戦後60年における国際情勢認識への視点 Page.1

2005.11.20

*この文章は、歴史教育者協議会(歴教協)の年報用の原稿として書いたものです。日頃考えてきたことについて頭を整理することができたように思います(2005年11月20日記)。

1.国際情勢認識をめぐる状況

(1)国際情勢認識における混迷・空白

第二次世界大戦が終了して60年を迎えた今日、日本国内に限らず、広く国際的にも、国際情勢をどう認識するかというもっとも基本的な問題において深刻な混迷(というよりも空白)が続いている。この混迷あるいは空白の直接かつ最大の原因は、戦後の国際情勢認識のあり方を圧倒的に支配してきた米ソ冷戦構造があっけなく崩壊したことに対して、私たちが柔軟な思考力を取り戻すことができないでいることにあると思われる。

情勢の変化に対応して新しい認識のあり方を先取りしようという試みがなかったわけではない。早くも1980年代後半には、中国の?小平は、明らかに米ソ関係に起こりつつあった変質への動き、国際関係における相互依存の深まり等をふまえ、「新国際政治経済秩序」構想を唱えた(1988年12月21日「平和共存5原則を基礎として国際新秩序を建設しよう」)。アメリカのブッシュ大統領(当時)は、湾岸戦争に際して、アメリカ主導による「新世界秩序」構想を口にした(1991年)。

しかし、中国、アメリカともに国内問題に関心が集中する中で、それぞれの秩序構想を裏打ちする、国際的に説得力のある国際情勢認識を積極的に展開することはなかった。国内あるいは地域の問題に関心が奪われるという点では、今や弱体化したロシアを含め、欧州諸国も同様だった。米ソ冷戦時代には独自の国際情勢認識に基づいて存在感を示した第三世界、非同盟諸国も、今日の新しい情勢に即した説得力ある認識を提示し得ていない。国連は、冷戦終結によってその存在理由に国際的な期待が寄せられたが、ソマリア内戦において事態対処能力の欠如を露呈し、その後も当事者能力を回復し得ないまま今日に至っている。湾岸戦争をはじめとする地域紛争や内戦が頻発したのが1990年代の一つの特徴であり、国際社会全体としては、それらへの小手先的対応に追われて、国際情勢認識を深める余裕もないままに21世紀を迎えた、と言わなければならない。

21世紀を迎えた国際社会は、アメリカのブッシュ政権の登場によってさらに混乱の度を加えることになった。国際的視野をまったく備えないままに政権についたブッシュ大統領は、露骨に一国中心主義(ユニラテラリズム)を推進し、国際ルールすら公然と無視する政策を追求する姿勢を明確にして、国際社会を攪乱した。特に9.11事件の勃発後は、対アフガニスタン戦争、続いて先制攻撃による対イラク戦争を発動し、「対テロ戦争」を軸に据える傍若無人かつ力任せの対外政策を推し進めてきた。その結果、国連憲章という形で法的基礎(独立国家の主権尊重、主権国家の対等平等と内政不干渉、先制攻撃戦争を含むすべての戦争禁止、国際紛争の平和的解決)を獲得した戦後国際秩序そのものが根底を揺るがされる事態を招いている。

21世紀を迎えた国際社会は、このようなブッシュ政権の専横的行動に振り回され、国際情勢をどう認識するかという人類的課題に思いをめぐらす余裕はますます失われている。確かに欧米諸国は、戦後60年である2005年を特別の時として認識し、それなりの行事を行った。しかし、この機会を捉えて将来に対する展望を視野に納めた国際情勢認識に向けた取り組みを行う機運は生まれていない。

東アジアは、国によってばらつきはあるが、1945年当時と比較するとき、過去数十年の間における高度経済成長を背景に、飛躍的に国際的比重を増している。しかし、東アジアがまとまって国際情勢認識のあり方について主導権を発揮するだけの主体的条件は生まれていない。ちなみに、その主体的条件を生み出すことを妨げている大きな一因は、日本が戦後60年間一貫して東アジア諸国に対する侵略戦争及び植民地支配の責任を認めようとせず、東アジアとしての一体感を涵養することを妨げていることにあることを、日本に住む私たちはしっかり確認しておかなければならない。2001年に政権についた小泉首相が2005年に至るまで毎年靖国神社を参拝していることの持つ深刻な意味合いは、このような脈絡において捉える必要があることも付け加えておきたい。

(2)正確な情勢認識を妨げる新自由主義

国際情勢認識の混迷、空白を招いている今ひとつの重要な原因は、いわゆる新自由主義の自己主張及びその政策的表れとしてのグローバリゼーションの無軌道な進行にある。1980年代に、レーガン(アメリカ)、サッチャー(イギリス)、中曽根(日本)各政権の下でなかば公認の学説とされた新自由主義は、国による経済・国民生活への関わりを必要最小限度に押さえ込み、国の内外を問わず、経済主体による自由競争と市場原理を重視する主張を展開した。この主張が強烈に自己主張することによって、いわゆるグローバリゼーションの波が国際経済を直撃することになった。

古典的自由主義と新自由主義とを隔てる最大のポイントは、市場原理の下で自由競争を行う経済主体の違いにある。古典的自由主義の時代にあっては、経済主体は勃興期の産業資本であった。彼らにとって自由主義の主張は、絶対的国家権力の支配に対して資本主義の自立を確立するための理論的根拠であった。これに対して新自由主義の主張は、経済主体としての多国籍企業や国際金融資本が国際経済さらには各国国民経済に対する支配を強めることを正当化することに本質がある。

新自由主義の主張がアメリカ発であることも当然であった。世界最大の資本主義国家であるアメリカは、他国を圧倒する多国籍企業と国際金融資本を擁し、レーガノミックスに代表されるとおり、国家をあげて新自由主義の積極的推進者だったからである。そこでは、古典的自由主義の時代におけるような国家と資本の間の鋭い対立関係はなく、むしろ逆に、多国籍企業と国際金融資本の国際経済支配力を強めることがアメリカの国益に合致するという認識が顕著である。

アメリカのプリズムを通してしか国際情勢を見られなくさせられている日本国内では、アメリカ発のグローバリゼーションをあたかも歴史的に不可逆な、所与の条件として受け止める傾向が強い。特にレーガン政権との関係を重視した中曽根政権と、ブッシュ政権との緊密な関係を誇示する小泉政権は、そういう認識を国民の間に浸透させる政策を推し進めてきた。グローバリゼーションの波に乗ることで生き残る戦略を選択した日本の独占資本も、積極的にこの路線に呼応し、推進している。特に小泉政権が進める「官から民へ」のスローガンに代表される「改革」路線が、新自由主義に貫かれていることは周知の事実である。

グローバリゼーションを所与のものとして受けとめてしまうとき、グローバリゼーションが生み出すさまざまな事象が無批判に受け入れられてしまうということになる。そして、そのことが国際情勢認識のあり方そのものにも重大な影響を及ぼす結果になっている。

しかし、以上の新自由主義の本質をふまえるのであれば、グローバリゼーションはアメリカが仕掛けた新自由主義に基づく国際経済政策の所産であって、それが国際関係において生み出す結果を私たちが批判的に分析し、位置づけるべき対象であることを忘れてはならないことが理解されるはずである。そういう視点を我がものにすれば、直ちに新自由主義そのものに内在する問題点、あるいはその政策的所産としてのグローバリゼーションが国際関係に押し付けているさまざまな重大な問題点を指摘することが可能となる。したがって以下においては、国際情勢認識についての視点及び国際関係の展望を示す前に、新自由主義及びグローバリゼーションに関わる主要な問題点を整理しておきたい。

新自由主義に内在する最大の問題は、市場原理の自己主張が国際関係を成り立たせる基本原則と根本的に両立しない点にある。その基本原則とは、改めて言うまでもなく、国連憲章において確立された独立国家の主権尊重、国家間の対等平等性の承認及び内政不干渉である。

もちろん経済学説としての新自由主義自体が国際関係の基本原則に直接挑戦するということではない。また、新自由主義を推し進めるアメリカも、これらの基本原則に正面から異議申し立てを行うことはしようとしない。この点で、アメリカのアプローチは極めて現実的である。グローバリゼーションの要請にとって支障となるときは国際関係の基本原則を無視することをためらわないが、アメリカにとって無用な負担から免れる上で、主権国家からなる国際社会(ただし、アメリカにおいては「社会」(society)というとらえ方はなされず、「共同体」(community)あるいは「システム」(system)という用語が用いられる。これにはアメリカ的な国際観の反映があるのだが、ここでは立ち入らない)という枠組み自体は崩さない方が得策と判断している。しかし、このアメリカのアプローチの下で現実に起こっている事態は、超大国・アメリカが市場原理・自由競争を国際規模で貫徹するグローバリゼーションの政策を推し進めることによって、それ以外の国々が主権国家として存立するための経済的基盤を浸食し、国家間の対等平等性を形骸化し、市場開放を錦の御旗にした公然とした内政干渉をまかり通らせていることである。

極めて遺憾なことは、国際関係のあり方の根本に係わる以上の問題に対して、新自由主義に批判的な立場から当然あってしかるべき議論の提起はおろか、正面からの批判すらまともに行われるに至っていないことである。しかし、国際情勢認識について確固とした視点、展望を示す上で、私たちは、この問題を直視し、批判しきることから始めなければならない。

グローバリゼーションはまた、国際関係及び各国の国内にさまざまな攪乱要因を持ち込んでいる。その最たるものは途上国における貧困問題(南北問題の深刻化)と各国内部における弱者切り捨て問題である。グローバリゼーション、すなわち市場原理に基づく自由競争が自己主張すること、を無条件に肯定してしまえば、国際的規模及び各国国内において経済的社会的弱者を放置することは当然あるいはやむを得ない、という結論が導かれることは必然である。そこにグローバリゼーションの根本的問題がある。

途上国における貧困問題は、さまざまな問題の温床として働く。9.11事件に代表される国際テロ事件の背景に貧困問題の存在があることについて、今や多くの識者の認識は一致している。貧困はまた、頻発する地域紛争や内戦と深く関わっている。貧困が支配する国々においては、人々の生存のための最低条件すら満たし得ないために、平均寿命は押し下げられ、人間としての尊厳そのものが否定される深刻な事態が進行している。

各国内部における弱者切り捨て問題については、例えば今日の日本の実情が余すところなくその実相を示している。小泉「改革」の本丸と位置づけられた郵政民営化は、アメリカの強い対日要求の下に進められた日本の金融市場の自由化の一環であるが、その帰結の一つとして、市場原理に基づく過疎地、遠隔地、僻地に対するサービス切り捨てが進み、これらの地域(圧倒的に高齢化が進んでいる)に住む人々を切り捨てる結果になることが確実視されている。障害者「自立支援」法における「応益負担」原則の導入、医療における患者の自己負担の増大、サラリーマンに対する所得税における各種基礎控除の廃止、消費税税率の大幅アップ、新農業政策における零細農家の切り捨て等々、弱者切り捨て政策のすべてが、グローバリゼーションの名の下で正当化されるという点において共通している。こうした動きは、日本社会の安定を揺るがす深刻なマグマとなっていくに違いない。重大かつ深刻な事実は、新自由主義・グローバリゼーションを受け入れた、あるいは受け入れを余儀なくされた国々においては、日本と同様な事態が進行しており、途上国だけでなく、国際社会全体としての不安定要因が確実に蓄積されつつあるということである。

これらの問題を放置することは、到底許されることではない。今私たちに強く求められるのは、新自由主義・グローバリゼーションを克服するに足る、21世紀に相応しい国際情勢認識を提示し、その情勢認識に基づいて、国際関係のあり方に関する包括的な展望を示すことである。

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