国連憲章と先制攻撃・「人道的介入」−アナン事務総長諮問委員会の報告書を読んで−

2005.02.28

*以下の文章は、2005年1月19日に、大阪の集会でお話ししたものの主要部分です。このコラムですでに、「国連憲章と国際的な武力行使に関する考察」と題して載せたレジュメをもとにしてお話ししたのが、以下のような結果になりました。時間的にきわめて制約があったので、実際にお話ししたものはきわめて舌足らずの内容だったのですが、主催者がテープ起こしをされ、私に校閲の機会を与えてくださいましたので、お話しした内容に即して必要最小限の加筆訂正を加えることができました。

この集会で私に与えられた演題は、「憲法9条改正問題と国際法・国際連合」でしたが、憲法問題にはほとんど立ち入る時間がなく、お話の内容は、表題にしたように、アナン国連事務総長の諮問委員会の報告書を軸に据えて、国連憲章と先制攻撃・「人道的介入」の関わりについて考察するものになっています。すでにレジュメについてはこのコラムで紹介しているのに、改めてこの文章を紹介するのは、レジュメの内容のある部分について話し言葉で表現することによって、私の言いたいことが読んでくださる皆さんにも、より伝わりやすくなっているのではないか、と勝手に判断したからです。私がお話しした後、若干の質疑応答があり、そこでも重要な問題提起があり、私がお答えした内容についても、皆さんにご紹介してあります(2005年2月28日記)。

国連のアナン事務総長によってつくられましたハイレベル諮問委員会がございまして、去年の12月に「国連改革に関する報告書」をアナン事務総長に提出しました。この報告書におきましては、国連改革、安保理改革にも触れておりまして、日本の安保理常任理事国入りという問題とかかわるものですから、日本国内ではそこだけが大きく取り上げられて報道されました。ですから、そういう報告書としては、皆さんも新聞などをお読みになって御記憶があるかと思いますけれども、実はこの報告書においては、安保理改革はほんの一部でありまして、いかにして国連の武力行使の機能を強化するかという問題に重点を置いて報告書を書いている、そういう性格のものであります。

もう一つ付け加えれば、この諮問委員会の中に日本の緒方貞子さんも入っていることです。緒方貞子さんというと、あたかも平和の使者であるかのように日本国内では受けとめられていて、彼女に任せておけば物事は安心だと、国連難民高等弁務官もやられたということもあって彼女は非常に人権派だ、というふうに理解されている面もあると思います。その彼女が加わったこの諮問委員会の報告が、これから簡単に概略を御説明するように非常に重大な内容を持っていることについて、私は非常に大きな懸念を持っています。つまり、緒方さんが加わっている諮問委員会の報告だから、中身もいいものに違いないという潜入観念を持ってしまう人が多いのではないか、ということです。

この報告書について考える際にもう一つ考慮に入れなければいけないのは、日本国内におけるいわゆる憲法改正問題です。自民党内部の事情で一応はボツになった形にはなっている2004年12月に出された自民党の改憲草案大綱を見ても、あるいは民主党が同じ年の6月に出した中間報告を見ましても、9条改憲に関しては、国連を中心とする国際的な武力行使に加わることはいいことであるという立場から、その改憲を正当化しようとする動きがあります。ですから、このような諮問委員会の報告で、国連がかかわる武力行使の可能性を強めていこうという方向で国際社会が国連改革に取り組む動きを強めてまいりますと、それは客観的に、日本国内における主要な改憲勢力である自民党、民主党を勢いづかせることになる。そして、国民的なレベルで言いましても、国連のアナン事務総長の諮問委員会が国連の武力行使を容認し、さらに積極的に強化しようとする方向で動いているということであるならば、日本人の多くの間にいまだに強く残っている「国連信仰」といいますか、「国連は正義の味方」といいますか、そういう素朴な受けとめ方からしますと、「国連がおやりになるならしょうがないじゃないか」ということになりかねない。それに便乗する自民党や民主党の国際貢献を強調した改憲提案、9条改憲にも抵抗力が弱まってしまう。そういう流れを生むのではないかということを、私は非常に懸念しているものです。ですから、そういう視点からお話を進めてまいりたいと思います。

もう一つ付け加えておきますと、自民党の改憲草案大綱が民主党の中間報告と趣が異なるのは、9条改憲というときに、国連を中心とした国際的な武力行使に積極的に参加するという動機とともに、あるいはそれ以上にもっと本質的に、たとえ国連がかかわらなくても、アメリカがやる先制攻撃戦略に基づく戦争に対しては積極的に参加できるようにしたいという思惑も強く働いていることです。

自民党の9条改憲の主張と民主党の9条改憲の主張との間には、今のところはまだ溝があります。その溝はどこにあるかといえば、アメリカのやる安保理決議なしの先制攻撃の戦争に対して日本としてどうかかわるかという問題について、自民党としては、安保理決議の有無にかかわらず戦争できるように9条改憲を実現することを目指しているのに対して、民主党は、先にふれた中間報告の段階では、国連の安保理決議がない戦争については参加しないというラインをまだ崩していないところにあります。

ただ、これは私の推察でありますけれども、自民党の改憲草案大綱に自衛隊の制服組がかかわっていたということが暴露されて、この案はいったんポシャった形になりましたが、その後すぐに小泉首相が、民主党も巻き込んだ形での改憲への取り組みをやると公言するに至ったことも考えれば、恐らく私は対米軍事協力、もっと正確に言えば、国連安保理の決議がないときにもアメリカとの軍事協力、アメリカと一緒に戦争するかどうか、この問題について、いずれ民主党が自民党にすり寄る形で意見の集約が図られるであろうと思っています。なぜそう思うかと申しますと、民主党の岡田代表にしても小沢一郎氏にしても、主立った面々がアメリカの対日要求の所在、すなわち安保理決議の有無にかかわらず、日本はアメリカと一緒に行動せよと強く要求しているメッセージを知らないはずはなく、また彼らがそのアメリカの要求をあくまで拒否する、ということは到底考えられないからです。いずれこの問題については、自民党の考える方向で民主党内部でも意見集約が図られていくだろうと思われることをあらかじめ指摘しておきたいと思います。

以上、国連、国際法と憲法9条のかかわり合いについての私の基本的な認識・判断を理解していただいた上で、私に与えられた演題に即して、時間の制限の中で、ごく簡単にポイントだけを御指摘申し上げます。

まず、最初に今日の国際法における戦争(武力行使)の位置付けという点につきましては、今日の国際社会で許容される武力行使のケースを確認しておけば、三つの場合しかないといえると思います。一つは、「個別的・集団的自衛権を行使するケース」で、これは国連憲章の第51条で認められているものであります。もう一つが「集団的措置として認められるケース」です。これについては国連憲章第7章に詳しい規定がありますが、国連が主体となって行う、あるいは国連安保理が容認決議を行うことによって可能となる軍事行動ということになります。三つ目は、国連憲章には根拠となる規定がないわけでありますが、1956年の第2次中東戦争に際して、当時のハマーショルド事務総長が苦心してつくり出したいわゆるPKO活動であります。私は、仮に「伝統的平和維持活動」といっております。これは非軍事的措置を定めた国連憲章第6章と軍事的措置を定めた国連憲章第7章との中間帯あるいは灰色の部分に当たるということで、一般に「第6章半の行動」と言われているものであります。PKO活動については、武力行使が目的ではないことをハッキリ謳っていますので、武力行使のケースとして類分けすることには異論もあります。ここでは、PKOが自衛のためには武力を行使することが認められるという点に着目して、第三のケースとして含めてみた、ということをお断りしておきます。いずれにせよ、以上の三つのケース以外の武力行使は、国際的に違法とされているということをまず踏まえておくことが必要であります。

ところが、米ソ冷戦終結後、国連(安保理)がかかわる武力行使につきましては、以上の三つのケースに当てはまらないケースが出てきたということが大きな問題であります。結論から先に申しますと、アナン事務総長に対する諮問委員会の報告は、1990年代以降の国連安保理のかかわってきたいろいろな軍事行動をすべて無条件で肯定し、そしてそれをさらにより強固なものにしていくこと、つまり国連安保理がもっと積極的に国際的な武力行使に役割を発揮することを勧告する内容になっていることが大きな特徴であります。

しかし私は、1990年代以後の国連(安保理)が関わってきた国際的な武力行使のケースの多くが、国際法、国連憲章とのかかわりで大きな問題を持っていることをむしろ指摘したいのであります。さらにいえば、果たして国連安保理による武力行使を積極的に容認する諮問委員会の報告の基本的立場そのものが正しいのかどうかについては、非常に疑問があるといわざるを得ないのです。その点について私たちがしっかりとした判断力を備えることができれば、自民党あるいは民主党が今後我々国民に押しつけてくるであろう、「国連も国際的な武力行使に対して積極的な立場をとっているから、それに積極的にかかわっていくことが大国日本の務めだ」という類の議論に対して、私たちが対抗していく上での足腰を鍛えることにつながっていくのではないかということを申し上げたいのであります。

国連安保理が関わった国際的な武力行使の最初のケースは、湾岸危機・戦争に際しての安保理決議678です。湾岸戦争のときに、アメリカは多国籍軍を組織して戦争をやったわけですが、当時アメリカは、この多国籍軍の行動の国際法上の根拠を集団的自衛権の行使とする立場を明確にしました。安保理決議678は、そういうものとしてのアメリカ以下の行動を容認したということです。そこで問題になるのは、集団的措置と集団的自衛権とは両立し得るのかという問題です。集団的措置と集団的自衛権とは、国際法上全く異なるカテゴリーに属するものですから、両者の関係をどのように観念するかについて徹底した議論がなければいけなかったはずなのですけれども、その議論が全く行われないまま、集団的自衛権の行使としての武力行使を第7章の措置、すなわち集団的措置、として合法化したというところに、安保理決議678の重大な問題があります。

憲章第51条では、「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和と安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定しています。この規定に明らかなとおり、個別的・集団的自衛権の行使が許されるのは、集団的措置が執られるまでの間のあくまでも過渡的、臨時的な措置として位置付けられているわけです。国連安保理が手段的措置を執る段階になったら、自衛権の行使はやめなければいけない、というのが第51条の趣旨なのです。ところが決議678においては、アメリカが強行しようとした集団的自衛権の行使としての多国籍軍の武力行使を、安保理が集団的措置を執るまでの過渡的、臨時的措置と位置づけないで、集団的措置そのものとして位置付けてしまったとところに、その後の多国籍軍方式の乱用に道を開く、非常に大きな誤りがあったのであります。

しかし、アナン事務総長に対する諮問委員会の報告書は、ある国家が他国または国際秩序に対して脅威を構成する場合に関する「第7章の文言は本質的に十分に広義であり、かつ、十分に広義に解釈されてきている(下線は浅井)」と、集団的措置と集団的自衛権の区別をことさらに曖昧にしてきた安保理のこれまでの行動を無条件で肯定する立場を打ち出しました。そして、「安保理が、『国際の平和と安全を維持し又は回復するために必要である』と見なすときには、(国際の平和と安全を脅かす)国家に対して軍事的行動を含めたいかなる強制的措置を認めることを許してきた」といい、しかもさらに重大なことには、「そのことは、脅威が現実に、切迫した未来に、あるいはより遠い将来において起こる場合において然りである」とまで書いています。つまり、ここまで来ると、安保理は、アメリカの先制予防戦争すら認める立場に近づいてしまっているのです。

安保理決議の法的拘束力という点についても、専門家の間でもあまり突っ込んだ議論が行われていないのですけれども、私としては大きな問題があると感じています。それは、安保理決議が非常に政治的になされるものであるという点に関わります。安保理決議は優れて政治的な行為であって、それが憲章第25条によって法的拘束力を持つとされているところに、非常に大きな問題があると私は見ています。

現に湾岸戦争に合法性を付与した1990年の安保理決議678成立のときには、中国が拒否権を行使すれば決議は成立しない可能性があったのです。その中国では前年の1989年に天安門事件があって、国際的に孤立していて、その孤立から脱却することにきゅうきゅうとしていました。そこに目をつけたアメリカが、この決議の成立に反対しなければ中国に対する制裁を緩めてやると、中国に話を持ちかけたために、中国が棄権に回ったという経緯があります。

これはほんの一例ですが、大国間の取引でどうにでも左右される安保理決議の法的拘束力については、憲章の規定がそうなっているから仕方がないというだけで片づけていいのかということを、私たちはもう一度原点に立ち戻って考え直す必要があるのではないでしょうか。つまり、安保理の機能のあり方ということについて、もっと根本的に考える必要があるということです。もっと率直に言いますと、私は、政治的な行動をとる安保理が法的拘束力を持つ決定を行うことができるという国連憲章の規定そのものに大きな問題があるのではないか、と見ているということを申し上げておきたいと思います。

次に、アナン事務総長の前任者だったブトロス・ガリが1992年に「平和への課題」という文書を出して、そこで国連主体による武力行使に積極的な政策構想を打ち出したという問題について考えます。ガリがそのように動いた背景には、米ソ冷戦が終わって安保理が機能しやすくなったということがあって、それに乗じて野心家のガリ事務総長が国連の軍事的役割をさらに強めようとした事情がありました。

「平和への課題」にはいろいろなことが書いてありますが、一つは、「予防外交」の一環としての「予防展開」という形の武力行使の問題があります。それから、「平和創造」の一環としての「平和強制」という武力行使の位置付け、そういう二つの新しい形の国連主体の国際的な武力行使のあり方を提案したのです。

「予防展開」の実際の例としては、マケドニアに展開されたものが唯一のケースです。問題は、「ある国が脅威を感じて、その国境沿いに国連のプレゼンスを要求する場合」に、安保理がその要求に応じて部隊を派遣できるようにするというガリの提案にあります。その際の部隊派遣は、従来のPKOの場合と同じ要領に従って派遣されることになっています。

PKOの3原則について確認しておきたいと思いますけれども、従来のPKO活動においては、紛争当事者が停戦に合意する、そしてそれら当事者がPKOの派遣の受け入れに同意する、そして実際に派遣されたPKOは、関係ある当事者に対して中立を守らなければいけない、という3条件が満たされた場合のみPKOが派遣できるということになっています。

しかし、この「予防展開」の場合には、1国が他国からの脅威を感じれば、その1国の要請に基づいて安保理が「予防展開」としての軍隊を派遣できるということになっているわけです。現にマケドニアでそうなったのです。これまでのところ、マケドニアの隣国が公然と異議を唱えていないし、マケドニアと隣国との間で戦争が起こっていないから問題は顕在化していませんが、本質的な問題として考えなければいけないことは、マケドニアと対立する例えば旧ユーゴとかアルバニアがその国連の「予防展開」部隊の存在を認めない立場を明らかにし、さらにはマケドニアに対して武力行使に訴えた場合にはどうなるのかということです。「予防展開」部隊は、マケドニアの側にたって旧ユーゴやアルバニアと公選する立場になりますから、PKO 3原則をもろに崩してしまう結果になります。ところが、諮問委員会の報告書では、「予防展開」は明確に成功であったと無条件に肯定的に評価して、これからも積極的に活用することを奨励するというように言っています。ここでもPKOと予防展開との間に存在する根本的矛盾という問題が全然考えられていません。

それがなぜ問題かといえば、ガリの報告では、「予防展開」はあくまでPKO の一環として位置付けているからです。しかし、PKOという位置付けに本質的に当てはまらない「予防展開」という武力行使のタイプを認めるということは、先ほど申し上げた、今日の国際法で認められている国際的な武力行使の3タイプに、新たにもう一つのタイプを加えるというきわめて重大な問題であって、もっと緻密な議論、法的な議論を尽くした上でないとやってはならないはずのものであったと言わなければなりません。それなのに、既成事実だけがどんどん先行してしまうという形で物事が進められてしまうというところが、米ソ冷戦後の国際社会の危うさを象徴していると思います。

「平和強制」につきましては、「予防展開」以上に重大な問題があります。「平和強制」の前提となる「平和創造(Peace Building)」という言葉もガリがつくり出したものですが、そのPeace Buildingというのは、いわゆる非軍事的措置、国連憲章で言えば第6章とのかかわりで位置づけるべきものと、ガリ自身が説明しています。ところがガリは、その中で唐突に、非軍事的措置ではどうにもならないときには軍事的措置を考える必要がでてくると言い出して、国連憲章とのかかわりで言えば第7章に当たる行動である「平和強制」という武力行使の新たなタイプを持ち込もうとしたのです。しかもその「平和強制」の部隊を組織するに当たっては、従来のPKOを組織する際のこれまでのやり方をつまみ食いする形で利用しようとしているのです。

PKOすなわち「平和維持」と「平和強制」の違いは何かといえば、「平和維持」というのは停戦の実現・維持を主眼とする武力展開であるわけですけれども、「平和強制」の場合は、PKO3原則における紛争当事者の停戦合意も、部隊の受け入れに関する同意も必要ないとしており、要するに、国連安保理が派遣すると決めたら派遣するし、それに抵抗する紛争当事者に対しては武力を使ってでも平定する(この点で、紛争当事者に対して中立の立場に立つというPKO原則の第三の内容を無視しています)という発想です。

この「平和強制」という提案についても、その妥当性や法的問題点について何ら議論もなされないまま、実際にソマリアで「人道的介入」という名目のもとで実施に移されましたが、見事に失敗しました。その結果、国連の関連のホーム・ページを見ていただくと、「平和創造には、敵対行為の終結を一方の当事者に強制するために武力を行使する、平和強制と称せられる行為を含まない」と書いておりまして、ガリ提案の「平和強制」はボツになったことが分かります。

しかし、「人道的介入」という名目の武力行使が果たして適切だったのかという点についてはもちろん、なぜ「平和強制」についてのガリの提案をボツにしたのかという肝心の点に関しても、国連自体における反省も自己批判も全くなされていません。要するに、場当たり的に提案されたアイデアを、やってみたらうまくいかなかったので、これまた場当たり的に引っ込めた、としか理解できないのです。国際的な武力行使という本当に国際の平和と安全に直結する問題について、このような場当たり的対応に終始する国連安保理及び国連事務局の姿勢には、本当に危ういものを感じなければならない、と実感します。

ところが、アナン事務総長に対する諮問委員会の報告には、そういう反省と自戒の気持ちを全く窺うことができません。むしろ報告は、「人道的介入」という大義名分を振りかざして、大虐殺(ジェノサイド)などが起こった場合に国際的な部隊を派遣して介入することについて、いろいろ積極的に提言しています。

「人道的介入」といえば、とても言葉の響きもよく、一見反対のしようがないかのように受け止められる雰囲気があります。しかし、確認しておかなければならないのは、21世紀の国際社会にとっての中心的課題の一つは、国家の上に立つ立法・司法・行政を司る機関が存在しない、いわば「無政府的な社会」(この言葉は、ヘッドリー・ブルという国際政治学者が最初に使いました)である国際社会が危機に瀕した場合あるいは秩序が破られた場合、一方で国際人道法の発展によってますます人間の尊厳を擁護することが求められている国際社会は、ジェノサイドのような大規模な人権侵害に直面したときに、どのように対処することが求められるかという問題であります。この点につきましては、国際的に広いコンセンサスがあると思います。そして対処の方法として、諮問委員会の報告書は、「人道的介入」としての武力行使を積極的に推進する考え方を強く打ち出しました。

私は、その諮問委員会の提言の多くに非常に多くの問題があるのではないか、と強く考えます。確かにジェノサイドなどの深刻な人権侵害の事態に直面したとき、あるいは直面しそうになったときに、国際社会が何もしないまま傍観することは許されません。しかし、ジェノサイドが起こってしまってから、あるいはもう起こる寸前になってから、付け焼き刃的に武力行使の対応を行うというだけでは、ジェノサイドが起こるに至る根本原因の解決を導くことができないことはハッキリしているのです。確かに諮問委員会の報告でも問題の根幹に関わる非軍事の取り組みの重要性に触れていないわけではありません。しかし、報告においては軍事的な対応に強い力点が置かれていることは紛れもない事実であり、そういう発想自体に重大な問題が含まれていることを見過ごしてはならないと思います。

報告書において特に問題なのは、報告書が考える際の集団安全保障の前提として、アメリカのブッシュ政権の脅威認識及び軍事的な対応という考え方をほぼそのまま踏襲していることです。つまり、報告書の立脚点は、起こりうる脅威に如何に対決するかといういわば外科手術的発想であり、脅威とされるものの本質を踏まえ、その本質に即した根本的解決を目指すといういわば内科治療的発想でない点において、根本的に問題があると思います。

以上に申し上げたことに関してさらに声を大にして指摘しておく必要を感じますのは、「国連憲章第7章の下での集団的措置として予防的武力行使を認めることが許されるか」という問題についてまで、報告書が立ち入っている点です。皆様もご承知の通り、ブッシュ政権は、先制攻撃による戦争をやると公言して、安保理決議の得られないまま、イラクで現実にそれを実行しました。先制攻撃による戦争は、冒頭で申し上げましたように、国際法で認められているいかなる戦争・武力行使にも当たらないわけで、国際法違反の戦争と言わざるを得ないものであるわけです。ところが報告書では、「安保理が予防的に武力行使をすることができるか」という重大かつ深刻を極める問題提起が含まれています。その趣旨は要するに、相手が戦争を仕掛けてもいないのに、国連がその相手に対して戦争を始めることができるかということで、結局、先制攻撃の戦争をすることができるかという問題にまで立ち入っているのです。しかも報告書は結論として、積極的にやるべきだとまで踏み込んでいます。

そこで問題になるのは、もし仮に安保理決議で先制攻撃が認められるということになりますと、湾岸戦争のときのように、集団的自衛権の行使をも集団的措置として認める場合が先例としてあるわけですから、そうするとアメリカがやろうとする先制攻撃による戦争も、安保理が認めさえすれば合法化されてしまう、というとんでもない事態になるということです。こうなりますと、戦後国際法(具体的には国連憲章)によって確立された戦争の全面的違法化という人類史上における最大の成果と言っても過言ではない達成点を、振り出しにまで突き戻してしまうことにつながります。そういう実に深刻で大変なことを、報告書がいとも簡単に提言しているところに非常に問題がある、ということを強調しておきたいと思います。

「人道的介入」について結論として申し上げたいことは、要するに「人道的介入」を理由にした国際的な武力行使が本当に合法化されるのかということであり、また、道義的に正当化されるのかということであります。そのいずれの点につきましても、私は無条件で肯定することには非常に問題が多いと指摘したいと思います。国際政治における大国支配という厳しい現実を考慮するとき、大国の恣意にゆだねられることが多い国連安保理の機能を強化し、その安保理による「人道的介入」を名目にした武力行使の余地を広げることは、決して国際的な人道問題の真の解決に資するゆえんではありません。

したがって、結論として申し上げたいのは、「人道的介入」という名前をもってしても、国際的な武力行使を認めるということに対しては、私たちとして極めて慎重でなければならないし、むしろ否定的にかかわらなければならない場合の方が圧倒的に多いのではないか、ということです。

ジェノサイドに直面することは、人道問題を重視する私たちにとって本当に耐え難いことです。しかし、平和憲法に立脚する私たちとして考えるべきことは、前にも申し上げたように、ジェノサイドが起こる根本的な原因は何かという点に着目して、軍事的に絆創膏を貼ってそれでよしとするのではなくて、経済的、文化的、歴史的な背景を踏まえた非軍事的な取り組みに徹することであると確信します。こういう対案を提起することが結局、国連がやる、あるいは認める武力行使であるならば受け入れるほかない、という国内で優勢を占める議論に対して「待った」をかける上でも非常に大切な議論の出発点となるはずだ、ということを申し上げたいのであります。

以上でございます。非常に簡単ですが、これで終わります。

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