文芸っぽさは誘惑の香り

 本稿は、「成長のドラマとヒーローの論理」という過去のテキストの一部分を加筆修正のうえで独立の論考としたものである。少し考えが変わったところがあるので、改訂してみた。そのため、なにをいまさらわかりきったことを、と言われそうな旬を外した内容も含んでいる。中身を端的にまとめてしまえば、『新世紀エヴァンゲリオン』をもてはやしていた連中の一部が私はいまいち好きではなかった、というだけの話である。ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』ということで、基本的には1996年のTVアニメ版についてのみ語っている。

 一般的にも人気があり自分でもまあ嫌いではないのだが、それを好きな連中に今一つ納得いかない点が多いので、結局のところ否定的な態度を取りがちになってしまう、ということが私にはしばしばある。たとえば、ビートルズ、ブルース・リー、宮沢賢治などにたいする態度がそうだ。これら三者に罪はないのだが、ビートルズ至上主義者、ブルース・リー至上主義者、宮沢賢治至上主義者の言動にどうも気に食わないところが多いのだ。なんかこう、信者っぽくて嫌なのである。そのため、それらそのものについても、奥歯にものが挟まったような言い方しかできなくなってしまうのである。

 そして、『エヴァ』にたいする私の態度もまた、こういった感じなのであるよね。

 『エヴァ』という作品そのものは別に嫌いではない。投げっぱなしの酷いオチには少々怒りを覚えたが、長々引きずるほどの衝撃でもなかった。ふざけやがって、馬鹿じゃないの、と思っただけである。では、どこが気に入らなかったのか。作品そのものではなく、作品の受容のされ方が気に入らなかったのである。

 なにが嫌だと言ったって、『エヴァ』はオタク文化の象徴であり精髄である、といった雰囲気ほど私の気に障ったものはなかった。私にとってこれは端的な間違いであった。そこそこ面白かったが結末でコケたアニメ、という評価が相応のものであり、『飛べ!イサミ』のほうが面白い、と、昔のちょっと尖っていた私などは言い続けていた。もちろん、つまらなかったわけではない。私も毎週楽しみに観ていた。しかし、だからといって特別でもない。『エヴァ』とは、名作になりそこねた失敗作、よくて良作あるいは佳作の一つであり、とりたてて固執すべき作品ではなかったのである。

 ところが、今さら言うまでもないことだが、世間の反応は、これとは正反対のものであった。『エヴァ』はこれまでになかった凄い作品であり、これこそがオタク文化の到達点である、といった言説が各種メディアを騒がせたのである。そして、大騒ぎになったことで、『エヴァ』をオタク文化の中心あるいは頂点に位置づける主張が、さらにもっともらしく見えるようになってしまった。

 さて、『エヴァ』なんぞそれほどたいしたものではなかっただろう、という認識については、現在でも私は変えていない。また、『エヴァ』にオタク文化を象徴させるような主張にたいする敵意も捨ててはいない。しかし、騒動そのものにたいする位置づけは少々変わった。いくらそれが与太話だとしても、その与太話がここまで流通したということには、なにか原因があるはずなのだ。それを考えなければならないのではないか、と思うようになったのだ。

 当時、『エヴァ』は素晴らしい、という主張する人たちのうちの少なからぬ割合が、『エヴァ』は文学的あるいは思想的に深いことを言っている、と主張していた。私はこれはまったく頓珍漢な理解である、と思っている。『エヴァ』にあるのは、せいぜい「『ブレンパワード』からの富野由悠季小論」で論じたような、メッセージ伝達の形態模写にすぎない。ハッタリだけで中身など空っぽなのだ。たんなる形態模写に、それぞれが各人各様の勝手な思い入れで、ありもしない深さを読みこんで騒ぐことほど、馬鹿馬鹿しいことはあるまい。

 ただし、馬鹿馬鹿しい、と切り捨てるだけでは済まないのは、このような誤読を多くの人が実際に行ってしまった、という事実があるからだ。私はここに、多くの人間がもつ、文学っぽい雰囲気への欲求ないしは憧れを見る。

 私自身のオタクとしての信条は、徹底した娯楽一元論にある。しかし、そこまで割り切っている読者や視聴者は、実はオタクにすら、それほどいないようだ。なにか物語があるとすると、そこにはなんらかの文学的・思想的・倫理的メッセージの伝達があったほうがいいし、あるべきだ、というように考える人のほうが多いのである。このあたりの事情については、「私はどうしてライトノベルが苦手だったのか」において、ライトノベルというジャンルにそくして論じておいた。そこでは、おもに中高生のオタクを念頭に置いて議論を進めたが、それ以外にも、このタイプの受け手は存在する。『エヴァ』で空騒ぎをしたようなニワカや一般人、なんちゃって批評家のような、オタク的能力が薄い人々もまた、その典型であろう。このような人たちは、メッセージ伝達の形態模写に「釣られ」やすい。形態模写を、実物そのものだと思い込んでしまいがちなのである。さらに問題なのは、一度このような誤読をしてしまうと、タガが外れてしまい、どこにでもメッセージを読み取ろうとしてしまう、ということだ。形態模写だけではなく、たんに失敗しただけの描写にすら、ありもしない深い意味を読み取ろうとしてしまうのである。人間は、自分が見たいものを見ようとしてしまう動物なのだ。

 『エヴァ』騒動は、どうやら、作品自体が釣り針として図らずもよくできてしまったことと、外来魚たちが飢えていたこと、この二つが上手く噛みあって成立した現象なのであろう。そして、私がこの騒動になにひとつ共感できなかったのは、私が文学っぽい雰囲気になにひとつ飢えていなかったからなのだろう。

 ところで、ひところ一部で流行して、最近はさっぱり見ることがなくなった「セカイ系」という概念も、同様の論理に基づいて位置づけることができるだろう。受け手の側が、文学っぽい雰囲気への欲求から、ありもしないメッセージを読み取ろうとするときの、「僕の私の考えた文学っぽさ」をぼんやりと指示していたのが、この概念だったのではないか。こう考えると、さまざまな論者が「セカイ系」という概念の定義を試みて失敗してきたことにも説明がつく。この概念は実はまったく空虚であり、使う人が、それぞれにイメージする「文学っぽさ」を勝手に読みこんでいただけだったのである。

 最後に私にとって課題として残るのは、多くの人間がもっているであろう文学っぽい雰囲気への欲求ないしは憧れを、オタクとして薄い態度として、すっぱりと切り捨てていいものか、ということである。これについては、いまだに結論が出ていない。

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