先日、私は鹿児島に行って参りました。それは、鹿児島の日蓮宗のお寺様から「親父が建てた幼稚園の創立30周年を行うので、宗会議員として祝辞を言ってくれよ。」との要望によるものでした。御住職が私の友人でもありましたので、いそいそと前日に鹿児島入りをしました。まあ一杯やろうって思ってのことでしたが(笑)。会食をしながら、友人が突然、「親父はもう長くない。残念ながら病気が治癒しないんだよ…。」と言われ、誠に青天の霹靂でした。実は、そのお父様も私はよく存じ上げておりまして、かつて宗会議員もされ部長なども歴任された高僧でございます。とてもバランス感覚がよく、全てに長けた方です。驚きながらその日は別れ、次の日、本番に伺いました。席について暫くしますと、どよめきと共に車椅子に乗ってその方が姿を現しました。どよめきは集まっていた檀信徒の方々のものでしたが、いきなりその方がマイクを持つなり「私は今から生前葬をします!」とおっしゃられたのです。なんとモルヒネを打たれての登壇でしたが、実に溌剌とした態度で言われたので、私は絶句してしまいました。そして「私はもう長くないので、今日は皆さんと楽しく過ごして、あの世とやらへのお土産にします。沢山写真を撮って、お別れしましょう!」私は涙が頬をつたっている自分に気づきました。なんと素晴らしいことでしょう。皆さん!私達は必ず死にますね。死生観というものがあるでしょうが、僧侶として全うせんとするそのお方の姿は合掌する他ありません。また私の友人の気持ちを思うと何ともし難いものを感じます。今、「尊厳死」という大切な事柄が議論されていますが、かつて森鴎外さんの書いた『高瀬舟』という小説があります。ご存知の方も多かろうとお察ししますが、あのような想いをその場で再考した私は、今こそ日蓮宗の宗会議員として、その事に取り組まなければならないと感じております。かつて臨終正念カードというものを作ろうとした経緯が本宗にはございますが、是非私はこのようなものを作り、日蓮宗の信徒は、そのカードを出せば、チューブを外して頂ける…。ようにすべきであると考えますが皆さんは如何でしょうか?自分の意志で死を迎え、自分の判断でそれを選ぶ。そんな社会が実は正しいのではないでしょうか?それが寿量品です。まあ、そんなことを考えながら、今を生きています。今日は永遠様のご神体に触れられ、沢山の御利益を頂戴しました。どうぞ、ありがた信仰のみでなく、そのような社会と同居した信心をもつことをお願いし、私の御礼の言葉といたします。ご参詣誠にご苦労さまでした。 |