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198. カレー・カレー 20160707

第一話:6 おそるべしカレー(カレーおそるべし)
第二話:23 リハビリイもしくはカツカレーをめぐる冒険

久しぶりに訪れた社員食堂の窓の外には高層ビルが立ち並び、ずいぶんと見晴しが悪くなっていた。
「昔はもっと空が見えていたのになあ」
「智恵子抄かよ」
「東京には空がない……と塩コショウは言った」
社員食堂の業者はいつの間にか変更されてしまったようで、カレーコロッケカレーもカツカレーも提供されなくなっている。単なるカレーか、ソーセージを載せたジャーマンカレー。ここではジャーマンカレーと呼んでいるが、ドイツでカレーライスが一般に供されているのかは不明である。
この食堂のカレーライスは毎日味が異なることが知られている。理由はわからない。味が薄くなったりいきなりコクが出たり日によってはハヤシライス風味だったりする。
「ここの定食は、まずくはないのがありがたいな」
「安いしな」
私はなんだか妙に薄っぺらくて固そうな色合いが食品サンプルっぽいポークソテー定食、同僚は白身魚だが魚の形状と大きさが想像つかない名前の深海魚煮つけ定食を選ぶ。
隣のテーブルには顔を知らない社員がカレーを運んできて座るのが見えた。
「見栄えはよくないけどうまいよな。なんかバイオの力を借りてたりして」
「そんな手間かけたらこの値段では食べられないよ」
カレーの男はカレーにウスターソースをかける。カレーに醤油をかける人は聞いたことがあるが、ウスターソースをかける人もいるのか。
「ポークは豚だってわかるけど、そっちの深海魚の正体はわからんなあ。魚偏に変と書いてRuvettus pretiosusだったっけ」
「それはバラムツで五切れ以上食べてはいけないやつ。これは銀タラ(Anoplopoma fimbria)だよ……きっと」
隣のテーブルの男はウスターソースをかけ続けている。
「銀タラは真鱈の代用品として使われていたのだ。肝も食べられるんだよ『考えてみれば単純なことさ、ワトソン君』」 「なんじゃそれ」
「真鱈の肝」
「いいから食えよ」
「ちゃんと食べないと罰があたると家庭でしつけられたか?」
「いや、そんな家ではない。バチかぶる家の居ぬ」
隣のテーブルの男はカレーの皿の上でウスターソースの瓶が何周も円を描きながら黒い液体をたらし続けている。
「味噌汁は美味くはないな。俺の故郷では味噌汁の具にゴボウは使わないな」
「しかしこのゴボウ、煮込み過ぎて繊維だけになっているような気が」
「この前の味噌汁の具は豆腐に油揚げに納豆だったぞ、大豆三昧かよ」
「大豆三昧?」
「大豆三昧」
「大豆なことなので三回言いました」
既にカレー皿の上はウスターソースで黒く塗りつぶされている。もはやカレーライスではなくソース丼。
「これはクリリンの分!」
「意味もなく米を分割して皿に置くな。お行儀悪し」
「悟飯という駄洒落なのだが」
ソース男はじっと皿を見つめている。ソースは二本目だ。掛けたソースの線では正確な円を描画できなかったが、ソースの海にしてしまったので皿の形で新円が出来ている。気をつけろ。新円を覗き込むとき、新円もまた君を覗き込んでいるのだ。
「しかしなあ、こんなに社員食堂に力入れても肝心の本業がああじゃなあ」
「まあ、会社にいる時くらい仕事の話はよせよ」
食べ終わってお茶を飲む。お茶は緑色の味のしない白湯。
ソース男は席を立つと隣のテーブルからソース瓶をとり更にかけ続けている。
「ごちそうさま」
「さま」
食器を片づけに席を立つ。カレー皿から溢れたソースでテーブルが黒く染まっていく。ソース男の服が黒く濡れていく。
「じゃあ仕事に戻るか」
「じゃあ、また」
夕方までデスクに座り、大量の文字と数字が映し出されるスクリーンを死んだ魚の目で眺める仕事を再開する。技術の進歩によりほとんどの業務がAIに変わられてしまったため、人間が行う仕事は意味のない作業と何かあったときに責任を取らされることだけになったのだ。意味があるのか無いのかすらわからない文字列が表を形成したり色が変わって流れていってしまうのを眺める。手持無沙汰なのでマウスをグルグル円を描く。クリックしてしまうとなにか判断しなければいけなくなる。意味の取れない文字列について判断できないので、ひたすら画面上にマウスで円を描き続ける。円を描く。定時まで。


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