D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。
● 11. 1837年――リトルネロについて 1: pp.373~ ● 11. 1837年――リトルネロについて 2: pp.373~ ● 11. 1837年――リトルネロについて 3: pp.388~ ● 11. 1837年――リトルネロについて 4: pp.398~
今回のリトルネロ祭りは残念ながら不発に終わり,一つの章すぺてを読み終わることができませんでした。
分量が多かったせいもありますが,やはり『千のプラトー』のひとつの核を成すプラトーだけあって,かなり難解で,理解するのに時間がかかってしまったせいもあります。僕も前回は予習不足のまま会に臨んでしまい,うまく議論の交通整理ができませんでした。次回はじっくり読み込んでから会に臨みたいと思います。
その次回は「リトルネロについて」の中盤を読むことになります。ただ,前回,領土性など基本的な概念について共通理解が得られなかったので,次回の最初に簡単にこのプラトーの最初の部分を復習してから先に進めればと思います。 ――大久保
世話人の大久保です。「地球温暖化」という言葉が,たんなるお題目ではなく,リアルに迫ってきます。12月2日の読書会は無事に行われました。
ただ,ここのところ読んでいる「リトルネロについて」のプラトーは想像していた以上に難物で,前回も参加者から疑問が続出し,気が付けば予定時間をオーバーしていました。僕自身は,「領土性」や「コード」,「地層」「形式」「実質」といった鍵となる諸概念の関係が今回のプラトーでようやく明らかになってきた感じがするので,この難しさは歓迎したいところです。
今回のプラトーと合わせて「道徳の地質学」のプラトーを再読すると,この本の理論的な枠組みが少し見えてくるような気がします。ちなみに,「道徳の地質学」については,手前味噌ながら,こちらの僕のレジュメが参考になるかと思います。
次回でこのプラトーを読了できると思います。僕が読んだ感じでは,古典主義とロマン主義の区別など新たな問題が提起され,議論がさらに錯綜しますが,これまでのところよりは比較的分かりやすい範囲です。ちなみに,ドゥルーズは『意味の論理学』の第19セリー「ユーモアについて」でも古典主義とロマン主義について論じています。今回の範囲の議論と重なるところが多いので,興味のある方はご一読を。
――大久保
前回の範囲は,古典主義やロマン主義をドゥルーズ&ガタリなりの視点で取り上げたところだったので,議論も自然とそれに関するものとなりました。
僕の印象に残ったのは,イロニーとユーモアの区別に関しての議論です。僕自身,以前からこの区別が気になっていたのですが,参加した皆さんにとっても興味深いものだったようで,議論が盛り上がりました。
大田さんは超越論的自己と経験的自己の差異を強調し,秋山さんは正岡子規を参照なさいましたが,おそらくお二人とも柄谷行人のエッセイ,「ヒューモアとしての唯物論」を暗黙に前提されていたのではないかと思います(違っていたらすいません)。
僕は「イロニー=『なんちゃって』」理論(自分の言ったことに「なんちゃって」とつけることで,自己を相対化し,しかもそのような態度を暗に誇ること)なる思いつきの理論を提示しました。
会の後,ふと思ったのは,フロイトが例としてあげている死刑囚にしろ,正岡子規にしろ,ユーモアには必ず「死」が関連しているということです。単純にいえば,ユーモアとは「死」という経験的自己の有限性を受け入れる態度であり,イロニーとはその有限性を自己相対化によって,超越論的自己によって,無化しようとする試みではないでしょうか? ――大久保
僕も大久保さんに触発されて,イロニーとユーモアについて考えてみました。
前回僕がイロニーについて述べた時には,柄谷行人のイロニー論を前提としていました。しかし,念頭にあったのは,大久保さんの指摘される「ヒューモアとしての唯物論」ではなく,「村上春樹の風景―『1973年のピンボール』」です。
すでに読まれた方もいるかもしれませんが,イロニーと固有名という観点から村上春樹の小説が論じられています。傑出した文学評論だと思いますので未読の方はぜひ一読をお勧めします。
この論で柄谷は,「戯れの反対は真面目ではない,現実だ。」というフロイトの言葉を引きつつ,イロニーに対して現実を対置します。現実性とは,ある出来事がありその出来事は他でありえたかもしれないが,他ならぬこのものとしてしかないという被限定性のことです。村上春樹のようなイロニカーは,このような被限定性から逃亡し,現実性を無限の可能性の中にある任意の一つとみなすことで,経験的自己を軽蔑し,超越論的自己の優越性を保とうとします。これは自我に対する世界や歴史の他者性からの逃亡以外の何者でもありません。
これに対しユーモアは,経験的自己の被限定性を受け入れ,世界や歴史の決して内面化されえない他者性に直面する態度だと思います。(大久保さんがメールで書いていた「死」も経験的自己を限定する「他者」の一つでしょう。)ユーモアは経験的自己の非限定性と世界の他者性とをただ深刻に受け入れるのではなく,笑いとともに肯定する態度だと考えられるでしょう。(ニーチェの永劫回帰もこの態度に近いのではないでしょうか。)――大田
久しぶりの登場でたいへん恐縮ですが,DG読書会で希少な「英米系」だったので,ちょっと横槍を入れてみます。
日本語の「アイロニー」と「ユーモア」はなんとなく類義語な感じがしますが,英語のironyとhumourのあいだにどの程度のassociationがあるか,微妙なところです。
・・・と思って,さっき英文学をやっているカナダ人にきいてみたところ,「ironyとhumourを比べるのは,ニンジンとロケットを比べるとか,鮭と猿を比べるみたいなもの。要するに違いすぎて比較対象にならない。humourとcomedyを比べるとか,humourとwitを比べるなら解るけどね。」とのこと。
そんなことはないだろうと思って,もう一人歴史学をやってるイギリス人をつかまえたところ,「うーん,比較対象にはまぁなるんじゃない?」とのこと。
いずれにせよ,二つの言葉のassociationは,我々が思うほどには強くないようです。
私自身の関心はironyにあり,humourにはあまりありません。というか,ローティがContingency, Irony, and Solidarityでironyを取り上げて以来,私のような社会諸科学内・政治学内・政治哲学専攻の業界の人間にも,ironyという概念がが多少重要な概念になりました。
ローティによると,ironistとは「彼あるいは彼女自身のもっとも中心的な信条や欲望の偶発性を受け入れる類の人」です。
ここで興味深いと思われるのは,このローティの定義は大田さんが柄谷を参照しながら展開なさったイロニーの概念とと真っ向対立するという点です。というのは,ローティのironistは「現実性を無限の可能性の中にある任意の一つとみなすことで,経験的自己を軽蔑し,超越論的自己の優越性を保とうと」するのではなく,むしろ現実性が無限の可能性の中にある任意の一つであるにもかかわらずそうであるという現実をあえて肯定し,翻って,経験的自己及びその自己が所属する共同体の歴史性を肯定するからです。
私は柄谷氏の著作を全然知らないし,アクセスもないのでここでうち止めです。が,もう少しちゃんと比較考察をしてみると何か面白い点が出てくるかもしれませんね。
と,DG読書会にローティを投げ込んでみる。「英米系」ですので(笑)。(←これはironyではない。)――ひるた
蛭田さんは、ローティーによるアイロニー論を紹介してくださいました。政治学の分野でもIronyが重要な概念となっているとは知りませんでした。僕はまだローティーをちゃんと読んだことがないので、これを機会にぜひ読んでみたいと思います。
僕は柄谷を援用しつつイロニーについて述べましたが、その時僕の念頭にあったのはドイツ・ロマン派のロマンティッシェ・イロニー(romantische Ironie)です。ローティーのいうアイロニーとは性質を異にしたものなのかもしれません。
ローティのアイロニーとドイツ・ロマン派のロマンティッシェ・イロニーとを比較対照してみると面白い論考が書けるかもしれませんね。――大田
東京は,少し暖かい日も出てきましたね。春が近づいているのでしょうか。まずは,蛭田さん,ユーモアとイロニー話への生産的な介入,ありがとうございました。蛭田さんに触発されて,僕もユーモアとイロニーについて長いメールをしたためようとしたのですが,いろいろと忙しく,挫折しました。短くいくつかコメントしておけば,
以上です。全然短くありませんね。すいません。
イロニー・ユーモア話が長引いたので,前回の会の報告は省略します。ただ,新たに参加された方がいらっしゃいますのでご紹介しておきます。山内さんです。ネットを見て参加して下さいました。哲学に興味をお持ちとのことです。前回もハイデガーに関してコメントを寄せて下さいました。久々に若手の登場ですね。
さて,次回からは,大田さんの提案を受け,二回ほど,デリダを読みます。ご面倒ですが,皆さんには『コーラ』を購入してもらわなければなりません。『コーラ』を読むにあたって必要と思われる資料は次回までにできるだけ用意したいと思います。
――大久保
私見ですが,ドゥルーズの『無人島』所収の「ドラマ化の方法」と「構造主義とは何か」のふたつのテクストで提示されている「第三項」つまり,潜在的なものと現働的なもの両者の紐帯である動力因に相当する「個体化の場」,「空白の升目」が位相的に「コーラ」と近いのではと思っています(厳密には違うのでしょうが)。
さらに個人的には,この動力因と深い関係にあるのが(反復としての)時間だと考えています。潜在的なもの,現働的なもののいずれかにアクセントを打つのではなく,両者を巻き込みながら展開する強度的・反復的時間にこそアクセントがあり,前回までのリトゥルネロもそうしたテーマで論じられているのではないかと思います。
なお,建築家のアイゼンマンがコーラを「不在」と解釈したのに対して,デリダがそれを否定したことと,ドゥルーズ=ガタリが精神分析における「欠如」に異論を呈したこととをパラレルに感じました。
議論を楽しみにしています。 ――真鍋
真鍋さんが挙げられている「ドラマ化の方法」と「構造主義とは何か」(『無人島』所収)は,ドゥルーズを理解する上で非常に重要なテクストだと思います。どちらもコンパクトにまとまった論文ですが,内容は非常に濃いです。
特に「ドラマ化の方法」は『差異と反復』早分かりみたいな論文(というか学会発表)なので,お薦めです。「空白の升目」と潜在的なもの・現働的なものとの関係については,若干真鍋さんとは解釈が異なるかもしれませんが,詳しい話はまた読書会で。それでは,読書会でお会いしましょう。 ――大久保
© D&G研究会 2003-2007. all rights reserved.