような時間的な過程のもとで構成されることが自然であると思われる。すなわち、過去に存在した秩序が、現在破壊されて混沌になってしまっているので、未来に秩序を回復しなければならない、というものだ。
 とくに例を挙げるまでもないだろう。アニメやゲームから、少年漫画、時代劇、ハリウッドの映画まで、繰り返し登場する定番の展開である。

 ところが、だ。『仮面ライダー』が原型をなす特撮ヒーローものの物語は、少々異なる構造をもつ。
 「仮面ライダー」系の特撮ヒーローものの世界観は、「二世界論」と名づけることができるような独特の構造をもつのである。

 二世界論とはなにか。このような物語および世界の設定においては、秩序と混沌の関係は時間的な過程として表現されるのではない。そうではなく、表裏一体の同時的なものとして捉えられることになる。
 たとえばこうだ。みんなは現在が平和な日常だと思っている。しかし、日常世界の裏側に、それを支える非日常な世界があって、そこが実はすでに混沌に侵蝕されているとしたらどうか。このとき、秩序と混沌は、世界の表側の秩序と世界の裏側の混沌、というように、この現在に同時に成立していることになる。裏側と表側に世界が二重化するのである。
 ここでヒーローがなにをしているのかといえば、裏側の非日常の世界で戦うことにより、混沌が日常の世界へとさらに侵蝕していくことを防いでいる、ということになる。
 このような世界設定において、日常世界の秩序は非日常世界のヒーローによって「ひそかに守られている」ということになる。「失われたものの回復」の変種としての「失われやすいもののひそやかな守護」が、二世界論的ヒーローの物語の骨格をなすのである。

 二世界論的ヒーローものは独特の魅力をもつ。
 二世界論的ヒーローの特徴として、その戦いと勝利とが、日常に住む人々に秘されたままにとどまることを指摘できる。ヒーローたちの戦いは、それが非日常の世界に属するがゆえに、日常を生きる人々にとっては基本的に不可知のものである。

 ここにおいて、虚構の物語のなかの日常を、その物語を受容している我々が生きる日常に結びつける妄想が成立することに注意されたい。
 簡単なことである。身長40メートルの光の巨人が現実に存在しないことは明白だ。そのような巨大な存在者が活躍していれば、我々の耳にも聞えてくるはずだから。しかし、二世界論的ヒーローについては事情が異なる。二世界論的ヒーローの戦いは、そもそもが日常の裏側に秘された不可知のものである。それはすなわち、二世界論的ヒーローにかんしては、「彼ないしは彼女が守っているのは、もしかしたら我々の生きるまさにこの世界なのかもしれない」、さらには「もしかしたら今もすぐ近くで戦いつづけているのかもしれない」という妄想が燃えあがる余地が十分にあるということなのである。

 このような妄想における近さの感覚は興味深い。二世界論的ヒーローは、その戦いが現実世界と地続きであることを原理的に排除しないことで、受け手に「ぼくらのヒーロー」、さらには、「もしかしたら、ぼくらもヒーロー」という強い思い入れを喚起するのである。
 二世界論的ヒーローは、我々にたいして強く「きみもヒーローのようであれ」と呼びかけるものなのだ。
 この「ヒーローからのヒーローへのいざないの呼び声」に、私はヒーローものの核心の一つを見て取るのである。

 さて、二世界論的ヒーローの一つの典型を提示したのが、1971年の『仮面ライダー』であることは、もはや指摘するまでもないだろう。ショッカーは世界の暗黒部分を支配し、さらには政界や財界なども悪に染めつつある。しかし、その悪の手は「ぼくらの日常」に届くことはない。なぜならば、本郷猛と一文字隼人がいるからだ。だから、「ぼくら」は本郷と一文字を応援しなければならない。本郷や一文字のように生きねばならない。そして、もしも自分の番がきたら、戦わねばならないのである。二世界論的ヒーローものの教科書的構成と言えるだろう。

 さらに遡行するならば、二世界論的ヒーローの決定的なイメージは、石ノ森章太郎『サイボーグ009』「地下帝国ヨミ編」最後の屈指の名シーンからも読み取ることができる。戦いの果てに、宇宙空間から地球へと落下していく009と002。しかし、その姿は、彼らによって守られた地上の姉弟には、一つの流れ星としてしか見えないのだ。ヒーローの戦いは、日常からは不可知の領域で行われている。あなたがある夜、空に見つけた流れ星は、人知れず戦ったヒーローが人知れず消えていく姿なのかもしれない。このことに思い至って心震えない者に、ヒーローを語る資格はない。

 かくして、石ノ森章太郎以降、漫画、特撮だけにとどまらず、さまざまな領域で二世界論的ヒーローが描かれることになったわけだ。

 そして、『仮面ライダー電王』である。
 『電王』はなるほど「仮面ライダー」らしくはない。ヒーローものらしくもないかもしれない。しかし、それは見かけだけのことだ。これまでの議論を踏まえるならば、『電王』は、まぎれもなく『仮面ライダー』の流れに正統的に連なる作品である。『電王』は二世界論的ヒーローものを極限まで突き詰めたかたちで提示しているのだ。

 時間の列車は我々の日常の外部に存在する。それも、通常の時間の外部に存在する、という仕方で。この外部性は非常に強いものだ。
 ショッカーとの戦いが我々の日常からは不可知なのは、ショッカーが悪の「秘密」結社だからだ。つまり、『仮面ライダー』の二つの世界の断絶は、秘密されているから認識できない、というだけのものである。なにかの拍子に秘密は我々に暴露されてしまうかもしれないわけだ。
 ところが、『電王』の場合は事情が異なる。野上良太郎と桜井侑人の戦いを、我々は原理的に知ることができない。彼らの戦いは、我々の日常的から原理的に切り離されている。
 我々が、彼らが傷つき苦しみ戦っているさまを偶然目にしたとしよう。しかし、彼らが勝利するかぎり、我々はその戦いを忘却し、思い出すことはない。我々はどうあっても二人の戦いを知りえない。
 良太郎と侑人の戦いは、徹底的に我々の日常世界の外部にある。二つの世界の断絶がきわめて深いのだ。
 さらに、二人の物語上の役割を思いおこされたい。
 野上良太郎は「なかったこと」になった「あったこと」を、我々に代わって記憶する使命を負う。桜井侑人はその存在を忘却される宿命を負う。
 非日常を記憶すること。そして、日常からは忘れられること。これはまさに二世界論的ヒーローの使命であり宿命であろう。
 二人は、まさしく二世界論的ヒーローなのである。

 しかし、話はこれで終わらない。『電王』では、良太郎と侑人の戦いのさらなる外部に、もう一つの隠された戦いが存在している。
 それは、言うまでもなく、野上愛梨と桜井侑人(大)の戦いである。この二人の戦いは、『電王』の良太郎と侑人(小)にすら秘されていた、我々の日常の外部のさらなる外部に存在していたものである。そして、秘められたこの戦いが、良太郎と侑人(小)の戦いを支え、導いていたのであったのだ。
 二世界論的構造がもう一度反復されているのである。

 このように二世界論的構造を突き詰めたかたちでもつからこそ、『電王』は、野上良太郎の痛みや、桜井侑人の苦しみは、我々の心に深く刺さる。
 劇中の彼らの痛みや苦しみは、我々が当たり前のものとして生きているこの日常の背後に存在したかもしれない痛みや苦しみである。この平凡な日常は、そのような痛みや苦しみに支えられ、守られてこそ存在しうる、脆く儚いものかもしれないものなのだ。
 どうあっても知りえない誰かの痛みや苦しみが存在しうるということ。そして、それが当たり前のように享受しているささやかな幸せすべてを繋ぎとめているのかもしれないということ。ここに思い至ったとき、我々は「ヒーローからのヒーローへのいざないの呼び声」を聞く。
 そう、あの言葉だ。

 ぼくにできることを。

 野上良太郎の言葉は、「きみも、きみにできることを」と形を変えて、我々の心に届くのだ。
 ぼくも、「ぼくにできること」をしなければならないのだ。

 『仮面ライダー電王』の「ヒーローらしくなさ」「仮面ライダーらしくなさ」に目を奪われて本質を見失ってはならない。
 野上良太郎の喧嘩の弱さなどは、たんなるスパイスにすぎない。主人公の表層的な強さ弱さで核が揺らぐほど、特撮ヒーローものの伝統は甘っちょろいものではない。二世界論的ヒーローの系譜という観点からすれば、『電王』は『仮面ライダー』から脈々と流れてきた理念を正統的に受けついでいるのである。

 最後に感想を。
 『電王』、面白かったんじゃないでしょうか。ちょっと語り足りてないなあ、という感じもあったけれども、中盤でヒロイン役女優の降板という大きなアクシデントがあったことを考慮に入れると、よくもここまでまとめたな、と感心せざるをえないから、あまり強く言えない。ただ、電王の各フォームのデザインはやはりかっこわるいと今でも思っているけどな。

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