LOOPHOLE / Sketchshow へービーローテーション中。前作tronikaから、ちょっとフォーク寄りに回帰。とりあえずの感想としては地味。キャッチーな曲が無いのでうかつにお勧めできない。ヘッドフォンで聴くのとスピーカーで聴くのとでは全然印象が違うので驚く。あいかわらずエレクトロニカのプチノイズが気持ちいい。とりあえずCDを回し続ける。
一文で一段落を構成する、いわゆる改行の多い文章という手法は、文同志が断絶してしまうので、文と文の繋がり方で形成されるメロディー(というかうねり)の効果を捨ててしまっている。つまりグルーヴだけで曲を作るようなもので、これは非常に高度なセンスとテクニックが要求される。わたしはそんなことは、とても恐くて出来ません。
「原因と結果」
毎年の健康診断において、毎回毎回体重を減らせ減らせと言われ続けているのです。肥満するとさまざまな悪いことが起こると言われています。
健康面においては、肥満により高血圧、高脂血症、糖尿病、脂肪肝といった生活習慣病にかかり、更には高血圧から動脈硬化、これにより引き起こされる、脳出血や脳梗塞、大動脈瘤、腎硬化症、心筋梗塞、眼底出血、心臓肥大、心不全。高脂血症により動脈硬化、心筋梗塞。糖尿病により、網膜症(視力障害・失明)、腎症(むくみ・尿毒症、腎不全)、神経障害(手足のシビレ・便秘・下痢・インポテンス)となってしまうこともある。
さらには肥満していることにより、自らの欲望に歯止めが聞かない人格破綻者であると世間からみなされ、出世の道が閉ざされたり、消防署員になったり客商売をやったりすることが認められなくなると言われています。さらに、外見が醜いのは内面の反映だとみなされ、内面が醜いブタだとして公衆の面前に出てくるのは公共の福祉に反するということで隔離政策がとられ、肥満遺伝子が子孫に伝達されないよう断種することが義務付けられるのも時間の問題と言えます。しかし、以上の話はかなり感情的な部分が含まれているように思われます。
そこで、ここでは肥満が「原因」で引き起こされる「結果」について冷静に検討してみましょう。
肥満する→生活習慣病にかかる可能性が高まる。→実際に生活習慣病にかかる。→医療費がかかる。→治療の甲斐なく。→死亡
肥満を解消すると上に示した状況が、以下の様に改善されると考えられる。
標準体重となる。→健康となる。→人には寿命というものがある。→いつかは→死亡。
おかしい。原因が変更となったのに、結果が変わらないではないか。
以上の考察から「標準体重であるかそうでないかは、人が生きることの結果に関しては影響しない」という結論が得られた。
と、有益な結論がでたところで夜食を食べるとするか。
完全に時期を逸した感はありますが、皆既日食にうろたえる南極のペンギン
「三年というお題」
本々「お題」というシステム自体が物語を誘発し易いというのは、過去の雑文祭が証明しているところであるのですが、第六回雑文祭の縛りの一つは、「三年」という時間を含むものでありまして、特に物語を誘発し易いものでありますので、これは仕方ないような気がします。しかし、悪魔に願い事をしなくても、無い物はあるような気がするんですが。と考え始めてみたのですが、考えているうちに「物語」とは何ぞやというのが頭の中をぐるぐると回り始めて、混乱してしまいました。口から飛び出すメパダニ! 半茶は混乱している! と、はぐれメタルが逃げ出す間も考えていたのですが、すると今度は必然的に「雑文とはなんぞや」ということを考える必要が出てくるような気がしてなりません。実を言うとこのサイトを開始した当初から「私が書くものは雑文と言えるのだろうか?」という疑問が頭から離れないのです。内心そうだと思い込んでいたのですが、やっぱり雑文ではないのかもしれません。これはこのサイトのアイデンティティに関わる非常に不吉な疑問のような気がします。その可能性は大。会釈して、この話題は打ち切り。ぺこり。
「余ったので困った」
「その屋敷は高い塀に囲まれて、外からは屋敷の様子が見えないようになっていたそうじゃ。噂によるとその屋敷の主人はナイフや包丁を偏執的に嫌っていて、屋敷の中で料理や日曜大工や工作をすることを禁じていたそうな。そのため、食べものは調理済みのものを運び込ませるか、どうしても料理する必要がある場合は、肉屋や八百屋に切らせたものを買っていたようじゃった。高い塀に阻まれて、中にどんな人が何人住んでいるのか、はっきりと知っている人は誰もおらんかった。そして不思議なことに塀の外側の地面には無数のナイフがびっしりと埋め込まれておったそうじゃ。」
「屋敷の主人は、なぜそれほど偏執的と言えるまでにナイフを嫌ったのかのうで。なにかナイフにまつわる出来事でもあったののじゃろうか。そう村の皆々は噂したものじゃった。」
老人達は話が一段落したあとの沈黙に耳を傾ける。お堂の外で風が草を揺らす音が聞こえる。老人がおもむろに口を開く。
「これはまさに遠近的倒錯である。」
「遠近的倒錯とは。」「とは。」
「古い哲人曰く、ひとはしばしば原因と結果を取り違える。おぬしのその話は、まさしくその轍を踏むものなのじゃ。」
「なんと。」「なんと。」
「その屋敷の主は、ナイフを嫌悪するあまり、偏執的な行動をとったのではない。逆じゃ。逆なのじゃ、偏執的だから、病的に偏執的だからこそ、ナイフを屋敷の外に追い出したのじゃ。」
「その真意はいかに。」「いかに。」
「まだわからぬか。」
老人はロウソクに口を近づけながら呟いた。
「敷地外に刃物。」
老人がふっと火を吹き消すと、またもお堂は暗闇に覆われ、ただ虫の声だけが聞こえてくる。
イタロ・カルヴィーノの「柔らかい月」と「見えない都市」が僕の鞄の中にずっと入っていて、もう何回も読みかえしているんだけれども一気に読んでしまうのがもったいないので、空き時間に少しずつ読んでは閉じて読んでは閉じている。この二冊には私が思うところの、小説にとって好ましい要素が全部入っているので一気に読了して通りすぎてしまうのが惜しいのだ。ところで、レ・コスミコミケまだ復刊しないのかなあ。
「三年越し」
CGIコメントに対する微妙に抽象的なお返事
>微妙にネタばれとなり、迷惑をお掛けするような気がするので、どうしてそういうことを思いついたかは伏せさせていただくが、そういえば三年前に私はどんなことを書いていたのだろうと、ふと思い、ハードディスク内を探してみた。
2000-November-13(MON)
「猫を踏む」
黒鍵だけで演奏できることから好んで小学生が速弾きすることで知られる猫踏んじゃったであるが、演奏される度に踏まれた猫の総数は延べ何匹となるか。と聞かれて困ってしまった。答えられないなら貴方が実際に踏んだ猫のことについてお話しなさい。わかりました。小学生の時に猫を飼いたいと親にねだったら、珍しく子供の要求を呑んでくれて雑種の猫を貰ってきてくれた。雄であったか雌であったか、名前はつけたはずだがそれすらも忘れてしまった。ただ、黒い縞の猫だったことは憶えている。
私は高いところに置いてあるものを取ろうとして椅子を運んできた。椅子を降ろすとぎゃあああと悲鳴が聞こえ、猫が火がついたような勢いで跳んで逃げていった。どうやら椅子の足で猫を踏んでしまったらしい。一部始終を見ていた父にひどく怒られ、猫に謝らせられたことを憶えている。なにを取ろうとしたのかはっきりとは憶えていないのだが、多分、お茶を入れる準備をしていたのだろう。昔から言うではないか、急須猫を踏む。そうですか、結局駄洒落ですか。それは仕方ない、言っても詮無いことである。
当時は別のサイトで、今と同じようなことをしていたようだ。全く以って進歩がないことよ。二十年以上前の思い出を書いた話なのだが、しかしまあ、あの形容しがたい悲鳴を聞いたときには、あんな音(もはや声とは言えない)が猫の口から飛び出すとは思えなくて、ほんと何がなんだかわからなかったよ。あの悲鳴はすごかったなあ。よく呪われずにすんだものだ。いや、既に呪われていて気がつかないだけかもしれないが。ほんでもって次の日の日記は
2000-November-14(TUE) 「ペペロンチーノの作り方」
でした。ちょうど三年前に書いたこの雑文。何の因果かgoogle検索で一位になったおかげで、未だにこれで当サイトにたどりつく方がいらっしゃいます。ご愁傷様です。野良犬に噛まれたと思って、お忘れなさい。そしてお行きなさい。パスタの茹で方についてなのですが、これまでラーメンとか、うどんとかと同じように強火で煮ていました。麺類は強火で煮るべし。内心そうだと思い込んでいたのです。ところが、つい最近知ったのですが、パスタを強火で強烈に茹でると、パスタの表面がお湯に溶け出してきておいしくなくなるそうです。パスタが鍋の中でゆるやかに踊るくらいが好ましいらしいです。この雑文には「お湯はぐらぐらと沸かすこと。」と書いてあるので、この通りにペペロンチーノを作るとおいしくならない可能性があるではないですか。ホラは書いてもいいが、ウソを書くのはまずい。困った。三年越しに改訂しようかどうしようか。思案中。どうでもいい事ですが未だにペペロンチーノ食べたことがありません。同じくこちらもどんな匂いかよくわかりません。こんなんでいいのか。書き手として無責任だ、といわれそうな気がする。でも、私の雑文の多くは最後死ぬ話だったりするので、体験したことを書け、と言われても困るのです。というわけで、これはこれで仕方がないような気もします。もし、実体験を書くべしとの意見が多い場合は、希望者を集めて「半茶の雑文を実体験オフ大会」でもやりますか。私は非常に残念ですが、その日は急な用事が入る予定になっておりますので直前にキャンセルさせていただくことになっております。あしからず。
-----------------------------
…第六回雑文祭には、もうちょっとちゃんとしたのが書けてから参加します。
本家の第六回雑文祭の方も書きたいのだけれどもなかなか書けずに困っています。
「残念、魔の上着」へ移動
「第大回雑文祭始末」へ移動
>一巻上を発見したので、やっと書けました。まだ読んでおりませんが。買うだけ買って読んでいない本が溢れかえっているので読むのはいつになることやら。
>実を言うと続きはないのです。困った。指輪を捨てに果てしない旅に出ようか。結婚前のエピソードならいくつかあるのですが、恥ずかしくて書けません。サファリOKですか。どうもありがとうございます。
「指輪の物語」に移動しました。
-----------------------------
白バックにも飽きてみたので変えようとしたらCSSがぐちゃぐちゃになってしまいました。あまりのスキルのなさに我ながら呆れているのですが、なんとか読めるようになっているような気がしますのでこれで勘弁ください。ハードディスクの容量がいっぱいいっぱいなのでブラウザを複数インストールできない関係で、IEのみ表示確認しております。そんなややこしいこともやっていないはずですので全く読めないこともないと思いますが、もし何かあればご指摘ください。
アンダーワールド ボーンスリッピー2003 アンダーワールドのコンセプトの根幹にあるものは、自分が聴きたいものを100%そのまま提示することのように思われてなりません。だから皆からあんなに愛されるのだろうと思います。テクニックが足りないことはないので100%を下回らない。けれども120%のものを作る気はないのではないかと感じています。テクノでこれに対比されるべきなのがクラフトワークではないか。電子音とサンプリングで情景を描写する。なぜそれ良いのかクラフトワーク自身もわかっていない。けれどもやらずにいられない。そして完成型を誰も知らないので、完成までに異常な時間がかかる。成功すれば誰も想像できなかったすばらしいものが出来る。失敗すれば悲惨。そして彼らと三角形の頂点をなすのがカール・バルトス コミュニケーション ほら君たちはこんなものを聴きたいのだろう。と、提示したのがエレポップ。想定されているリスナーの幅が非常に狭い。そして、エレポップの元となったテクノポップの元祖が作る。二重三重にねじれていて、もうどう構えて聴けば良いのか、リスナーは路頭に迷うばかり。
>前髪を下ろしたオオサンショウウオの絵が頭から離れなくて困っています。
>どうも、某です。11歳(当時)というとうちの娘よりも年下ではないですか。どうも父親フィルタースイッチがオンになるらしく、きれいだなあ以上の感想は持てませんでした。。
TV番組でIQテストをやっていたので参加してみる。私は空間把握能力と記憶力には全く自信がないのだが(すぐ道に迷うし、地図を読めないし、人の顔と名前を全く覚えられない、)IQテストでは空間能力と記憶力の部では、人並みの点が取れた。IQが信用できない証拠と言える。好きな野球チームとIQに相関があるか調べていたが、「プロ野球は嫌い」の選択肢が無かった。こういうぬけた設問を作る人たちにテストされても結果には信頼性がおけないではないか。
ツチヤ学部長の弁明 土屋賢二 講談社 学部長に選出されたそうでおめでとうございます。さて、彼のエッセイは既にマンネリの域に達しており、ここが胸突き八丁で苦しいところですが、ここをグッと堪えて同じことを繰り返しておりますとそのうち伝統芸能と同じ扱いをされるようになります。さらに耐え続けますと、そのうち全く同じ内容を繰り返して書いても拍手で迎えられるようになります。さらに続けますと「書いた」という事実だけで歓声があがる様になります。そこに至るまでの道程は長いですが頑張ってください。
悪党諸君 永六輔 幻冬社文庫 ニュースステーションの久米宏が降板する話が出た時に、永六輔が久米宏について「彼の物まねをする人はいない。」と朝日新聞に書いておりましたが、ダチョウ倶楽部の立場がないではないか。永六輔はあまりTV見ないんだね。本書は刑務所での講演記録。さすがに話はうまい。笑わかせてほろっとさせて。ところで、もう年なのか永六輔の名前を思い出せずに、えーとあの男のおばさんでと考えていると おすぎです! TVとかCMとかにも出てて おすぎです! 喋る前に自分の名前をいう人 おすぎです! 誰だったっけ? おすぎです! おすぎの声と顔び邪魔されて思い出せずに半日苦しみました。
>キル・ビル見に行きたい動機の一つは栗山千明なのです。六番目の小夜子の頃から気になっていたのです。思春期に特有の集団ヒステリーを描いたNHKドラマ。続いての「死国」のテーマは「人生は結局さば折り」。それからバトルロワイヤル。それからキル・ビル。なんかわざとそういうお話を選んでいないか。ほんでもって、ネットで画像を探してみたのですが、前髪をあげた顔はどうもいまひとつグッとこないのですが、ということは私は前髪に惹かれているのでしょうか。
「しあわせの理由」グレッグ・イーガン 構造主義の一つの結論として、我々の物と信じられている感情や思考や痛みは、社会のシステムにより規定されているということらしいのですが、西洋文明の根底にある「主体」との折り合いはついているんでしょうか。ぼく りけいだから よくわかんないや。そこらへんを平易に解説してくれる入門書はありませんか。というところで、イーガンが執拗に追求しているアイデンティティの問題は、構造主義的にはどうなんでしょう。テッド・チャンとなにかと比較されがちなイーガンですが、切実な分(イコール破綻している分)だけ、イーガンのほうが私の好みです。ちなみに神林長平のほうがイーガンよりも切実だと思います。今思いついたのだが、ひょっとして切実というのは感傷の一形態なのかな。と、判断を保留したまま日々はみなものうたかたのやうに過ぎてゆくのです。
「順列都市」グレッグ・イーガン どうも私の頭が硬いのか、メインアイディアが理解できなかったのですが、それは置いといて、論理が暴走し始めて思いもかけない遠いところに連れて行かれるSF特有の驚きが楽しめました。
>
>今日はグレッグ・イーガンの「宇宙消失」を読んでみました。量子力学における「観測されるまで状態は決まっていない」現象を力技でマクロな世界に拡大して、なんでもありの状況にしてなおかつお話が発散しないようにまとめ上げる力技。ということで、私の直前に指輪物語の一巻上下を購入したのは、それを買う可能性があった私自身で、そしてそこにはもう無くなった二冊の本の空隙は、私が指輪物語一そろいを発見したと同時に収束し、消えてしまった私の可能性の痕跡なのかもしれません。
>ということで、指輪物語を探す旅に出たのです。辿りついた古書店には指輪物語一そろいが見つかったのですが、残念なことに今まさに抜き出したが如くの様に一巻上下が抜き取られておりました。本棚にぽっかりと空いた二冊分の隙間を眺めつつ、遅かったか……とつぶやくのでありました。
KILL BILL見たいと思いつつ、きっと面倒くさくて見にいかないんだろうなあ。マトリックス・リローデッドも座頭市も見逃したしなあ。予告を見るとほんとわくわくするなあ。作りたいものを作ってあの絵、あの動き。すげえ。評判を聞くと賛否両論なのだが、殊能将之(私と同じ学年)は「見ているうちに感動のあまり涙が出てきた」そうだ。まじかよ。ひょっとしてと思って調べてみたらクエンティン・タランティーノと私は同い年。非常に狭い範囲の年代の人に感動を与える映画なのかもしれない。多分私はタイミングを失って見に行かないだろうけど。
と、しばらく考えていたのだけれど、KILL BILLが賛否両論ということからするとひょっとすると、「現実」そのままには「真実」は無いという考え方って、一般的ではないのかな。って、見てもいない映画について語ってはいけないか。
ネジ式ザゼツキー 島田荘司 何故犯人は被害者の首を切断して、ネジでつなぐようにしなければならなかったか? というところは見事なのですが。妖精が猿のような顔をしている理由とか東西には直線の道が無い理由あたりは、お話を作るためのわざとらしい不要な要素のように感じられました。いったんそう感じられてしまうと、話者が探偵の頭の切れを異常に賞賛したり、探偵は謎を解いているのに皆に披露するのを後回しにしたりする、推理小説につきものの仕組みすらわざとらしく感じられてきて閉口してしまいました。
ファンタジーは私にとって「現実に対する明白なNon」ということになります。「明白なNon」の表明は、同時に「明白なYes」がどこかに(もしかしてここに)存在することを示すことでもあります。ですからファンタジーについて書くということは、「現実」について書くことになりますので、一言で言うか、一冊の本を書くか両極端のどちらかを選ぶ必要があります。と、なんでこういうことを書いているかというと、「指輪物語」というタイトルの雑文のネタを思いついたのだが、本家の「指輪物語」を読んでいないことに気がついて、これから読まなければならないかと思うと気が重いからです。
>フォームデコードのCGIは以前設置したことがあるのですが、どうも受け取る心構えができていないなということがわかったので撤去しました。ずっとソースには置いたままコメントアウトしていたはずなのですが、何故こちらにコメントが届いたのでしょう。不思議不思議。最近はMacも安くなりましたからひとつどうですか。
ということでコメント送信のCGIを再開してみる。返事は期待しないでいただけるとありがたい。
そう言われれば(Soft You Now 2003/10/17)最近の音楽は、画面上で「目で確認して編集」しているわけで面白い現象といえば面白い。私が文章を書くときに重視しているのは、抑揚とリズム。音楽編集とは逆に、文章を「耳で確認して編集する」ソフトがあれば是非欲しい。使ってみたいと思う。内容なんてそんなものは表面的で一時的なものさ。
iTune for Windowsが出たとのことですが、iPodあってのiTuneだしなあ。Windows98MEには対応していないようだし、USB1.1では使えないみたいだし、音関係は当分の間WinAmpでいいです。
この前ゲルニカのCDを買ってから、昔の戸川純のソロアルバムを探しているのだが見つからない。やっとスーパーベストオブ戸川純(2枚組み)を発見したので買ってみる。三十六曲全部いいわ。となりのいんどじん〜。
寝ながら学べる構造主義 内田樹 文春新書 最近、内田樹が気になってきたので遅ればせながら読んでみました。人間の定義とか太郎冠者の抑圧とか構造的な無知とか面白いキーワードがいっぱい載っていました。
私信:ゴス・ロリはセカイ系というか郵便的の典型というのが当座の私の結論。少なくとも彼女ら(彼ら?)の世界からは冴えない中年男性は排除されていると思いますので、排除された男からの意見は特にありません。彼女ら(彼ら?)は自分で好きだと思っている(と思っている)ことを好きなようにやっている(やらされている)のですから、好きにさせましょう。我々だって自分で好きだと思っている(と思っている)ことを好きなようにやっている(やらされている)のですから同じことです。彼女ら(彼ら?)は、ある日突然転んで白いTシャツにジーパン派になるかもしれません。我々は死ぬまで変わるとは思われません。そう考えると彼女ら(彼ら?)の方がまだましなのかも知れません。
テッド・チャンに感じた切実さの欠如については、私にはミニマリズムに感じられる感触とは違ったもののように感じています。というのは、ミニマリズムには、あえて乾いた感触を提示する手法をとるしかないんだ、という切実さが裏側にあるように感じられるのです。テッド・チャンに見られる切実さの欠如は、もう少し別の物のように思われてなりません。それが何か良くわからないのですが、今のところ中国の古い怪奇集を読んだ感じに通じているかもしれないと考えています。中国系アメリカ移民ということでの思い過ごしなのかもしれません。妖怪が出てきて、退治されて、それで数年後火事がでてみんな死んだ。「世界は そのように ある」感。高度に脳化された、とかのキーワードとかも浮かんできますが、やっぱりうまくまとまりません。もう二、三年考えるとまとまるかもしれません。
イアン・ワトソンはヨナ・キットとマーシャン・インカを読んでいるはずなのですが情けないことに全く記憶に残っていません。20年以上前の事だからなあ。創元と早川のやつを今度読んでみます。
第六回雑文祭だそうで。リンクを辿ってみて思い出したけど、三年前の第五回の時は、旧サイトの旧名で参加してたなあ。
ようわからんけど、書きたい時に、書きたい事を、書きたいように書くということでいいのと違いますか。もちろん書きたくない時に書きたくないように書かないということでもいいのと違いますか。
人に言えない習慣、罪深い愉しみ 高橋源一郎 朝日文庫 週刊誌や新聞に載せた書評をまとめた文庫オリジナル。書評をまともにやろうとするとどうしても長くなるところを、スペースの関係で無理矢理短くして、それでも書評として成立させようとしているので、苦肉の策としての曲芸的な技を冴えを堪能できる。というのは間違った読み方なのでしょうか。
Auduio sponge 1 エレクトロニカ関係のオムニバスアルバム。sketch showと細野晴臣がよかった。(身も蓋もないなあ。)Human Audio Spongeの曲はこの前聴いたばかりのクセナキスかと思いました。eaterとAoki takamasaの曲がよかったのでCD屋で探してみたのですがみつからない。
そういえば10月10日は結婚記念日でした。結婚当初は祝日だったはずなのですがいつのまにか平日になってしまいました。国を挙げて祝うことを止められた結婚というのもなんだかなあ。ところで、我が家には結婚した人が二人いるので、結婚記念日も二つあってしかるべきかと思うのですが、なぜか一つしかありません。無作為に選んだ記念日が偶然に一致する確率は約365.25分の1ですから約0.27パーセントですか。1000家族に3組。滅多に起こらないと言っても過言ではない。このことから判断してもこの二人は気が合う二人であると言えよう。
特に書くことも思いつかないのでCSSで段組みしてみました。
「World citizen」坂本龍一+デビッド・シルビアン この二人の曲作りはあいかわらずなんだけど、バックで好き勝手に遊んでいるSketchShow(細野晴臣と高橋幸宏)がいいわ。
「For beautiful human life」キリンジ キリンジは歌詞と曲が両者ともそれぞれ一級品なのに、両者が一体となっていないように聞こえるのは私だけなのでしょうか。曲を味わおうと思えば、歌詞を音として聴くようになるし、歌詞を味わおうと思うと曲がBGMになってしまう。私の耳の性能が悪いのか。彼らの歌詞のユーモアが好きだったのですが、最近は次第に辛辣さを増してきていて、このアルバムの1曲目「奴のシャツ」の歌詞は凄すぎる。おかげで2曲目以降になかなか進めない。
私のSF暦はギブスンで止まっていて、これは「サイバーパンク」という言葉が嫌いだったということが大きい。サイバーはまだ許せるが、パンクってなんだ。70年代の言葉を持ってこなければもたないようなものなのか。一応サイバーパンク周辺は一通り読んだけど、文学的事件ではあっても、SF的には価値があるの?これ?という感想しか持てず。そんなこんなでしばらく積極的に読むこともせずにいたわけで、最近のSFがどうなっているのかさっぱりな私です。
「あなたの人生の物語」テッド・チャン 極上のSFを前にして、何かがわずかに、しかし決定的に足りないと感じる。何故なのかよくわからない。現実への(もしくは虚構への)コミットメントのスタイルにヒントがあるような気がする。ということで、何故なのかを考えるためにグレッグ・イーガン「祈りの海」とハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」を平行して読んでみています。今のところ、イーガンはいい感じ。エリスンはさすがに時代を感じさせるなあ。今のところ全然考えがまとまりません。キーワードは「切実さ」かなあ。