『ブレンパワード』からの富野由悠季小論

はじめに

 富野由悠季について、私の立ち位置を述べたい。やはり一度はこの人について語っておかないといけないだろう。
 あまり話を大きくするのもなんなので、『機動戦士Vガンダム』『ブレンパワード』『ターンAガンダム』の三作品を並べたときに見えてくるものを論じてみる。核になるのは『ブレンパワード』である。
 ただ、周知のように、富野信者には濃い人が多い。私の富野作品にたいする愛情や読み込みの深さは、信者を名乗るには到底足りないものである。不用意なことを書いて叱られるのが少しばかり怖い。
 ということで、深入りせずに、私見の骨組みを提示するだけにしたい。

本稿の方向性

 富野由悠季については、とにかくいろいろな角度からいろいろなことが語られている。富野解釈者たちが語るだけでなく、富野本人が自作について語りまくる。
 どうしてこれほどまでに語られるのか。一つの可能な答えは、富野作品がたんなる娯楽を超えてなんらかのメッセージ性をもっているからだ、というものだ。『機動戦士ガンダム』のサブカル史における重要な位置ゆえか、そして、富野由悠季のおしゃべり好きというパーソナリティゆえか、こういう主張をする解釈者は少なくない。「ガンダムはリアルだ」という、いささか薄っぺらい主張が未だに流通していることにも、このことは見てとれる。
 しかし、その一方で、やはり富野作品の肝は、けれん味たっぷりの痛快スーパーロボット活劇として出来がよい点に存する、という主張も散見される。その立場からすれば、富野作品をメッセージから語ることは、あまり有意義な営みとは見做されないことになる。
 本稿は、後者の主張を擁護するものである。
 そして、これを主張するにあたって、もっともわかりやすい手がかりとなる富野作品が、『ブレンパワード』なのである。というより、『ブレンパワード』を観返していて、私は本稿のような解釈に辿りついた。

『ブレンパワード』にメッセージはあったか

 『ブレンパワード』を想起してみよう。
 一見、『ブレンパワード』には意味深なメッセージが満たされているように思える。オーガニックなるものに満ち満ちているように感じられる。
 しかし、だ。では、メッセージの内容は何だったのか、と考えてみると、驚くべきことに、あれだけ何かを語っているように見えつつ、何もわからないのである。実はメッセージはまったく伝達されていないのだ。

一部の解釈の傾向

 ここで、一部の富野解釈者たちは、深読みをすることで、底に潜んでいるはずのメッセージを掬い取ろうとする。テーマは親子なんだよ、いや、エコロなんだよ、といったように。富野自身も、「表現しきれなかった、失敗作です」とかなんとかお決まりの台詞を言いつつ、表現し切れなかったがなにかメッセージがあったのだ、ということを匂わせる。
 しかし、私の考えでは、これらの解釈および自己解釈は、間違ったものである。私の解釈はこうだ。

メッセージ伝達の形態模写

 そもそも『ブレンパワード』には、伝えるべきメッセージなどは存在しないのではないか。初めからメッセージなどなかったのだ。存在しない思想が伝達されるわけがない。
 『ブレンパワード』に満ちているのは、メッセージではない。いかにもメッセージを語っているかのような、それっぽい表現だけなのである。
 よく芸人が中国語っぽいデタラメ語とかフランス語っぽいデタラメ語とかを喋ってみせる、あれと同じことだ。メッセージの伝達の形態模写があるだけで、メッセージの伝達など端から存在しなかったのである。

テーマにおけるメッセージ性の役割

 誤解を招きやすいと思われるので、強調しておこう。
 以上のことが悪い、と私は非難したいのではない。メッセージ伝達ではなく、メッセージ伝達の形態模写に長けていることこそが、富野由悠季の優れた能力の一つである、と主張したいのだ。
 そもそも、作品におけるテーマやらメッセージやらは、物語に統一を与える、という機能を果たすものである。
 テーマのない物語は散漫になる。たとえ娯楽であっても、読ませる物語を創作するためには、なんらかのテーマが必要である。
 そして、テーマのメッセージ性が強ければ強いほど、物語は重厚さを獲得する。重厚さがあると、ヴァイオレンスやエロスなどの面白要素を少しばかり過剰に盛り込んでも、必然性があるように見え、ごまかしが効いて下品にならずに済む。娯楽作品として面白くしやすいのだ。
 しかし、だ。テーマが前面に出すぎると、つまり、なんらかのメッセージを伝達しよう、という意図が強すぎると、これまた物語は面白くなくなってしまいがちなのだ。説教臭さが鼻についてしまい、娯楽として能天気に楽しめなくなってしまうのだ。
 あちらを立てればこちらが立たず。テーマのメッセージ性が弱ければ軽薄になってしまうが、同時に、メッセージ性が強ければ堅苦しくなってしまう。
 多くの創作者たちは、このバランス取りに苦心する。そして、しばしば失敗する。一方、『ブレンパワード』は、ある特殊な戦略を用いて、この難問をクリアしようとしているのである。

技法としての形態模写

 そう、『ブレンパワード』は、ここで、メッセージ伝達の形態模写を行うのである。あたかもメッセージ性の強いテーマがあるかのように装うことで、物語に重厚な統一感を与えるのだ。
 注目すべきは、これが実際のメッセージ伝達ではない、ということである。
 実際にメッセージを述べたててしまうと、説教臭くなって面白みが薄れてしまう。あくまで形態模写に徹することにより、説教臭くならずに重厚な統一感を獲得することが可能となる。
 これにより、『ブレンパワード』は、徹底的に娯楽でありつつ、重厚で噛みごたえのある物語を提供しようとしているのだ。
 繰り返そう。メッセージ伝達の形態模写こそが、『ブレンパワード』の秘密の戦略なのである。
 ちなみに、先に指摘した難問の別の解決案としては、「ベタの正義論」で示した「正義をベタに表現する」という戦略などが考えられるだろう。富野作品はあまりこちらの戦略は採用しない。

『ブレンパワード』の失敗

 ただし、秘密の戦略も成功しなければどうしようもない。
 『ブレンパワード』のメッセージ伝達の形態模写は、それほど上手くいっていない。冒頭で指摘したように、意味深さが支離滅裂で、形態模写が形態模写であることがかなり見て取りやすくなってしまっているのだ。
 メッセージ伝達の形態模写は、模写であることを気づかれてはならない。その意味で、『ブレンパワード』は失敗作と言えるかもしれない。
 しかし、強調しておきたいのは、メッセージの伝達に失敗したわけではない、ということだ。最初からそんなことは試みられてはいない。
 そのためか、痛快スーパーロボット活劇、美女美少女全裸スッ飛びアニメとしての『ブレンパワード』は、この失敗からそれほどのダメージは受けていない。いささか錯乱した印象を与えるが、十二分に面白いのである。説教アニメが説教に失敗したら、こうはいかなかっただろう。

『機動戦士Vガンダム』の失敗

 私は、ほとんどすべての富野作品にはメッセージなどなく、メッセージ伝達の形態模写だけがあるのではないか、と考えている。富野台詞、富野節がその象徴だ。意味深ではあるが、内容はないのだ。
 問題は、メッセージ伝達の形態模写という戦略を、富野由悠季がどれだけ自覚してやっているのか、ということだ。
 興味深いことに、表向きの発言のかぎりでは、富野本人の自己解釈はこうではない。私には、少なくとも『機動戦士Vガンダム』までは、それと知らずに形態模写戦略を採用していたように思われる。天才なので、自分がなにをやっているかわかっていなかったのだ。
 『機動戦士Vガンダム』までの多くの富野作品が破綻に破綻を繰り返した理由の一つは、この自己誤認にあると思われる。
 かつての富野由悠季は、しばしば、形態模写をやっているうちに、本当に深いメッセージを伝達しているかのように思い込んでしまっていたのではないか。その結果、当然のように行き詰まり、皆殺しへと走っていたのだ。
 ちなみに、この「皆殺し」も、メッセージ伝達の形態模写の延長線上にある一技法、と解釈しうる。皆殺しにして結末を放り投げてしまうことにより、深い問題提起があたかもなされたかのように雰囲気づけているのだ。
 ところで、『機動戦士Vガンダム』もまた、あれだけアホな投げ方をしているにもかかわらず十二分に面白いことは、注目に値する。もう一度確認するならば、テーマの処理の破綻が面白さを損ねないのは、メッセージの伝達が作品の本質をなしていないからである。

『ターンAガンダム』の位置づけ

 そして、『ターンAガンダム』である。
 私は、『ブレンパワード』で富野由悠季は「形態模写でいいんだ」ということをおぼろげにでも自覚したのではないか、と考えている。
 『ターンAガンダム』は、ごくごく単純なお話を雰囲気たっぷりに描いて、商業的にではなく作品的にではあるが、大成功を収めた。ありもしないメッセージを詰め込もうとして破綻することはなかったのである。
 『オーバーマン・キングゲイナー』はいささか形態模写の意味深さが足りなかったかもしれない。

おわりに

 富野由悠季に思想などない。
 富野は徹底的に感性の人だ。インタビュー記事などを読むと、つくづくそう思う。わけわからん。つまらないテーマ設定などに縛られず、己の感性だけで創作しているからこそ、富野作品は面白いのだ。
 形態模写に騙されて、富野作品からありがたいメッセージを読み取ろうとするのは、実はそれほど生産性のない試みなのではないか。
 こうなると、ではどう語ればいいのか、という問いが当然出てくるのであるが、これはもう具体的な作品に応じて各々が見出していくべきことであり、一般論をここで語ることに意味はないだろう。
 ちなみに私は渡辺久美子が好きなのよ。それもヒステリックに富野台詞を叫ぶ渡辺久美子が。私が『機動戦士Vガンダム』『ブレンパワード』『ターンAガンダム』あたりが大好きなのは、いい渡辺声を聴ける、ということもあったりするのだ。

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