戦後60年における国際情勢認識への視点 Page.2

2005.11.20

*この文章は、歴史教育者協議会(歴教協)の年報用の原稿として書いたものです。日頃考えてきたことについて頭を整理することができたように思います(2005年11月20日記)。

2.国際情勢認識の視点と国際関係の展望

(1)国際情勢認識を構成する基本要素

21世紀を展望する上での基礎となる国際情勢認識はどうあるべきか。この問題を考える上での視点として、私たちはまず、21世紀における国際関係を成り立たせる基本的要素を整理することから始めなければならない。以下においては、20世紀までの人類史における到達点という基準に則して、人間の尊厳・基本的人権、主権国家、相互依存、戦争禁止・核兵器違法化を、また、人類及び人類社会の存続との密接な関わりという基準に則して、地球環境及び「豊かさ」を取り上げる。

(イ)人間の尊厳・基本的人権

人間には、人間として生まれたことによって備わる固有の尊厳があり、その尊厳は他人あるいはいかなる権力によっても犯されてはならないことは、今や普遍的に承認される、人類の歴史におけるもっとも貴重な獲得物である。人間の尊厳を承認し、これを法的に確保するものが基本的人権である。人間の尊厳及び基本的人権は、今や普遍的価値として揺るぎない地位を占めるに至っている。

ちなみに日本国憲法は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)と定めている。これは正に、以上のことを確認したものと位置づけることができる。

人間の尊厳が承認され、基本的人権が確立したのは、実は第二次世界大戦を経て、国連憲章において「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認」(前文)して以来のことであり、人類の歴史においてごく最近のことに属する。国連憲章はさらに、「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」(第1条3)を国連の目的として掲げる。また、「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の平和的且つ友好的関係に必要な安定及び福祉の条件を創造するために、国際連合は、次のことを促進しなければならない」として、「一層高い生活水準、完全雇用並びに経済的及び社会的の進歩及び発展の条件」、「経済的、社会的及び保健的国際問題と関係国際問題の解決並びに文化的及び教育的国際協力」、「人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」を列記している(第55条)。

国際社会は、国連憲章のこれらの規定を基礎に、世界人権宣言、国際人権規約をはじめとする数々の重要な規範を生み出してきた。また、世界各地においても、地域的な人権条約が制定されるなど、国際人道法の発展にはめざましいものがある。また、ニュルンベルグ裁判、極東裁判が戦争指導者個人に対する法的責任を追及したこと(両裁判に関しては、勝者による敗者に対する裁判としての問題点があるが、ここでは立ち入らない)は、その後ジェノサイドのような大規模な人権侵害を犯罪として捉え、犯罪者の個人的責任を国際的に追及する道を開くことにつながってきた。

国際人道法の発展は、各国国内の人権に関わる諸問題への対応のあり方にも影響を与えずにはおかない。まず、各国の憲法においても、今や基本的人権の規定を設けることが当然視され、基本的人権に関わる規定の不備は厳しい国際的批判にさらされる。また、ナチ・ドイツによるホロコースト、日本軍国主義によるいわゆる従軍慰安婦などの戦争犯罪についても、ドイツが誠意をもって対応することに対しては国際的評価が与えられ、逆に日本のように問題を直視しない姿勢は厳しい国際的批判の対象になる。各国においては、過去の国家権力による人権侵害に対して謝罪し、補償するケースが増えている。

人間の尊厳及び基本的人権を普遍的価値として承認し、これに矛盾するいかなる主張・行動も認めないことは、21世紀及びそれ以後の国際社会及び各国のあり方の根底に座る基本原理である。したがって、確かな国際情勢認識を確立する上では、この基本原理を基礎として据えなければならない。そのことを承認する限り、例えば、この原理と真っ向から衝突せずにはすまない新自由主義・グローバリゼーションを放置することは許されない、という結論が導かれる。

(ロ)主権国家

国際社会が文字どおり主権国家を主要な構成員として成り立つ「国際」社会であるという性格は、少なくとも21世紀を通じて基本的に変化はない、という認識を持つ必要がある。国連憲章は、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認」(前文)しており、「大小各国の同権」は国際社会の拠ってたつ基本原則である。国連憲章はさらに、「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」(第1条2)を国連の目的として掲げている。また国連は、その存在について「すべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」(第2条1)として、国連が国家の上に立つ存在ではなく、加盟国の合意に基づく存在であることを明確にしている。

日本国内では、国家の存在理由に対して消極的ないし懐疑的な見方が根強く存在する。しかし、このような見方は、国際的には圧倒的に少数である。一国主義に走るアメリカは、もっとも国家にこだわる存在である。欧州連合(EU)については、その内部では伝統的な国家主権が揺らいでいることは確かだが、EUそのものは究極的にはいわば欧州合衆国を目指す動きであり、決して国家の概念を否定するものではない。ましてや多くの途上国においては、主権国家としての自立性を求める動きが主流である。

もちろん、人間の尊厳及び基本的人権を最高の基本原理とする21世紀の国際社会においては、国家と個人との関係が根本的に見直されていくであろうことは確実に予見される。21世紀においては、「個人を国家の上に置く」国家観が「国家を個人の上に置く」国家観に取って代わる流れが加速するに違いない。

既に欧州においては、1998年に発効した条約(議定書)に基づき欧州人権裁判所が機能している。個人は、所属する国家の政府の同意なしに直接裁判所に訴えることができ、かつ、裁判所の判決はその国家に対して拘束力を持つ。日本の裁判所でも、日本の侵略戦争による被害者が損害賠償を求めて提訴する事例が増えている。これに対して裁判所はこれまで、伝統的な国家無答責の法理に依拠してこれらの訴えを退けてきた(その背景には、戦争責任を認めることを肯んじない日本政府の頑なな姿勢が働いている)。しかし、国際人道法の発展を背景に、日本の現状に対しては国際的批判が高まっている。(ちなみに、日本国内で進行している新国家主義に基づく憲法「改正」の動きは、このような国際社会の潮流に逆行するもので、異常を極める)。

なお、国際社会においては、その構成員として国連をはじめとするさまざまな国際機関、非政府機関(NGO)、さらには限られたケースではあるが個人が登場している。21世紀においては、これら非国家主体が国際社会に占める比重が増すことはあっても低下することは考えられない。しかし、これらの非国家主体が全面的に国家に代わる国際社会の主要な構成員となる展望はない。

したがって、確かな国際情勢認識は、「個人を国家の上に置く」国家観によって性格を規定される主権国家からなる国際関係という枠組みを、不可欠の内容として含む必要がある。

(ハ)相互依存

交通・運輸・通信の発展を背景に、国際関係における相互依存は確実かつ不可逆的に進展してきた。特に20世紀後半におけるコンピューターを媒体とする国境を越えた情報の流れの飛躍的拡大は、21世紀においてもさらに進展し、国際的な相互依存の傾向はますます加速することが確実に予見される。一国及びその国民が自給自足・鎖国に甘んじる基礎条件はもはや失われた。

それよりも基本的に重要なことは、相互依存の深まりが人類全体の意味ある存続にとって不可欠の条件となってきたし、21世紀においても、ますますその重要性を増すことが確実視されることである。ことはひとり経済の分野だけに留まらない。政治、文化、環境その他あらゆる分野においてそうである。

私たちが明確に認識しておくべきことは、相互依存といわゆるグローバリゼーションとを混同しないことである。相互依存は、先にも述べたように、交通・運輸・通信・情報の発展によって可能となった人類史における貴重な成果である。そのことは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理となんら矛盾するものではない。また、主権国家及び国家を基本的構成員とする国際社会のあり方ともなんら矛盾しない。

これに対してグローバリゼーションは、既に詳しく述べたように、新自由主義の主張に基づくアメリカ発の国際経済政策の所産である。市場原理に立脚するグローバリゼーションの無軌道な進行を許すことは、人間の尊厳・基本的人権を踏みにじり、主権国家及び主権国家を基本的構成員とする国際社会のあり方に深刻な攪乱要因を持ち込むものである。

したがって、確かな国際情勢認識においては、グローバリゼーションではなく、相互依存を不可欠の要素として位置づける視点を確立する必要がある。

(ニ)戦争禁止・核兵器違法化

国連憲章は、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」(第2条4)と定めることにより、戦争を含めあらゆる武力行使・威嚇をも禁止した。それは、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」う(前文)ことを目的とし、戦争の歴史に終止符を打とうとする人類史における貴重な成果と位置づけることができる。

しかし国連憲章は、アメリカの強い影響力の下で作成されたこともあり、その戦争観にもアメリカの強い意思が反映された。すなわち、国際の平和を破壊する行為に対して安全保障理事会が集団的措置としての軍事行動をとることが予定されている(第7章)し、一定の条件の下で個別的及び集団的自衛権を行使することも認めている(第51条)。集団的自衛権は、日米安保体制をはじめとする軍事同盟の正当化の根拠として利用されてきたし、日本で進んでいる「戦争する国」になるための憲法「改正」の目的として位置づけられていることは秘密でもなんでもない。

しかも、国連自身による集団的措置に関する規定は、国連の能力の限界(というよりも、アメリカを中心に、集団的措置に関する規定を実効あるものとするために必要な権限や人的財政的裏付けを国連に与える意思がなかったこと)により、ほぼ空文化している。現実に進行しているのは、湾岸戦争以来、集団的自衛権の行使を集団的措置の代替手段として安保理が承認するという極めて問題のある事態である。また、近年においては、人道的介入としての武力行使を安易に容認する傾向が生まれていることも見逃すことはできない。アメリカが安保理決議を経ないままイラク戦争という国際法違反の戦争を強行したことは、国連憲章の権威を根底から揺るがす深刻な事態である。

こうして、国連憲章が定めた戦争禁止の原則は大きな試練に直面している。21世紀の国際社会は、厳しい現実として今後も起こることが避けられない国際問題・紛争に対して、いかなる回答を用意することが求められるのか。具体的には、国連憲章(第7章)の便宜的な解釈・運用によって正解が得られるのか。戦争観、平和観の根本に係わらせて、私たちはこの問題を直視し、答えを用意する必要がある。その答えの内容如何によって21世紀の国際関係は左右され、私たちの国際情勢認識のあり方も左右されることになる。

20世紀はまた、人類を滅亡に追いやる恐るべき核兵器が出現した世紀であった。しかし国連憲章は、広島・長崎に対する原爆投下の前に作成された文書としての歴史的制約を内在しており、核兵器及びその使用の違法性について判断する直接の手がかりを与えていない。したがって、この問題を考える上では、核兵器の本質及びその使用がもたらす破壊力に即して考える必要がある。

核兵器は、その大量無差別殺戮能力及び放射能という残虐性において、その使用はもちろん、存在自体が反人道性を疑う余地のないものである。国際司法裁判所の勧告的意見(1996年)も、「核兵器の独自の特性、とりわけその破壊力、筆舌に尽しがたい人間の苦しみを引き起こす能力、そして将来の世代にまで被害を及ぼす力」を確認した。そして勧告的意見は、「核兵器の威嚇または使用は、武力紛争に適用される国際法の諸規則、とくに人道法の原則及び規則に一般的には違反するだろう」と結論づけた。しかしながら勧告的意見は、「国際法の現状及び裁判所に利用可能な事実の諸要素を勘案して、核兵器の威嚇または使用が、国家の存亡そのもののかかった自衛の極端な事情の下で、合法であるか違法であるかについて、確定的に結論を下すことができない」とも付け加えた。勧告的意見の内容は、核兵器に関する20世紀国際社会の到達点と限界を端的に示している。

テロリストなどの非国家主体による核兵器の使用の危険性にどう対処するかを含め、21世紀の国際社会が核兵器の違法化さらには廃絶を実現できるか否かは、人類の将来を展望する上での一つのカギである。人間の尊厳・基本的人権という基本原理を貫徹することによって、核兵器を全面的に違法化し、廃絶するための道筋をつけるという人類的課題に答えを出すことができるか否かによって、国際情勢認識のあり方も大きく左右されることになる。

(ホ)地球環境及び「豊かさ」

20世紀までの国際社会においては、経済成長及び国民所得の向上を追求することがほぼ無条件に肯定され、「豊かさ」を短絡的に物質的充足として捉える傾向が続いてきた。その点では、先にも見たように、国連憲章も例外ではない。しかし、このような傾向が続くことに対しては、地球環境という客観的制約条件があることが次第に明らかになってきた。特に物質的「豊かさ」追求の結果以外の何ものでもない地球温暖化の進行は、一刻も早く歯止めをかけなければ、人類の意味ある存続そのものを脅かす要因となることがようやく認識されるようになった。

しかし、地球環境を保全することが待ったなしの緊急課題であるという認識は、主に二つの要因によって国際的に共有されることを妨げられている。一つは、ここでも新自由主義の市場原理の自己主張及びそれを自らの国策として追求するアメリカの一国主義がある。この問題は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」(いわゆる京都議定書)に対するアメリカの消極を極める対応で極めて明らかである。京都議定書は、1997年12月に京都で開催された国際会議で採択され、2005年2月に発効した。しかしアメリカは、議定書に途上国が参加していないこと及びアメリカ経済への悪影響が懸念されることを理由に批准していない。

地球環境を保全することを国際社会共通の緊急課題と認識することを妨げる今ひとつの要因は、途上国の貧困問題を解決する要請である。地球温暖化は、先進国の経済発展戦略・物質的「豊かさ」追求の結果として引き起こされた。そして地球温暖化が現実問題となる段階において、途上国が自国の貧困問題を解決するべく、先進国が採用してきた経済成長戦略に倣った戦略を採用することによって、温暖化が加速的に進行するという深刻な事態を生んでいる。

アメリカの問題に対する解答は明確である。つまり、アメリカをして新自由主義、一国主義を改めさせることである。しかし、途上国問題については非常に難しい課題に直面する。地球環境の保全を理由にして途上国に貧困に甘んじることを要求するのは、明らかに先進国のエゴイズムである。途上国の人々が貧困を脱する方向を目指すことは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理に則して当然認めるべきである。しかし、先進国が採用してきた経済発展戦略・物質的「豊かさ」追求をそのまま途上国が採用することを黙認するならば、地球環境の悪化は避けられない。

ここでは、私たちがこれまで当然と見なしてきた物質的「豊かさ」に対する根本的見直しが迫られていることを認識しないわけにはいかない。地球環境の保全と両立する人間にとっての「豊かさ」とは何かを考えなければならないのだ。

その場合、明らかなことが最低限二つある。一つは、途上国の貧困をそのままに据え置くということは許されないということである。人間の尊厳そのものを否定する絶対的貧困を放置することは許されてはならない。今ひとつは、国際的相互依存が進行する背景の下で、先進国における伝統的な経済成長戦略からの抜本的転換が必要だということである。そして、途上国の貧困問題の解決に向けて、先進国から途上国に向けての大規模な富の移転を実現することが求められる。

確かな国際情勢認識を確立するに当たっては、地球環境の保全及びそれと共生する新たな「豊かさ」の基準を基礎に据えることを考えなければならない。

(2)展望:国際民主主義を基軸とする国際関係

2度にわたる世界大戦を経験した20世紀の人類は、国家レベルでは、人間の尊厳を承認し、基本的人権を保障し、民主主義を実現することを規範として受け入れるまでになった。基本的人権を抑圧し、民主主義に逆行するような国家に対しては、今や厳しい国際的批判が向けられることは既に述べた。

しかし、国際レベルでは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理は受け入れられつつある(既述)とはいえ、現実の国際政治経済関係を圧倒的に支配しているのはなお権力政治的発想(「力による」平和観)である。その結果、国家レベルでは実現した(少なくとも実現されるべきことが普遍的に承認されている)民主主義の原則が、国際レベルでは21世紀に入った今日でも当然の規範として受け入れられるにはほど遠い現実がある。相互依存の進行、戦争禁止・核兵器違法化、地球環境保全の要請という人類的課題に取り組む上ではもちろん、人間の尊厳・基本的人権という基本原理をすべてにおいて貫き、及び「個人を国家の上に置く」国家観を根底に据えた主権国家を構成員とする国際社会を実現する上で、「力によらない」平和観(脱権力政治)に基づく国際民主主義を確立することを目指すことは、優れて21世紀の人類社会が自らに課すべき目標でなければならない。

国際民主主義には二つの含意がある。一つは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理を国家の枠組み・制約を超えて国際的に実現するという課題である。この課題実現のカギは、各国において、「個人を国家の上に置く」国家観が定着することにある。この点で、既に紹介した欧州人権裁判所あるいは国際刑事裁判所(2002年7月に根拠となる規程が発効)の事例は、国際民主主義の今後のあるべき方向性について示唆に富む材料を提供している。今ひとつは、国家関係の民主化という課題である。この点については、既に紹介したように、国連憲章が国家の主権尊重、主権国家の対等平等、内政不干渉(注)、戦争の違法化、紛争の平和的処理からなる基本原則を明確に定めている。21世紀の国際社会にとっての課題は、これらの基本原則を国際的に徹底すること、つまり国連憲章に則り国際関係を規律することをルール化するということである。「力による」平和観から「力によらない」平和観への移行ということもできる。

国家関係の民主化を具体的に実現するためには、一方において、大国が権力政治的発想からの転換を受け入れることが求められる。国際問題・紛争の解決の手段として、実力に訴えることは許されてはならない。湾岸戦争以来の安易に軍事力に訴える流れに対しては、断乎とした歯止めをかける必要がある。また、国際関係の民主化には当然経済も含まれる。既に詳しく述べたように、新自由主義及びグローバリゼーションは、民主的な国際関係の基礎を突き崩すものとして、これまた断乎とした歯止めをかけなければならない。

国家関係の民主化を具体的に実現するためには、他方において、民主的国際関係の基礎を揺るがせる南北問題を放置することは許されない。地球環境の保全との両立を考慮した南北問題の解決に取り組むことは、国際社会あげての課題となる。そのためにも、「豊かさ」について国際的に共有される認識を築き上げ、その豊かさを地球規模で実現するために先進国と途上国が協力することが求められる。

以上の具体的課題への対処を含め、平和憲法を有する日本は、「力によらない」平和観に基づく国際民主主義を基軸とする国際関係を実現する上で、極めて大きな役割を担う条件を備えている。憲法前文と第9条は、単に日本のとるべき進路を指し示すに留まらず、21世紀の国際関係のあるべき姿を見事に描き出している。そのことを、誇りをもって確認しておきたいと思う。

(注)「個人を国家の上に置く」国家観を前提とする以上、内政不干渉の原則は、基本的人権・民主主義にかかわる事項については重大な修正を受けることになる。その点については、既に述べたことから明らかである。

むしろ考えなければならないのは、次のことである。まず、各国において基本的人権を保障し、民主主義を実現するという原則的要請は揺るがせることはできないが、その保障・実現に当たっては、各国の歴史的・文化的・経済発展段階的等の諸条件・制約を踏まえる必要があるということである。先進国の基準を機械的に途上国に適用し、その基準を満たさないならば直ちに干渉するという粗暴な対応は厳に慎まなければならない。先進国における基本的人権・民主主義の歴史に鑑みても、各国における具体的な歩みに関してはそれぞれの実情を踏まえた内容であることを認める必要がある。

次に、人道的介入という名の下における国際的な軍事行動に関しては、国連を含め、国際的に積極的に容認する傾向が見られるが、この問題に関しては、とりわけ慎重な対応が求められることを指摘しておきたい。人道的介入を目的とした国際的軍事行動が成功した例は皆無に近い。その理由は、多くのケースにおいて、軍事行動は真の問題解決にとって有効ではないことにある。

人道的介入が要請されるのは、ジェノサイドなど大規模な人権侵害が起こっている場合あるいは起こる可能性が極めて高まっている場合である。過去の事例においては、国際社会の対応は、専ら軍事行動による応急措置に限られ、ジェノサイドの原因となる根本的原因に対する本格的取り組みを伴っていないため、失敗に終わる結果になっている。したがって、過去の教訓に学び、ジェノサイドに対する国際的取り組みのあり方を根本的に見直すことが先決である。

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