国際社会に対する指針を示す平和憲法 Page.1

2006.02.19

*2005年12月に金沢の集会でお話ししたものを、主催者がテープ起こしをしてくださいました。レジュメに基づいてお話ししたので、レジュメがないと分かりにくいところも多々あるし、時間に追われて十分にお話しできなかったのですが、最小限の手直しをしてみたものが以下の文章です。日本国憲法のすばらしさについての私の考えが少しでも皆さんに伝わるかも知れないと思い、掲載します(2006年2月19日記)。

1.はじめに

皆さんこんばんは。浅井でございます。

きょうお話しするのは「国際社会に対する指針を示す平和憲法」ということですが、これは憲法を国際的に位置づける視点から見るということであります。憲法に関する論じ方につきましては、そのほかにたとえば歴史的に平和憲法をどのように位置づけるかという視点もあります。

そしてこの歴史的な位置づけという点から平和憲法を見る場合には二つのポイントがあると思います。一つは日本がアジア各地で行った侵略戦争に対する反省に立って、二度とこのような侵略戦争を繰り返さないことを誓ったもの、そういう意味で日本国憲法をとらえる、特に第九条を位置づけるという見方であります。私もその見方を支持しております。それからもう一つは、この点は私が広島に移りましてから問題意識を深めようとしているところでありますけれども、広島、長崎に対しての原爆投下という、人類を滅亡させかねない核兵器による惨禍を味わった日本が、もう二度と戦争はあってはならないという決意を込めてこの第九条をつくったという理解であります。この点については後ほどもう少し触れることもあると思いますが、核兵器と憲法を結びつける視点というのは、戦後まもなくの時期はともかくとして、近年におきましてはあまり重視されてこなかった点として、私はこれから強調していく必要があると考えております。

以上のように平和憲法についての歴史的な位置づけを簡単にお話しした上で、「国際社会に対する指針を示す平和憲法」という視点でお話をしたいと思います。私が申し上げたいポイントは大きくいって二つあります。一つは国際民主主義実現への道しるべとしての平和憲法という視点であります。それからもう一つは、アメリカの「力による」平和観にたった世界戦略に対して「力によらない」平和観に立つ平和憲法が非常に有力な対抗軸となるという視点であります。その二つの問題をお話ししたいと思います。

2.国際民主主義実現への道しるべとしての平和憲法

(1)平和な国際秩序を考える場合の視点

まず「国際民主主義実現への道しるべとしての平和憲法」ということであります。私が常々考えていることは、国家、たとえば日本という国家の中では人権・民主主義を実現することは今や当たり前という時代になっています。しかし、国際社会においても人権・民主主義を実現することが当たり前になっているでしょうか。私自身は、単に国内だけではなくて、国際的なレベルでも人権・民主主義を実現することが求められる時代になっているのではないかという問題意識を常々持っております。

(イ)国際民主主義の二つの含意

ところで、国際民主主義とはどういうことを意味するのかと申しますと、二つの意味があります。一つは国家と国家の関係を民主化するという意味であります。それからもう一つは国内では実現している人権・民主主義を国際的に受け入れられるものにするという意味です。普遍化という表現を使って、人権・民主主義の国際的普遍化ということもできます。

まず国家関係の民主化ということについては、実は国連憲章においてすでに規定されております。その中身は、独立した国家である限りその国家の主権を尊重しなければならないということが第一番目の原則であります(第1条2)。それから、国家はお互いに強いか弱いか、大きいか小さいか、豊かであるか貧しいかにかかわらず、お互いの関係において対等平等であるということが二番目の原則であります(第2条1)。そしてそのようにお互いに独立、対等平等の国家でありますから、お互いに相手の内政に干渉してはならないという内政不干渉の原則が三番目であります(第2条7)。そして四番目には、国家間で問題・紛争は起きますが、その問題・紛争を平和的に解決しなければいけない、武力に訴えてはならないということであります(第2条3)。そういうことが国連憲章において具体的に規定されております。これらの原則を守ることによって、国際関係の民主化は実現することになります。

次に国際民主主義のもう一つの要素である人権・民主主義を国際的にいかに普遍的なものにするか、いかに国際レベルにおいて人権・民主主義を当たり前のものとして受け入れるようにするかという問題ですが、この点について詳しく述べる余裕はないので結論だけ申しますと、国際人道法という国際法の著しい発展によって、国内レベルだけでなく国際レベルでも人権・民主主義が認められるべきだという考え方が徐々に受け入れられるようになってきております。一つだけ例を挙げておきますと、欧州では、個人が直接欧州人権裁判所に人権侵害について訴え、裁判所がその訴えを認めますと、その個人が属する国家はその判決を受け入れなくてはなりません。欧州では、人権が国家の枠組みを超えて認められるということが現実になっているということです。

(ロ)人権・民主主義の国際的普遍化に向けて

この国際民主主義の二つの意味、すなわち国家関係を民主化するということと、人権・民主主義を国際的に普遍化するということは、時に両立しない場合、お互いに矛盾する場合が出てくることがあります。すなわち人権・民主主義の国際的普遍化における国家の位置づけという問題であります。これはどういうことかといいますと、具体的に申し上げれば分かりやすいと思います。たとえば一つの国が独裁国家であって、その独裁国家の中で人権・民主主義が弾圧されているという場合に、国際的にその国の人権・民主主義の問題に対してどのように向かい合うのかという問題が出てきます。この場合に国家関係の民主化という面を強調して、互いに相手の国の内政には干渉してはいけないという原則に従うとすると、独裁国家における人権・民主主義の抑圧に対して何も口出ししてはいけないということになります。しかし人権・民主主義は普遍的な価値であって、すべての個人は国籍いかんにかかわりなく、その普遍的価値のもとにあると考えますと、独裁国家が人権・民主主義を弾圧することは許されないということになります。したがってその国家に対して干渉してでも人権・民主主義の実現をはかるべきだという問題が起きてまいります。こういう問題は今、しきりに世界各地で起こっております。

たとえばミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんのケースがそういうことになります。この場合に私自身は二つの考え方を持っております。一つは人権・民主主義の普遍的な価値ということは承認するのですが、それを各国家において実現する過程においては、その国の歴史、文化、経済発展段階、そういうものを考えた上で対応する必要があるのではないかということです。日本においても人権・民主主義が普遍的に実現したのは日本国憲法ができた1947年以降のことです。あるいはアメリカにおきましても、人権・民主主義が広く認められるようになったのは、いわゆるマイノリティを含めて人権・民主主義が本当に認められるようになった1960年代の公民権運動の成功以後のことです。そういうことを考えますと、人権・民主主義は普遍的な価値だから、その国家の歴史、文化、経済的発展段階などを無視して即時無条件に実現せよということには無理がある。先進国自体もそういう歴史を経てきたということを考えれば、途上国に対してその置かれた状況を無視していきなり国際民主主義の二番目の内容である人権・民主主義をとにかく実現しろといっても無理であるということは、私たちは心に留めておかなければならないと思います。

また、人権と一括りにしがちですが、その中身は実に多義的であるという要素も考慮に入れる必要があります。生活水準が一般的に向上している先進国では、政治的市民的権利を保障することが当たり前ですが、途上国におきましては、人間が生きることを補償することが大問題である場合が少なくありません。生存権は政治的市民的権利に先立って保障されなければならないという主張を無視するわけにはいきません。俗的な表現でいえば、「衣食足りて礼節を知る」のか、「武士は食わねど高楊枝」なのか、という問題は簡単に答えが出せる問題ではありません。

そういう意味において私たちは、人権・民主主義のためには内政干渉はいいのだと簡単に結論づけるということには慎重でなければならないということを申し上げたいと思います。たとえば中国におけるいわゆる人権問題ということを考えるときにも、私たちがこういう幅を持った考え方をするということが求められているということで、具体的にお分かりいただけるのでないかと考えます。

しかし他方で、極端な人権弾圧、民主主義に対する抑圧があった場合に、私たちは人間として黙っていられるかという問題があります。特に先ほども述べましたミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんのようなケースについては、国際社会が黙認していると、これはやはり人権・民主主義の普遍的価値が大きく傷つけられるということになりかねません。ですからこういう場合にどのように対応することが求められるのか、国際社会としていかにミャンマーに対して人権・民主主義を実現するように働きかけていくのかという問題も考えなくてはならないと思います。

私はこの問題、つまり国家関係の民主化と人権・民主主義の国際的な普遍化という間には、今申し上げたような点において矛盾が起こる場合があること、そしてその矛盾が起こった場合に、それを簡単に解決する原理・原則はまだ国際的に見つかっていないということを率直に認めて、それに対してどのように対応するかはケース・バイ・ケースで考えていくしかないのではないかと考えております。

しかし話を元に戻しますと、私たちは21世紀において、国際民主主義を実現していくという方向に向かって進むべきであるという原則を確認しておきたいと思います。実は国家関係の民主化についても、あるいは人権・民主主義の国際的普遍化ということについても、すでに1945年に国連憲章は具体的な規定を置いたわけです。私は格別目新しいことを主張しているわけではありません。

しかし実際には、その後の米ソ冷戦によって、そういう国連憲章の定めた諸原則を実現することが阻まれてきたという現実があります。しかし私たちが今、しっかり認識しなければいけないのは、米ソ冷戦は終わり、今や国連憲章に定められている国際民主主義を実現する絶好なチャンスに恵まれているということを時代認識、基本的認識として持たなければならないということであると考えます。

(ハ)国際民主主義実現への障害

ところが国際社会の現実はと申しますと、そのようには今なっていません。どうしてかといいますと、二つの原因があると思います。一つは新自由主義の問題であります。それからもう一つはアメリカの問題があります。

まず新自由主義の問題を申し上げたいと思います。新自由主義という言葉についてはいろいろな見方がありますけれども、ごく簡単にいってしまえば「市場原理によって全てを律することを目指す主義」とまとめてよろしいかと思います。つまり利潤を最優先する考え方です。このような考え方は、人権・民主主義をもっとも重視する国際民主主義とは根本的に相容れないものであります。

現に私たちは日本国内において最近、障害者自立支援法とか医療改革とか郵政民営化とか、そういうことが「改革」の名の下に行われるのを見ています。これらの動きはすべて新自由主義、市場原理によって社会保障・医療の問題、郵政の問題を考えるということで小泉政権が強行していることでありますが、それらの法律、あるいはいわゆる改革によって、経済的社会的弱者が非常に苦しい立場に追い込まれ、人権・民主主義が突き崩されています。これは日本だけのことではありません。世界的規模で新自由主義が自己主張し、市場原理によって人間の尊厳が脅かされる事態となっています。したがって、国際民主主義を実現することを21世紀の課題として考える私たちにとっては、新自由主義を根本的に克服するという課題があります。

しかし現実には新自由主義の考え方、あるいは新自由主義を政策的に追求するグローバリゼーションについては、日本国内ではもう新自由主義は時代の流れだとか、グローバリゼーションはもう歴史的に抗しがたいというあきらめの気持ちが先に立つ人が非常に多いという、非常に深刻な事態があると思います。

私にいわせれば、新自由主義は一つの学説、主張にすぎないのであり、特にアメリカが地球全部を自分の市場にしてしまいたいということで追求している、非常に不公平をもたらす、人権・民主主義に反する動きだと思います。したがって先ほど申しましたように、国際民主主義を重視する私たちとしては、新自由主義、そしてグローバリゼーションを克服するという課題を、もっと真剣に考えなければならないのでないかということを強調したいと思います。新自由主義を克服しないことには、国際民主主義を実現する基礎条件ができないということを申し上げておきたいと思います。

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