ヒーローは誰の幸福のために戦うのか

 本稿では、タイトルの問いに引っかけて、昭和版仮面ライダーシリーズとプリキュアシリーズについて少々語ってみたい。

 たぶん他人から見れば、私は昭和版仮面ライダーシリーズの信者ということになるのだろう。しかし、正直なところを言えば、私は、昭和ライダーシリーズが作品として出来がものすごくよい、とは思っていない。子どもを舐めたような手抜きなところ、いいかげんなところも目立つ。観ていて怒りがこみあげてきたり、悲しくなってしまったりするときも少なくない。しかし、それでもなお、私が昭和ライダーシリーズをヒーローものの聖典の位置に置くのは、このシリーズが、テキストのタイトルの問い、「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」に究極の答えを与えているからである。

 では、仮面ライダーは誰の幸福のために戦うのか。答えは簡単だ。自分以外のみんなのために戦うのである。

 要点は、仮面ライダーの戦いの目的に「自分自身の幸福」が入っていない、というところにある。仮面ライダーが目指すのは、もちろん自分自身の幸福だけのためではない。しかし、それだけではない。重要なのは、仮面ライダーが戦うのが、全体の幸福のためでもない、ということだ。「全体」のなかには「自分自身」も含まれてしまう。そうではないのだ。みんなのためではなく、自分以外のみんなのため、なのである。自己中心主義でもなく全体主義でもない。仮面ライダーの正義は、徹底的な他者中心主義に基づいているのである。

 なぜそうなるのか。仮面ライダーが改造人間だからだ。人間ではないからだ。改造人間たる仮面ライダーには、これから人間的な幸福を手に入れる可能性が完全に断たれている。仮面ライダーは原理的に自分自身の幸福を追求することを奪われている。だから、仮面ライダーは、自分自身の幸福のためにも全体の幸福のためにも戦うことができない。自分以外のみんなのためにしか戦うことができないのだ。戦いが終わり、幸福な世界が実現したとしよう。しかし、その幸福な世界は、あくまで人間たちにとっての幸福な世界でしかない。改造人間たる仮面ライダーの居場所はそこにはない。それゆえに、戦い終わった彼らはバイクにまたがっていずこともなく去っていくのだ。

 ここだ。ここが昭和版仮面ライダーの核心なのだ。改造人間である仮面ライダーは、原理的に幸福から排除された存在なのである。しかし、そうであるがゆえに、仮面ライダーは、エゴイズムや人間的な党派性から完全に自由な存在たりうる。そして、まさにこういった幸福からの完全な独立性のゆえに、仮面ライダーというヒーローは、党派性にまみれた人間的な正義を超越し、純粋かつ普遍的な「正義の味方」性を体現する資格を獲得したのである。

 『仮面ライダー』第一話で、本郷猛が水道の蛇口をねじ切ってしまい、愕然とするシーン。あそこは本当にいい。あの瞬間に本郷猛は自分が人間的な幸福を永遠に失ったことを知る。そして、彼は仮面ライダー一号となるのだ。あるいは、『仮面ライダーV3』で風見志郎が珠純子の淡い想いを徹底的に拒絶するあたりを思い浮かべてもらってもいい。風見志郎は、自分がもはや人間的な幸福の外部にいることを強く自覚しているのである。『仮面ライダーX』の第八話までは、神敬介がまさに仮面ライダーとなる過程を描いている。父親を失い、人間としての肉体を失い、自分が愛した女、水城涼子を失い、自分を愛してくれた女、水城霧子を失い、すべての人間的な幸福を失って、Xライダーは真の仮面ライダーとなる。この展開もまた、私の魂を揺さぶってやまない。

 人間的な幸福を失うかわりに獲得する純粋な正義。このモチーフに、私は昭和ライダーの核心を見るのである。

 そういうわけで私は、純粋な正義、超越的な正義を備えたヒーローを好む傾向がある。たとえば、アメコミ由来のヒーローもののいくつかは、ヒーローを社会的な正義の文脈に絡める方向で話をつくっているが、そういう系統の展開は正直あまり好きではない。社会的な正義を考えるほうが上等であるように思ってしまうのは錯覚にすぎない。人間たちが織り成す社会の正義の外部に、それを超えた、イデア的な正義を描いていくジャンルもあるのだ。もちろん、現実にはそんな正義は存在しない。しかし、理想を描いてこそのヒーローものではないか。そこではじめて生まれる表現もあるのだ。

 とはいえ、すべてのヒーローものが滅私奉公的正義一辺倒になってしまったら、それはつまらない。もちろん、別の方向でヒーローを描いていく可能性もいろいろと開けている。ここで、まったく逆の方向からの「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」への答えを考察してみたい。

 ここで我々は、女児向けスーパーヒロインの代表、プリキュアシリーズへと目を転じる。

 まずは想像力を少しお貸しいただきたい。強大な悪の猛攻に苦戦するヒーローがいたとしよう。そのヒーローはかつての英雄に助力を求める。しかし、その老兵は過去の無残な敗北に打ちのめされ、戦う意志を失ってしまっていた。あなたの助けが必要だ、というヒーローを老兵は拒絶するのであった。

 こんな話があったとすると、この老兵にはだいたい80%くらいの高確率の死亡フラグが立っている、と我々は見なすのではないだろうか。たぶん、ヒーローのピンチを救ってその漢は死ぬ。そして死にぎわに「これで俺も負け犬ではなくなった」とか、死んだ戦友の名を挙げて「今お前たちのところへ逝くぜ」とかなんとか呟くのである。折れた心の復活、過去の清算、その引き換えの死、新たな世代に受け継がれる魂、こんなお約束のパターンが期待されるわけだ。

 しかし、である。まさにこんな感じの流れで『ハートキャッチプリキュア!』の物語の本筋に絡むことになる月影ゆりことキュアムーンライトであるが、彼女に死亡フラグが立ったという印象をもった視聴者はほとんどいないと思われる。子どもむけだから、ということではなく、物語の流れからして、直感的に「それはない」と思ってしまうのである。これはなぜだろうか。

 ここで「ヒーローは誰の幸福のために戦うのか」という問いに立ち戻ってみたい。歴代のプリキュアは誰の幸福のために戦っていたのか。そう、彼女たちは「みんなのため」に戦っている。昭和ライダーと異なり、「自分以外のみんなのため」に戦っているのではないのである。プリキュアの「みんな」のなかには「自分自身」も入っている。ここが肝心なところだ。プリキュアシリーズは「戦士であることが人生のすべて」という方向性を採用していない。プリキュアたちはあくまで人間である。彼女たちが守護する人類の未来のうちには、自分自身の場所もきちんと残されている。それでもなおプリキュアがヒーロー(ヒロイン)としての純粋性を高いレベルで保っていられるのは、彼女たちが少女であるからだろう。少女性(処女性といってもよい)が正義の純粋性を支えているのである。このあたりは、ジェンダー論的にも興味深いところである。

 具体例を分析してみよう。『フレッシュプリキュア!』におけるイースからキュアパッションへの転生エピソードである。悪の尖兵が正義の戦士として改心する展開を支える論理に着目したい。一般的なヒーローものでは、この種の改心は正義の心に目覚めることによって成立する。しかし、『フレッシュプリキュア!』はそうなっていない。東せつなは自分自身の幸福を求める心を自覚することによって、キュアパッションとなるのである。つまり、初登場の段階では、キュアパッションはまだ、「みんなのため」に戦う、という段階に至っていない。それでも彼女はプリキュアに転生できてしまう。これはいわば、たんにエゴイズムに目覚めただけで正義なしにプリキュアが誕生してしまった、ということである。なぜこれが物語として成立するのか。

 ここで、「みんなのため」に戦うプリキュアの「みんな」のなかには「自分自身」も入っている、という論点を想起されたい。これは、プリキュアにとって、「みんなのため」に戦うためには、まず「自分自身」のために戦うことができなくてはならない、ということを意味する。自分自身の幸福を求めない者は、みんなの幸福を求めることはできない。繰り返しになるが、みんなのなかには自分自身も入っているからだ。それゆえに、まず東せつなはエゴイズムに目覚めねばならないのだ。このあたり、昭和ライダーとはまったく違う。

 さらに、これまた先に指摘した、少女性に由来する純粋さ、という論点にも着目すべきであろう。端的に言えば、プリキュアシリーズにおいては、「純粋な少女にとって、自分自身の幸福はみんなの幸福なしに成立しえない」ということが疑問の余地ない当然の前提となっているのである。純粋な少女とは、そういうものなのだ。そのため、東せつなは、自分自身の幸福を志向するエゴイズムから、ごく自然に、みんなの幸福を志向する普遍的な正義へと心の成長を遂げることになる。この成長分が当然のことと見込まれているので、自分自身の幸福を求める心をもった時点で、東せつなはプリキュアとなりえたのである。これもまた、昭和ライダーではありえないことである。

 『フレッシュプリキュア!』から目を転じ、我々の問題に戻ろう。先の老兵の事例において死亡フラグが成立するためには、問題の老兵にとって、戦士であることが人生のすべてになっている必要がある。その場合、心が折れて戦えなくなった者は、生きる意味のすべてを失ったことになり、「無様に生きながらえた」属性を帯びるだろう。そこで、そんなキャラに「漢としての真の死に場所」を与えるドラマが期待されることになるわけだ。

 ところが、先に確認したようにプリキュアシリーズは「戦士であることが人生のすべて」という方向性を採用していない。プリキュアが守る幸福のなかには、自分たちの幸福もきちんと織り込まれていてよいのであった。プリキュア道は、人類の平和と正義のために自己を犠牲にして滅私奉公したりするところまで要求はしないのである。プリキュア業とは別に、ちゃんと自分の人生設計をしていいのであり、その枠内でプリキュアすればそれで十分、十二分なのだ。そういった了解が前提にあるために、我々は、『ハートキャッチプリキュア!』において敗北を経て生き残ったキュアムーンライトに「無様に生きながらえた」属性を付与しない。そして、それゆえに、前述の展開は死亡フラグにはならないのである。それどころか、キュアムーンライトのかつての敗北が、自己を犠牲にする戦いにこだわりすぎたため、とさえ描かれるのだ。プリキュアシリーズにおける自己犠牲の位置づけは、基本的には、このように否定的なものである。

 以上のように、昭和ライダーとはまったく異なったヒーローの位置づけかたが存在するのであり、また、その位置づけかたの違いが物語展開上のフラグ管理の論理にまで影響を及ぼしたりするわけだ。ちなみに、純粋に自分自身のために戦うピカレスク系のヒーローや、自分自身のための復讐が図らずもみんなのための戦いになってしまうダーク系のヒーローなど、また別の論理をもつ魅力的なジャンルもあるのだが、これらについてはまた別の機会に扱うことにしたい。

 追記。このテキストはウェブログや掲示板の文章を加筆し再構成したものである。コメント等をくださった皆様、ありがとうございました。

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