文献に現れた述語形式と国語史の不整合性について

メンテナンスの都合上、民間プロバイダ上に置きますが、科学研究費による成果です。


 本研究は、「口語性」と不連続・不整合を見せる語彙あるいは形態を積極的に取り上げ、その由来、発展の過程を明らかにすることを目的とする。
 従来の国語史は、「口語性」という必ずしも実態の明らかでない尺度によって文献を恣意的に選択し、切り取ることによって成立している一面がある。本研究はこれとまったく発想を異にし、文献の作り手が国語をどのように認識し、自らの表現を作り上げているかという観点に基づく研究であり、文献が本来持っている主体性、表現性を中心とする語彙・語法研究である。また、今までは切り捨てられてきた資料に光を当てることによって、国語のより豊かな実態が明らかになるであろう。本研究を押し進めることにより、日本語の歴史的な流れは、より重層的・立体的に捉えられることになるはずであり、従来の硬直した国語観にも大幅な改変が迫られることもありうる。
金水敏「〈アルヨことば〉その後」(『いずみミニ通信』3 p5-6 和泉書院 2004)の、非短縮版。

アリマス・アルヨ

河竹黙阿弥『月宴升毬栗』(明治5年10月初演)、黙阿弥全集第十巻より、「唐人」の言葉のみを以下に抜粋。


あなた目ない、馬鹿々々々々。

此跡よろしい家あります、大さん美しい娘さんあります。皆々それ見るあります。

あなた踊りをどるよろしい。

私利口、あなた馬鹿々々。

あなた踊るよろしい、私大さん見たい。

大さん噺し面白い。

おゝ、あります/\。

噺しするよろしい。どんちや/\とめうかんどん、ちやんきうらう/\きうらんほこりん、すいらくちうちやあらりふうらりめう、けん/\さいはいちゑすつぱあ、からころ/\ちくりんたい、ぱあぱあ。はゝゝゝゝゝ、大さん可笑い、はゝゝゝゝ

これ可笑くない、あなた馬鹿、はゝゝゝ。

あなた私噺し分りませんか。

分りませんよろしい、今の噺し私寐言。

あなた馬鹿、はゝゝ。


仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』で
○俗間{ぞくかん}横浜語{よこはまことば}と号{とな}へ、「あなた」「おはやう」「わたくし」「たいさん」「よろしい」「まはろ/\」などいへる。こは洋人{ようじん}と贈答{ざうたう}の階梯{かいてい}にして、内外{ないぐわい}必用{ひつよう}の語なれば、本文中{ほんもんちう}専{もつぱら}に用ひたり。甘口{あまくち}なること、推{をし}て知るべし。(岩波文庫・上巻 p.237-238)
異人ことばでの会話をいくつか転記します。《 》は話者に関する私(情報提供者・飯間浩明氏)の補い。弥次郎・北八・英人モテル・ざんぎりなど。
《弥》通弁がなくツちやア、あなたもおはやうも、ぢき/\も、まはろ/\も、わからねへ。(上 p.70)近代デジタルライブラリ

《弥》彼奴{きやつ}〔モテル〕は、此地{こつち}の様子も知ツてゐるし、濱にゐたときも、港崎{なか}で毎晩まはろ/\と、きめかけて、(上 p.109)
《モ》日本、おはやう。(同)

《モ》あなた、今日、まはろ/\。どちら。私{わたくし}今ばん、パリトリツヂ{雉子}。ゴン{小銃}。ヱーム{ねらひ}。(p.145)
《北》あなた、いつしよに、ありがたう。(同)

《弥》わたくし、まことどろぼう、ない。(p.154)

《ざ》アヽ、たいさん、どりんけん。君マア、重杯{かさね}たまへ。(p.205)

《弥》ヲイ、モテルさん。亜丁娘{あでんむすめ}、助兵衛{すけべゑ}ありますか。(p.220)
《モ》むしゆめ、助{すけ}べゑ、たいさんあります。(同)
《弥》あなた、わたくし、すけべゑまはろ、まはろ。(同)
《モ》よか/\。(同)
《弥》こんぺいに 通次郎 北八、さらんぱア、ペケ/\。(同)
《モ》あなた、喰事{ちやぶ/\}ありませんか。(同)
《弥》わたくし、空腹{くうふく}あります。(同)
《モ》此{こゝ}店、甚{まこと}廉価{やすい}。(同)
《弥》よろしい/\。(同)
《弥》モシ、あなた、どろんけんありますか。わたくし、どろんけん/\。(同)
《モ》わたくし、どりんけん、たいさん、あります。(同)

《モ》ぽんころ、ペケ/\。あなた、どりんけん。まこと、わるい。カイロ邏士{〔ぼ〕(ぽ)りす}役人{やくにん}、まこと、やかましいありまス。(p.57)


仮名垣魯文『安愚楽鍋』三編下〔1872年刊〕(岩波文庫 1967年 p.101)
〔異人〕『あなた、異人、ペケありますか。わたくし、あなた、たいさんよろしい。』ト、チヨイと私の手をにぎツたので、私{わちき}もぽつとしてしまツてサ。〔茶店女の隠食=原文旧漢字〕
改造社『現代日本文学全集1』では、29頁中段


須藤南翠『新粧之佳人』(明治二〇年)、『日本現代文学全集 3 政治小説集』講談社による
阿弗利加人のダインスなりけり……
旦那《だんな》私《わたく》し貴郎《あなた》叱《しか》りますない私《わたく》し話《はな》し致《いた》します旦那《だんな》叱《しか》るありますか私《わたく》し泉《いづみ》さん助《たす》けて貰《もら》ひました(中略)お嬢《じゃう》さま願《ねが》ひます私《わたく》し悪《わる》い事《こと》するない御詫《おわび》私《わたく》し願《ねが》ひます旦那《だんな》何《どう》ぞ私《わたく》し悪《わる》いない一日《 にち》でも半日《はんにち》でも一遍《 ぺん》私《わたく》しお邸《やしき》帰《かへ》るあります、何《ど》うぞ帰《かへ》ろ……願《ねが》……願《ねが》ひ……ます……、嘘《うそ》つきませんマホメット誓《ちか》ひます、誓《ちか》ひ……誓《ちか》ひ……天罰《てんばつ》……天罰《てんばつ》……。(第五回(末尾))
中国人、陳の話し方も似ている。
陳「浮田《うきた》さん何《なに》を考《かんが》へます私《わたく》し来ました腹《はら》立《たて》ましたか御相談《ごさうだん》には成《なり》ますまいが外事《ほかこと》なら話《はな》して御覧《ごらん》なさい。 「何《ど》んな事《こと》ありますか私《わたく》しお使《つか》ひ致《いた》しませう。……
「私《わたく》し分《わか》るない貴下《あなた》何処《どこ》へ遣《や》る返事《へんじ》です郵便《いうびん》電信《でんしん》伝話機《でんわき》幾干《いくら》も有《あ》ります。……
「宜《よろ》しい男《をとこ》なら書物《しょもつ》を返《かへ》しますネ、其《そ》の中《なか》へ手紙《てがみ》を入《い》れませう屹《きっ》と人《ひと》が気《き》が着《つき》ません、女《をんな》ですか花簪児《はなかんざし》を進上《しんじゃう》あります薔薇《しゃうび》の花《はな》へ紅《べに》で真《しん》のやうに小《こま》かく書《かき》ます大丈夫《だいぢゃうぶ》向《むか》ふの人《ひと》気《き》が付《つ》きませう何《どう》です。……
「ハゝア夫《それ》困《こま》ったエーツとー。……
「アゝ爾《さう》だ/\貴下《あなた》あります/\……
「有《あ》ります/\大層《たいそう》宜《よろ》しいモウ此外《このほか》有《あり》ません。……
「貴下《あなた》分《わか》りますまい私《わたく》し未《ま》だ言《いひ》ません、鳩々《はと/\》鳩《はと》より外《ほか》有《あ》りません私《わたく》し考《かんが》へました鳩《はと》宜《よろ》しい、宜《よろ》しい鳩《はと》。……
「私《わたく》し考《かんが》へました大丈夫《だいぢゃうぶ》宜《よろ》しい有《あ》りませう御礼《おれい》沢山《たくさん》貴下《あなた》呉《くれ》ますねエ貴下《あなた》。……

中国語による独り言は文語で写される。
「彼《あれ》なり/\浮田《うきた》の側《かたわ》らに飾《かざ》りありしは全《まった》く彼《あ》の旗章《フラグ》なり然《さ》れば何人《なにびと》をか伴《ともな》ひて人目《ひとめ》稀《まれ》なる空中《くうちう》の会合《くゎいがふ》を語《かた》らひけるよ益々《ます/\》不問《ふもん》には措《をか》れまじ/\。
ト支那語《しなご》を以《もっ》て独語《ひとりごち》しが(第七回)


中村春雨(吉蔵)『無花果』(明治34年)、『現代日本文学全集 34 歴史・家庭小説集』改造社による
日本人牧師と結婚して日本に来る米国女性が、
「あの、私《わたし》の日本語《にほんご》、日本人《にほんじん》が聴《き》くと可笑《をかし》いでありますかね、思《おも》ふ事《こと》、向《むかう》の人《ひと》に分明《わか》りませんかね。」
「私《わたし》、良君《あなた》が、日本《にほん》へ行《い》ったら日本語《にほんご》ばかり使《つか》ふよろしいと仰《おっし》やりましたから、それで可成《なるべく》左様《さう》してゐますが、外《ほか》の日本人《にほんじん》、解《わか》るまいか思《おも》ひましてね……」(p363)

「私《わたし》、良君《あなた》の命令《めいれい》なさる通《とほ》り、遣《や》って行《ゆ》かう思《おも》ふのであります。」
「料理番《コック》も婢《サーヴァント》も、そんなもの入《い》りません。私一人《わたしひとり》で遣《や》るあります」
「否《いや》、私《わたし》、遣《や》るあります。父《おとっ》さんもその事《こと》、何時《いつ》も云はれたであります。料理番《コック》なんか置かないやうにするよろしいってね、それで私、平常《ひごろ》、家《うち》でも庖厨《くりや》の方の事、手伝《てつだ》うたのでありますよ。」
「あの、良君《あなた》の親《おや》さんや、姉《ねえ》さんに、私《わたし》早《はや》う逢《あ》ひ度《たい》でありますよ……私《わたし》、米国人《アメリカじん》だから、嫌《きら》はれる事《こと》ありますまいかね。」(p364)

「良君《あなた》、私《わたし》を愛《あい》してくださるのありますか。」(p377)

などとしゃべるなどの発話が見られる。また、乞食の少年の「何か遣ってくんねえ。今朝から飯一粒も食はねえんだから、腹が減っちゃって歩けねえんだ」「己等《おいら》の父《とっ》ちゃんも阿母《おっかあ》も去年《きょねん》虎列剌《コレラ》で死んぢゃったんでえ。」などもあり(p377)
画像
岡本綺堂「雪女」(光文社文庫『鷲』による。初出は大正10.3『子供役者の死』隆文館)
「遠いあります」
など、「李太郎」のことばづかい。参照

岡本綺堂「異人の首」(半七捕物帳)青空文庫カード週刊朝日 大正10.10

ロイドは片言(かたこと)で云った。
「日本の人、嘘云うあります、わたくし堪忍しません」
「なにが嘘だ。さっきからあれほど云って聞かせるのが判らねえのか」
「判りません、判りません。あなたの云うことみな嘘です」と、ロイドは激昂したように云った。
「あの品、わたくし大切です。すぐ返してください」

岡本綺堂「蟹のお角」(半七捕物帳)青空文庫カード講談倶楽部 昭和9.1

「それ、フォト……。おお、シャシンあります」と、ヘンリーは答えた。……
「ハリソンさん、シャシン上手ありました。日本人、習いに来ました」
「その日本人はなんといいますか」と、半七は訊いた。
「シマダさん……。長崎の人あります」
「年は幾つですか」
「年、知りません。わかい人です。二十七……二十八……三十……」
 だんだん訊いてみると、そのシマダという男は長崎から横浜へ来て、写真術を研究しているが、日本人に習ったのでは十分の練習が出来ないというので、何かの伝手(つて)を求めてハリソンの家へ出入りするようになった。ハリソンは商人で、もとより専門家ではないが、写真道楽の腕自慢から、喜んでシマダにいろいろの技術を教えた。シマダも器用でよくおぼえた。その以上のことは、ヘンリーの日本語が不完全のために詳しく判らなかった。

宮澤賢治「山男の四月」青空文庫カード(『注文の多い料理店』大正13.12。初版目次に「山男の四月 (一九二二・四・七)」とあり)
 支那人はそのうちに、まるで小指ぐらいあるガラスのコップを二つ出して、ひとつを山男に渡しました。
「あなた、この薬のむよろしい。毒ない。決して毒ない。のむよろしい。わたしさきのむ。心配ない。わたしビールのむ、お茶のむ、毒のまない。これながいきの薬ある。のむよろしい。」支那人はもうひとりでかぷっと呑んでしまいました。

『戊辰物語』(東京日日新聞昭和3年、同年万里閣書房刊。岩波文庫による)
口の悪い英国公使パークスが「こんな粗末な紙ではすぐに破けてしまう」と由利にいった。(中略)公使はウンとうなって、札を力まかせに引き裂こうとしたが破れず、「これ駄目あります」と投げた。
(金子子爵談)

白井喬二『富士に立つ影 明治篇』「杉浦美佐緒 七」(「報知新聞」昭和二年頃か。時代小説文庫による)
「私、ダラス先生あります」

「……ほう、おとなしい娘さんある」

以下、時折ダラス登場。
井筒月翁『維新侠艶録』中公文庫昭和六十三年(昭和三年十二月 萬里閣書房)(井筒月翁は、解題にはないが、小野賢一郎=蕪子(1888-1943)とのこと。)
「あれ、誰ありますか」
「家老です」
「おかしい服ありますね」
「あれは日本の礼服です」
サトーと伊藤とはこんな会話をした。
(七十九頁。『会話篇』のサトーにあります詞を使わせるとは)
海野十三「人造人間エフ氏」(青空文庫カード)1939年
イワノフ博士「……ましぇん・マリ子しゃん・くださーいました・あれは人造犬あります」
中国人の張「ほんと、あるな。では、いう。わたし、あの子供にたのまれた」……「いや、あの子供、わたしにたのみました。わたし、けっしてうそいわない」

前田均氏論文「在外児童作文集に見る言語混用の実態」等から。
こちら
豊田有恒『夢の10分間』講談社文庫 1979
短編「分身」。
外人みたいなアクセントで聞きおぼえのない声だった。……「わたし、あなたの子孫。三十世紀からきたのことある」

筒井康隆「日本列島七曲がり」(週刊新潮昭和45.6.20日号、全集9巻233頁)。「薬菜飯店」
横田順彌、荒熊雪之丞シリーズ、『宇宙ゴミ大戦争』(ハヤカワ文庫JA)のうち数作品、『謎の宇宙人UFO』(角川文庫)、『帰ってきた雪之丞』(徳間文庫)の陳珍朕さん一家
小松左京『ゴエモンのニッポン日記』角川文庫 冒頭
日本人が外国語を、得意になって、しゃべったりする時だって、むこうの人間がきいたり読んだりすれば、テチナヤルヤル、ミナクルヨロシ式の、きわめてチンケなものになっているかも知れない。英語にした所が、うろおぼえで、アメリカ南部なまりと、スコットランドなまりと、ロンドンなまりと、中世風英語や雅文体とを、ごちゃまぜにつかっていないともかぎらない。――最近きいた話によると、アメリカの南部や、ラスベガスあたりの寄席で、その種のジャパニーズ・イングリッシュの口まねが、寄席芸人のギャグの一つになっていて、カタナモテクル、ヨクキレルアルナ、ソレノムワタシハ、シヌシヌアルヨ式の日本人英語が、お客の腹の皮をよじらせているということである。
安田敏朗『帝国日本の言語編制』p382
この種の日本語の変化の例として、若干不適切であるが、台湾での「内地人中流家庭の夫人と、本島人野菜行商人との会話」として台湾の日本人教師が作文したものを以下に掲げて見よう。
「リーヤ(汝)チレ(此)幾ラアルカ」
「チレ。一斤十五銭アル」
「タカイタカイアルネ、マケルヨロシイヨ」
「タカイナイヨ、オッサン(奥さん)ロコモ(何処も)十五銭アルヨ、アナタ、ワタシ、ホーユー(朋友)アル、ヤスイアルヨ」
「ウソ言ヒナサイ。ドコノ野菜屋モ十二銭アルヨ、リーノモウ買ハンヨ。外ノ買フカライランヨ」
「ホー、ホー、ヨロシ、ヨロシ、オッサン、マケルアルヨ。イクラ買フアルカ」
                                  (川見[一九四二:三四])
と、日本語がべースの文例が載せられている。石剛[一九九三a、b]においては、この例を引いて「満洲」の「協和語」との差(日本語ベースか中国語べースかの違い。第3部参照)を論じているが、そもそも台湾のこの例文は川見が述べるように典型として作文されたものであって、実際に採集されたものではなく、そこに日本側のステレオタイプ視が存在しないとは言い切れない。ことに「コレヤスイアルヨ」などという表現は「中国人の話す典型的日本語」のステレオタイプとして現在も有効であり、……

明治六年刊 西の手ぶり(岡本半渓――岡本綺堂の父)
外国人に対話するに、其語の通ぜざらんことをいとひて、当時横浜言葉と称する――ヂキ/\タイサン等の語を云ふ、――片語を以て説話する者あり、外国人の方にては、此詞を甚だ嫌ふ事なり
『明治事物起源』「横浜言葉」による。

アンベール幕末日本図絵(新異国叢書)大阪大学蔵書
私の召使はトオ To> という名前の若い男であった。多くの日本人にありがちな、白分の正確な年齢は知らなかったが、額から頭の上まで剃り上げていなかったから、彼がまだ少年であることは確かだった。彼は大変賢く、いたって穏やかな性質であった。黙々と落ち着いて勤めに励む点では、ジャワ人に劣らないばかりか、彼らよりもはるかに物知りで、そのうえ、いつも明るくて、愛想がよいという二重の優秀性をもっていた。
 私が日本語の手ほどきを受けたのは、彼からであった。彼はわずか三つの言葉で会話を理解する鍵を私に与えた。彼は自分では気がつかないが、これほどまでに哲学の方式にかなった方法を用いることに、誰でも驚かずにはいられまい、と私は思った。事実、人間の精神的な行動は、疑問と、否定と、肯定の三つの表現に要約される。この三つの表現さえ修得してしまえば、後はすべて単語だけの問題となる。すなわち、すべての場合に説明することのできる一定量の日用語を記憶さえすれば、それで十分である。したがって、まず疑問から始めて、日本語でarimaskaーすなわち、「アリマスカ」を覚え、ついで否定のarimasi――「アリマセン」に移り、そして、肯定のarimas「アリマス」で終わるわけである。それから後は、辞書が必要な言葉を教えてくれる。たとえば、Nippon――日本または日本人、tchi――火、tcha――茶、ma――馬、misouー水、founeー小舟または船、kinkwa――喧嘩、等々である。
 このうえに、久しく使われて、すでに日本語になっている、つまり帰化した言葉を付け加えた。すなわち、Hollandaーオランダ人、Inglishーイギリス人、Frantzーフランス人、ministro――公使、admiral――提督などがそれである。
 私はこうして通訳の助けがなくても、ちょつと手真似をして思うことが先方に通ずるようになった。かなり長く馬で遠乗りをして家に戻って来て、トオにお茶を持って来させるため、「チァ、アリマスカ」tcha arimaska? というと、彼は「アリマス」arimasと答え、間もなく、お茶はもう私のテーブルの上に置かれている。また、私が警鐘の鳴るのを聞いて、火事ではないかと思い、「チィ〔火〕、アリマスカ」tchi arimaska? と聞くと、トオは、「アリマス」arimasと答える。間もなく火事が消えると、彼は戻って来て、「アリマセン」arimasiとうれしい知らせを伝える。私はこういう方法で、彼に、湯を沸かしなさいとか、お茶に水を入れうとか、別当を呼んで馬に鞍を付けさせることがいえた.彼の方もまた、イギリスから郵便物が届いたとか、軍艦が入港したとか、日本の老中たちがフランスの旗艦を訪問したとかを知らすことができた。読者には、日本語の覚え方が理解できたものとして、これ以上、日本語を引用するのをやめるが、こうして、われわれの会話の範囲は日を追って拡大し、深くなっていった。
(高橋邦太郎訳)(上巻p52-53)
講談社学術文庫『絵で見る幕末日本』(茂森 唯士訳)も同書の訳。
ピエール・ロチ「江戸の舞踏会」(『秋の日本』村上菊一郎・吉氷清訳 角川文庫 p53-73)
ソーデスカ伯爵夫人・アリマセン侯爵夫人・アリマスカ嬢・カラカモコ嬢・クーニチワ嬢。「わたしは登場人物の誰をも傷つけないよう、ムツヒト天皇の御名以外は、すべての名前を匿名にした。」
『商人独通詞』(静嘉堂マイクロフィルム『日本英学資料集成』 年代不明)
「日本詞で異人へ通ずるつかひよふ」

いねといふ事 又はわるいといふ事 ヘケ
おこるとき あたまたたく ポンコツ シンジヨウ
おまへといふ事 アナタ
かねくれといふ事 壱分シンジヨウ
おまへよろしい アナタヨロシイ
あるじを ダンナ
人の女房を カミサン
わかい女を ムスメ
仕〓物よいを タイサンヨロシイ
よそへゆくを マロマロ
盗人を ドロボ
いつでもあいさつを ヲハヨヲ
かいりは サイナラ


博士

泉鏡花「化鳥」青空文庫カード明治30年4月「新著月刊」
聞くものがなければ独(ひとり)で、むむ、ふむ、といったような、承知したようなことを独言(ひとりごと)のようでなく、聞かせるようにいってる人で。母様も御存じで、あれは博士ぶりというのであるとおっしゃった。……「こういうものじゃ、これじゃ、俺じゃ。」
夢野久作「超人鬚野博士」青空文庫カード講談雑誌1935
博士の語りである地の文はさほどでもないが、会話では「直ぐに今から活動を開始するじゃ」など
海野十三「人造人間エフ氏」(青空文庫カード)1939年
海野十三「宇宙女囚第一号」青空文庫カード
『ヴァーチャル』p17
中島敦「文字禍」青空文庫カード「文学界」1942。「老博士」
「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子(たね)は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。」

老人語・現代人の考える古語

爆笑問題『爆笑新聞』角川文庫 2002.12.25 p13
江戸幕府代表として徳川家一行がパリ万博へ出発したのが1867年の1月11日。(中略)到着したときには「舳先よ、あれがパリの灯だ」って言葉を残したんだよね。(中略)江戸時代だから「パリの灯じゃ」と言ったかもしれない。

あるだよ

外国人に使わせているもの。
薄田泣菫『茶話』(冨山房百科文庫『完本茶話』)
大正5.8.14「男装婦人」(『完本茶話(上)』p129)
この婦人がマサチウセッツの某市《なにがしまち》へ旅をした事があつた。途中で道を迷つて甚《ひど》く当惑してゐるところへ、農夫《ひやくしやう》が一人通りかゝつた。(中略)男装婦人はその農夫《ひやくしやう》に訊いた。
 「一寸お訊ねしますが、某市《なにがしまち》へはこの道を往《ゆ》きますか。」
 「あゝ、おつ魂消《たまげ》た。」農夫《ひやくしやう》は眼をこすり/\言つた。「俺《おら》はあ、何にも知んねえだよ。お前《めえ》様のやうな女子《あまつこ》みたいな男初めて見ただからの。」
大正5.10.25「石碑と文展」(『完本茶話(上)』p187)
百姓が一人通りかゝつた。手には引いたばかしの大根を提《さ》げてゐる。欧陽詢は「一寸……」と言つて呼びとめて訊いてみた。
 「この碑は誰《だれ》の書だね、お前知つては居なからうな。」
 「知らねえと思ふ人間《ふと》に何故聞かつしやるだ。」と百姓は螳螂《かまきり》のやうに〓[弗色]《む》くれた顔をあげた。「これはあ、索靖《さくせい》といふ偉《えれ》え方の書だつぺ。」
大正6.4.8(『完本茶話(上)』p304)
ブライアン氏がミゾリイ州のある集会《あつまり》に招かれて出掛けた事があつた。(中略)
 聴衆《きゝて》のなかから農夫《ひやくしやう》らしい人の好《よ》ささうな顔をした男が一人出て来た。
 「へへえ、先生様で御座らつしやりますか。」その男は叮嚀に頭を下げた。「私選挙ちふといつでも此方《こなた》様に投票するだが、今度もまたさせて戴くかな。」
(中略)
 「先生様のお為めなら、俺《わし》い、何時《いつ》だつて投票するだと、彼方《あつち》からも此方《こつち》からも持掛けるんで定めし先生様もお困りでがせうな。」
大正7.4.6(『完本茶話(中)』p501)
ルウズヴエルト氏が、ずつと以前|紐育《ニユーヨーク》州の知事をしてゐた頃、一人の農夫爺《ひやくしやうおやぢ》をよく知つてゐた。(中略)
 「よい所へ御座らしつたな、檀那……」爺さんは窓から巌丈な身体《からだ》を乗り出すやうにして言つた。「ちよつくら檀那にお訊き申すべいが、市《まち》の新聞つてえ奴は、えら嘘|吐《つ》くだね。」(中略)
 「私《わし》たつた今読むだばかしだが、ここにこんねえな話が載つとるだよ。何でもはあ、市《まち》の富豪《ものもち》が牝牛《めうし》一匹の画《ゑ》に一万四千弗とか払つたつてこんだ。嘘|吐《つ》くにも 程があるだよ。」(中略)
 「何だつて、檀那様……」農夫爺《ひやくしやうおやぢ》は解りの遅い知事をもどかしがるやうに声を高めた。「なんぼ広い紐育の市《まち》だつて、まさか牛乳《ちゝ》の絞れねえ牝牛に大枚一万四千弗もおッ投《ぽ》り出す馬鹿者も御座りましねえからの。」
大正7.4.22(『完本茶話(中)』p510)
 桑港《サンフランシスコ》には露西亜生れの労働者がたんと居る。(中略)
 女はきい/\した声で突《つゝ》かゝつて来た。露西亜の労働者は呻《うめ》くやうに言つた。
 「拭いただよ。それが何《ど》うしただ。」
 「お前さん、これを何《なん》と思つてるの。」
 「国旗だと思つとるだよ。」
 「国旗を何《なん》と思つてるの。」
 「唯の布片《きれ》だと思つとるだよ。」
大正7.6.21(『完本茶話(中)』p563)
 フランシスは宿の農夫《ひやくしやう》を掴まへて訊いた。「爺さん、この村では子供は余り居ないと見えるね。」
 「居ましねえだよ、孩児《がき》は。」爺さんは安煙草の脂臭《やにくさ》い口をして言つた。
 「余り生れないのかな。」
 「あんまり生れねえだよ。」
 「どんな割合で出来てるか知ら。」
 「さうだなあ……」爺さんはじつと考へるやうな目つきをした。「どの女《あま》も一年に一人しかよう生まねえだからの。」
大正7.6.25(『完本茶話(中)』p567)国内なれど、西日本ゆえ。「松江の市街外《まちはづ》れ」で。
 「旦那、一休あの梅の樹はどうして呉れるだね。」(中略)
 「だつて、お前《めえ》様、高い金出して、俺《おら》がの買取つたぢやねえか。」(中略)
 「預かれなら、預かりもしようがの、実が生《な》つたら持つて往《ゆ》くだかね。」(中略)
 「実は要らねえだつて。」百姓は眼を〓[目爭]《みは》つて不思議な茶道の顔を見た。「俺《おら》実が生《な》るから金を貰つただ。花見するだけなら、お前《めえ》さんが幾度来たつて、彼是|叱言《こごと》いふ俺でねえだ。金は返すだよ。」
大正7.7.7(『完本茶話(中)』p581)
 「かう言つたつて、真実《ほんとう》にはさつしやるまいがね、俺《おら》達の耕地ちふのは、素晴しく大《でか》いもんでね……」とダコタ生れの農夫《ひやくしやう》は厚い唇をもぐもぐさせながら言つた。「春の初めに鍬を入れかけて、畦《うね》を真つ直に耕作を済ますのは、丁度秋のかゝりだよ。帰り途《みち》にはそろそろもう収穫《とりいれ》をせんならん程|作物《さくもつ》が大きくなつとるだよ。」
 「そんな事もがすでせうな。」と英吉利生れの農夫《ひやくしやう》は態《わざ》と落つき払つて言つた。「俺《おら》が友達が一人印度に居《を》るだが、何でもその話によると、向うでは畑を揖当《かた》に借金をしようちふんで、持地《もちぢ》をぐるり一廻り検分して帰ると、もう借金《かね》の返済期になつとるので、いつ迄待つても金の借りやうが無《ね》えちふ事だよ。ははは……」
 二人は声を揃へて笑つた。暫くすると、ダコタ生れの農夫《ひやくしやう》は少し笑ひ過ぎたやうに、急に真面目な顔になつた。
 「そんだら、はあ、丁度|俺《おら》が娘聟の持地とおつつかつつだと見えるだね。」農夫《ひやくしやう》は面と向ふ折には、こつぴどく面当《つらあて》を言はないでは置かない同じ口で、自慢さうに娘聟の噂を始めた。「俺《おら》が娘聟ちふのは、二週間前に結婚しただがね、その翌《あく》る朝馬車に乗つて牧場《まきぱ》に出かけたもんだ。毎日毎晩持地のなかをとつ走《ぱし》つて、やつと牧場《まきぱ》に着いた頃には、もう子供二人が生れとつただよ。」
大正7.8.13(『完本茶話(中)』p607)
 「でも、お前《めえ》様、小麦が高くなつたのは、小麦自身が高くなつた訳ぢやござりましねえだよ。」農夫《ひやくしやう》は言ひ訳がましく口を切つた。「あれはその学問の値段が入つてるからでござります。今時の農夫《ひやくしやう》はお前《めえ》様方と同じやうにいろんな事を知らなくつちやなりましねえからの。」
 「学問の値段といふとー。」タフト氏は腑に落ちなささうに眉を顰《しか》めた。「そんなものが何だつて小麦や馬鈴薯の値段に影響して来るんだね。」
 「だつて考へて御覧《ごらう》じませ。」と農夫《ひやくしやう》は節高《ふしだか》な頑丈な手をタフト氏の鼻先きで振りまはした。「今の農夫《ひやくしやう》は往時《むかし》と違つて、自分達の畑から上《あが》る物の植物学とやらの名前を知らなくつちやなりますめえ。それから浮塵子《うんか》や根切虫《ねきりむし》だが、そんねえな無益物《やくざもの》の昆虫学とやらの名前も覚えなくつちやなりますめえ。その上に肥料《こやし》の化学的成分とやらもすつかり頭に入れておかなくつちやなりましねえのだからな。何だつてお前様、それにはみんな銭《ぜに》がかゝりまするだよ。」
大正8.7.30(『完本茶話(下)』p806)
 英吉利のグラスゴウにドナルドソンといふお爺さんがあつた。老病で死にか丶つた時、枕もとに媼《ぱあ》さんを呼んで言つた。
 「媼さんや、お前にはいかいお世話になつたの。俺《わし》も今度こそはいよいよお迎ひが来たと思ふから、どうせ往かんなるまいが、気の毒なのは、媼さんや、後《あと》に残つたお前の身体《からだ》ぢやてのう。」
 「何を言はつしやるだ、後《あと》の事|抔《など》心配せんと……」媼さんは悲しさが胸に一杯になつて来る様に思つた。「気をのんぴりと持つてゐさつしやれ、病は気一つぢやといふ程にな。」
 「気安めは言はん事ぢや。」爺さんは枯枝のやうな手を胸さきで揮《ふ》つた。
 「ところで、媼さんや、後《あと》に残つたお前の身体《からだ》ぢやがのう、一人暮しも辛からうから、俺《わし》に遠慮は要らん事ぢや、いゝ先があつたら片づいての、老先を気楽に暮らす工夫をせんならんぞ。」
 「滅相な、何言はつしやるだ。」媼さんは貞操のかたい蟋蟀《こほろぎ》のやうに悲しさうな声で泣いた。「今さら他《ほか》へ片づくなどと、そないな事したら、俺《わし》らあの世で二人御亭主を持つ事になりますだ。」(中略)
 「媼さんや、いゝ人があるわい。お前も知つてのあのジヨン・クレメンス爺さんの、あの人がいゝわい。あれは人間が親切な上に、神信心しないさうぢやから、お前が片づくのに誂《あつら》へ向きといふものぢやて。」
 「何故の。」娼さんはけげんさうな顔をした。「考へてみさつしやれ、俺《わし》とお前があの世での、一緒になつて居《を》らうと、不信心者のクレメンス爺さんが天国へは上《のほ》つて来《こ》まいからの。」
大正14.5.6(『完本茶話(下)』p867)黒人が白人に。
 「嘘はつきましねえ。そこの墓石《はかいし》の下で神様と悪魔とが、死人を分けてござるだよ。」(中略)
 「わしら先へ帰るだよ。」
初出未詳(『完本茶話(下)』p965)「ヴアン・ダイクが、ある時南の方へ旅行した」
 「旦那、穢いと言はつしやりますか。その筈だての、俺ら日がな一日すぱすぱやつてるのだからな。」(中略)
 「口が臭くたつて構はねえだ。」(中略)
 「何を言はつしやるだ。」婆さんはてんで相手にしないやうにせせら笑つた。「俺ら死ぬる時には呼吸を引取りますだでの。」
初出未詳(『完本茶話(下)』p991)
 黒ん坊の鬚剃り職人は、(中略)
 「旦那、ここんところが少し薄いやうだが、こんなになつたのはずゐぶん前からのことでがすか。」(中略)
 「雄弁家だつて。そんなこと知らねえでどうするものか。わしら誰よりもよくあの旦那が演説つかひだつてえことを知つてるだよ。」
宮原晃一郎訳、ハウプトマン「織匠」(『近代劇大系5』大正12.1.15)
千八百四十年オイレンゲビルグのカシュバッハ並にオイレンゲビルグの麓の……で行はれる。「ぢゃわし旦那に直かに話出来ましねえか」「居るだ」
秦豊吉訳、ハウプトマン「馭者ヘンシェル」(『近代劇大系5』大正12.1.15)
「ごぜえます」
小山内薫訳、ハウプトマン「ハンネレの昇天」(『近代劇大系5』大正12.1.15)
樵夫、「暖かくならねえだね」と言っているが、長官の前では、「であります」で話す。
三上 於菟吉訳『獣人』ゾラ(改造社 大正12.1.29 五版)
嫌疑者ガビュウシュ(「肌は白かった」)。「大きくなるに連れてわしはあの娘を思ひはじめましただ。……知れましねえが、……しまったでがす。……やるんだったに」(p150-157)
大関柊郎訳、セント・アーヴン「ヂョン・ファーギュソン」(『近代劇大系9』大正14.8.18)St. John Ervine(1883-1971) "John Ferguson"(1914)
舞台はアイルランドの「ダウン州に於ける或る百姓家の台所」。殆どの人が「あるだ」言葉を話す。大関柊郎は、明治20−昭和17。『茨城近代文学選集2』参照。
宝塚少女歌劇脚本集 昭和初期
ニューヨークに向かう田舎の夫婦が「あるだよ」言葉。
三上 於菟吉訳「白銀の失踪」コナン・ドイル(青空文庫カード)(『世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶』平凡社1930を新字新仮名にしたもの)
厩舎から一人の馬丁が飛び出して来た。
「ここは用のない者の来るところじゃねえだよ」
「いや、ちょっとものを伺いたいのだがね」
 ホームズは二本の指をチョッキのポケットへ入れていった。
「明日の朝五時に来たいと思うんだけれど、サイラス・ブラウンさんに会うにはちと早すぎるかね?」
「ようがしょうとも。来さえすれば会えますだ。旦那はいつでも朝は一番に起きるだから。だが、そういえば旦那が出て来ましたぜ。お前さまじかにきいてみなさるがいいだ。はあれ、とんでもねえ、お前さまからお金貰ったことが分れば、たちまちお払い箱だあ。後で――なんなら後でね」

てよだわ

紅葉山人「流行言葉」
ほか、山本正秀『近代文体形成資料』参照のこと。

時代性をあらわすサ行イ音便・バマ行ウ音便

芥川龍之介「奉教人の死」 「三田文学」1918(大正7)年9月(青空文庫カード
芥川龍之介「きりしとほろ上人伝」 「新小説」1919(大正8)年3、5月(青空文庫カード
直木三十五『源九郎義経』(改造社版全集)画像
「お嘆きなされまいたが」など、過剰なサ行イ音便。
宮野叢子「大蛇物語」(宝石、昭和二十五年四月)(『怪奇・伝奇 時代小説選集(5)』春陽文庫(志村有弘編2000.2.20)所収)
「まらいた」、「澄うで」、ラ行のウ音便等、過剰な音便あり。

その他

末松謙澄『谷間の姫百合』
「あの子は詞も変であれば挙動も不体裁であるし何う見ても紳士の夫人とは見えぬ」第二巻・第十一回などあるが、「私しの親の家サ英吉利の私しの家へ帰へるのサ」第十四回程度で、普段は「虎と申しまして御長家を拝借して居りまする捨蔵の娘で御座ります」のような話し方。
田山花袋「日蝕の日」大正15年
「おじゃる」という述語形式が平安時代の老人(『大鏡』の大宅世継も登場する)であることを示す役割語として使われている。電子テキスト
片上伸訳『ドン・キホーテ』昭和2.5.15 世界文学全集4 新潮社
「拙者のやうな武者修行者の義務でもござるぢゃ」(p19)
小栗虫太郎『人外魔境』第六話「畸獣楽園(デーザ・バリモー)」(第一節「野武士(シフタス)でござる」)昭和十五年
ところで、おそらく読者諸君は誤解されることと思うが、私はいま、この人物に武家言葉を使わしている。しかしそれは、エチオピアにおいては、けっして不自然ではない。大名あり、槍持、鉄砲、挟み箱をつらねて行列もするし、言葉も、アクセントの入れ方が普通人とはちがう。
横田順彌『とっぴトッピング』アルゴ文庫 1988
短編「留守番電話」。「どうみても正しくない公卿[くげ]ことばでいった。……侍ことばとおいらんことばをまぜこぜにしながら……今度は関西弁でいった。……おかまことばでいった。……」