セツ学校(モードセミナー)と不良少年少女たち

三宅菊子
じゃこめてい 1985.1.12

表紙

長沢節さんとセツ・モードセミナー、全盛期の平凡パンチ、創刊当時のanan、大勢の才能ある若者の物語。

三宅菊子さんの著書の中で一番好きかもしれない。大事すぎて、更新ができないまま時間が過ぎてしまいました。これを読んでセツの世界にあこがれて、長沢節さんの本も何冊も買い、読みました。
この本の最後で「オレ、あんまりヨボヨボにならないうちに、いつかはやめるよ。オレがやめるときはたぶん、セツを終りにするかもしれない」とおっしゃっている節先生ですが、1999年、学校の写生旅行先で、自転車転倒事故で亡くなっています。最後まで生徒たちと絵をかいてらっしゃったようです。そして2013年の今、セツはまだあります。今のセツってどういう感じなのかなあ。
(2015/9/6追記)セツ・モードセミナーは2017年で閉校するそうです。サイトの「閉校のお知らせ」に書いてあった理由は節さんへの愛なのかなあと思いました。

とりあえず、好きなところをたくさんたくさん引用してみます。

(以下引用)

* * *
(節先生の話)

 「高樹町時代に、花井幸子、ユミ・シャローたちが入ってきた。あの子たちウルサイんだ、じつに。ペチャクチャ喋ってばかりいてねぇ、でもファッション・イラストがじょうずでしたよ。ユミさんは洗練された絵、花井くんはダイナミックな絵で。お互いに、あ、その線いい!あたしもマネする! とかキャーキャー言いながら、驚くほど沢山書くんです。
 長い間学校をやってみてわかったことは−−−いい生徒が出るときはドサッと固まって出たりすることがあるんです。あれは結局、集団の力による盛り上がり、なのかなぁ。
才能が開花するには、努力や勉強とは別の、何か”刺戟”が必要なのかもしれません。不条理だけれど、その刺戟に出会えなかった才能は、開かずに終わってしまう場合さえありますね。
 刺戟とは、つまり人間関係。お互いに絵を見たり見せ合ったりして、口惜しがる。才能のあるヤツの影響を受ける。そういうことがとても大事みたいですよ。
 いいと思うとソックリにマネしちゃう人もいる。僕はコピーということは大事だと思ってます。自分を空しくするほど他人に惚れちゃう感受性。それも個性なんです。
 ゴッホだってそうでしょ。浮世絵の真似をしたりね。でもそれで自分がなくなってしまうわけではないんだから。惚れっぽい感受性、これは才能が開くときに非常に大事なことなんです。
 柳生くん、峰岸くん、池田くんあたりもそうだった。−−−彼らはちょうど”平凡パンチ”がイラストに力を入れていた時期にぶつかってワッと出た。
「うちの生徒のいいところはね、たとえば柳生がパンチにイラストを売り込みに行って起用されるでしょう。次に行くときには友達を連れて行って紹介しちゃう。いつの間にかその友達も仕事をもらって・・・という風に、お互いに助け合う。他人の足を引っぱるとか、オレだけ、オレだけ、というようなところがないですねぇ、セツ出は。
 だから、偶然に入学してきて、いいクラスに入った人はとても幸運。誰か一人、盛り上がりの火つけ役みたいな子がいるクラス、そんな時期。火つけ役はやっぱり才能のある人なんでしょう。だからみんながついて行く。逆に、シラケて盛り上がらないクラスだってありますよ。困るんだよねぇ、そういうときは。でも、半年めに2級へ進むと、そこから上は合併クラスだから、上級生の友達もできるしね。

* * *
(セツの卒業生パーティで)

 おなかのところに板の端を当てて、キッ、と一瞬まじめな目で秀香を見る。その姿は−−−たとえば競馬の馬がスタート点に立ったとたん、キッと身を引きしめて競走の体勢をとる、とか、ドーベルマンが獲物を感知したとき、とか、一種の気合いと迫力のある雰囲気、に、私には見えた。30何人がいっせいにこの「キッ」をしたので、わーかっこいい、と思ってしまって、ヤクザ映画のお葬式の場面なんかも思い出した。
 さっきまでへらへらしたりダラダラ喋ってた、イーカゲン集団にも見えた人たちが、急にドーベルマンの緊張感を湛える、この場面は私にはほんとに驚異。セツではみんな学校とか勉強なんて感じじゃなかったよォ、などという昔ばなしはよくきいていたけれど、やっぱりねぇ、描くときはずいぶん真剣だったんだ。

* * *
(モデルの早川タケジさんの話)

 あの人たちにずーっとくっついて歩いてましたよ。コンサートとか展覧会とかね、行く場所も俺なんかとちがうの。どっか遊びに行くんでしょ、って言ってついて行ってました。
 結局いちばん影響うけたのが柳生さん峰岸さん、この2人ね、10年くらいついて歩いたかなあ。あと長沢先生と、1/3ずつ影響うけてると思う。
 服に関しては池田・峰岸がトップね。あの人たちバーゲンばっかり行って、かっこいいの買ってくるんだよね。俺なんか18-9歳で15万くらい収入会ったじゃない、銀座のVANとかJUNで服買うのがステータスみたいな、モデルってそういう世界なんです。セツの人たちは新品を定価で買うようなことバカにしてるわけ。ばかやろ、これ1000円だよ、とかね。ケチなほうがかっこいいんですよ、セツでは。セツで僕は金に関する価値観が変わったね。
 どう考えてもトクだからさ、そのほうが正解だよ、と思いましたね。

* * *
(全ブス連について)

 かつて、60年代や70年代の初め頃には、人を熱狂させる流行があったし熱狂する若者が沢山いた。とくにセツには。パンチには。
 そしてその中でも熱狂的に熱狂し狂っていたのがミロ&都。この2人は長年、姉妹なのかレズなのかと思われるほどの仲よしで、そこにお岩が加わると、知る人ぞ知る迫力イメージ。パンチで鳴らした時代の3人は、ほんとバカ派手の燥ぎ好きの、恐怖の姉御たちだったんだよ!
(略)
 いまでは想像もつかないだろうけれど、たとえていうなら、スコット・フィッツジェラルドとゼルダが1920年代のほんの短い時期、ニューヨークで毎日展開した乱痴気騒ぎに似ていたかもしれない。
 TBSに”ヤング7・20”という番組があって彼女たちはそのほとんどレギュラーで、横尾(忠則)さんや浜野安弘や加藤和彦たちがブレーン・・・というより家来みたいに彼女たちを持ち上げて、”11PM”でも気勢を上げたしクイズなんかにも引っぱりダコ、もちろん女性自身や週刊女性など女雑誌にも登場して。全国から「全ブス連に加盟したい」という本気の申し込みが続々と殺到したりした。
 ベロンと裾の広がったパンタロン、「腹巻みたいに短いミニ」(これは都がミロのミニスカートについて言っている)おっぱいが見え見え”スケスケルック”等々々、当時の過激ファッションを想い出すと、その上に乗っているのはどうしてもミロ、都。いまとは違って、ミニもシースルーも、いちいち大人たちがギャッという衝撃ファッションだったので、全国の若い男の子・女の子は’60年安保の闘士に憧れたと同じくらいの尊敬を捧げた。
 東京オリンピックが’64年で、パンチが創刊したのもその年で、それ以来、世の中に若者文化ということが始まっていた。VANやJUNの服、フォークソング、ヒッピー、クルマ、巨人の星、あしたのジョー、ミニファッションの女王ツイギー・・・どれが先だったか正しい順は忘れましたが、あの頃、「流行」には熱とパワーがあった。近頃のように、企業とか送り手とかが仕掛けたから売れてるんだろ、と思わされるウサン臭さが少なくて、ほんとに自然発生的に「流行」が「若者」の間から湧き生まれてくる感じが確かにあった。
 全ブス連は、そういう熱の高いエネルギーの一つのシンボルだったようにいまでは思える。昔は面白かった、今の若いもんは・・・なんていう気はさらさらないけれど、全ブス時代には、シラケ世代と呼ばれる人種はまだいなかった。シラケの対極、大熱中の女子たちでした。

* * *
(節先生の話)

「セツに入って半年やってると、下手だった子が突如、絵が面白くなって描きたくてしょうがない、という子になったりするんだよ。うっとうしいような色だったのがガラッと明るい色になったり。いつ、どんなヤツが、どう変わるか、まったく予想はつかないの。
 僕が褒めてばかりいるっていうのはね、褒められるとビックリして自信がつくの。みんなで合評するときに、自分なんかダメだ、恥しい、と思いながら並べる子もいるわけで−−−僕はそういう子の絵をAにしちゃう。Aの作品は額に入れて展示するでしょう、額に入れてちゃんとみると、あらためて自分の絵がよくわかる。
 それでヘタクソが情熱を燃やし始めたりして、そこから変わっていく。
 僕はね、マンツーマンの教育なんていうことは信用しません。全員の絵をダーッと並べる。並べて、自分で見ろ、と言うの。みんなの絵と自分の絵を比べて、初めてよさも欠点も見えてくる。だから、独学で勉強してる子はかわいそうだね。必ずひとりよがりに陥りますから。
 絵を描かせる、それを見せ合いっこさせる、それだけでいいの。ほかに教えることはありません。たとえば、ほかの学校では、色彩学とか、色の組み合わせ方とか教えるようだけど−−−その配色が美しいかどうかは、マテリアルでもちがうし、塗るか、貼るかでもちがう、形もあるし分量のバランスもある。色の方程式なんて存在しないのよ。
 どういう色の使い方が美しいかは、どう描くか、ということと同じなんです。だから僕の生徒には、”色彩学”なんていう本、読んじゃダメだよ、と言うんです。
 セツの2年間は、色をタブロオで、形をデッサンで勉強して、どうやら絵ということがおぼろげにわかってくる時間。絵描きにならせるための教育でも何でもないんです、ただ、ここで描いているうちに、その人の、その後の感じ方、生き方を変えると思う。あとは、そこから先はしらないよ。デザイナーになろうが、絵描きになろうが、勝手に自分で勉強してちょうだい。」


目次
1
セツ・モードセミナー探検の理由(わけ)
 椿姫のサロンで会ったガキ大将
 気が楽で嬉しい人たち
 急に目の前が開けた気分
 セツとADセンターのこと
2
セツ学校はこんな学校です

 先着順、入学試験なし
 「絵が下手な子はデザイナーになれる」
 寺子屋のようなスタイル画教室
 才能が開花する条件
 卒業証書は白い画用紙を巻いて
3
ある夜、セツの卒業生パーティで

 いくつになっても会いたい人
 クロッキーの時間
 優しさをみんなが受けとって
 先生のコーヒー飲んで二次会へ
 この”気楽な気分”は何だろう
4
セツ先生の魔法は気持ちがいい

 穂積和夫先生のこと
 まるで少年探偵団みたいに
 魔法か催眠術か”セツ病”か
5
セツゲリラはイラストブームの先鋒だった

 ブームの火付け役たち
 ”パンチ”は不良のための教科書
 ”ゲリラ”はセツのガキ大将
6
17歳でセツに入った池田和弘さんの場合

 卒業しても一日じゅう学校にいた
 お喋りサロンみたいな校舎の設計
 意欲にあふれた編集者とともに
 ”アトリエ・コパン”の青春
7
一人ひとりの不良が追い求めたもの

 峰岸達さんの記憶
 ひとりのゲリラの出発と悩み
 柳生弦一郎の凄い勉強ぶり
 セツで初めて空白が埋まった
8
”全ブス連”は時代と共に生き、踊った

 熱狂の全ブス連時代
 熱とパワーを持った「流行」
 浜野安宏の才能のこと
 女王”お岩”のこと
9
ユミ・シャローさんには別世界だった

 才能豊作年の第一期生たち
 ユミ・シャローさんの涙
 女子美を退学してセツへ
10
時代を画すファッション集団とセツ

 ADセンター・ファッション・ラボの役割
 金子功さんが来た日
 高田賢三やコシノさんたちや
 ”仰ぎ見る気持ち”だった花井幸子さん
 先生に教えられたこと
11
「ひとこと」が人生を変え、人生を決した

 金子さんと荒牧さんの入学の頃
 二つの感動が金子さんの人生を決めた
 何も教えない、だからいい
 先生の褒め言葉の威力
 いくつになっても先生の批評が恐い
 「真の師」をもつことの幸せ
12
セツ式デザイナー養成法、吉田ヒロミさんの場合

 ここが「自分の場所」と信じて
 軽く生きる哲学
 パリに住んで勉強するために
 あの野球帽が見えるとき
13
凄い先輩たちに囲まれて燃えて

 トミー・リーさんのスタート
 驚きと戸惑いと
 これでも学校かしら?
14
「不良学」は底の深い学問なのだ

 桑沢デザイン研究所からセツへ
 「お前は不良だ」と言われた大野ノコさん
 人生までデザインしちゃう人
 ”ヤ”の世界の人をおとなしくさせた部屋
15
役に立ちそうなことは教えない授業

 クロッキーの”ハクチュー”
 ”いいモデル”はセツの自慢です
 なぜ細長いモデルか、ということ
 画板の構え方
 プライド傷つけられてやめた学生も
 穂積和夫さんが忘れられないこと
16
ヘタクソが情熱を燃やして変わるとき

 見えれば描ける、ということ
 真似ることと自分の世界と
 佐藤憲吉さんが学んだこと
 セツ精神の多様な影響
 独学はダメ、マンツーマンも信用しない
17
「どーしよーもない学校」の魅力

 セツに行けば自閉症も暴力も治る
 吉本由美さんの褒められ方
 合理的、シンプルでリッチ
 居心地をよくするための工夫
18
セツ精神に出会い、感応する日々

 「あんなに無欲になれない」と花井さん
 独身主義者演出の結婚披露パーティ
 「先生はわからんから恐いよ」と柳生さん
 出ました!「チンポコの話」
19
セツは文字通り「自由の学校」だ

 一応卒業とほんとうの卒業
 研究科にOB科、自由自在
 卒業しても何年たっても・・・先生
20
少年期から「長沢節スタイル画教室」まで

 長沢節の少年時代
 文化学院で得たもの
 アテネ・フランセのコーヒー
 卒業までに稼ぐ道を
 戦時下のダンスパーティ
 戦後の活躍のスタート
 もうひとつの天分と「スタイル画教室」
 絶妙な「無意識の手管」
 お金の感情は天才的にダメなケチ?
21
学校をほおり出して1年半のパリ

 '60年安保のころ
 反社会的でありつづけること
 長沢節のパリとのなれそめ
 あのままパリに住みついていたら
22
それぞれの巣立ち、そして・・・

 羨ましい修学旅行(?)やスケッチ旅行
 島本美知子さんの”セツ離れ”
 セツの出張所みたいな店から
 「有名になれなかった」伊藤さんの手紙
 大塚さんが年月たつほどに感じること

(2013/5/6更新)