歩いていこう熊野古道 その4

第四日目(2022年12月2日) 和泉鳥取から和歌山に

参考にしているのは、大阪府の歴史街道ウォーキングマップです。
https://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html#kumano

泉佐野駅~山中渓駅

山中渓~布施屋駅

布施屋駅~海南駅

今回は和歌山に入るので以前に行った、新和歌ロッジで一泊しようということになった。
宿に赤足エビ付きの晩御飯の一泊予約をしたら、宿から電話があって「全国旅行支援」があるので手続きしてくださいと親切な電話をいただいた。
全国旅行支援を受けると、宿泊の割引と買い物ができるクーポンが一泊で3,000円もらえる。

一緒に行くまだまださんが、家の事情で泊まりは無理そうで手続きしたが、宿に電話したら全てキャンセルしてもう一度予約を取り直して、全国旅行支援を受けてほしいとのことだった。
同じプランで一人分ので予約を取り直したが、次の日はそのプランがもうなかった。
電話の時代なら、電話で「頼むわ」で済んだ事がネットの世界では融通が利かなくなった。全国旅行支援の設計もそういうものを想定しないのかもしれない。
融通をきかそうとしたら現場の人の負担だけが増えることになるし、仕方のないことだと思う。


2日の朝早く起きて、京橋駅を6時49分の紀州路快速に乗車。
12月に入って一気に寒くなったので、少し着込んだ上で一泊分の着替えを入れた。
朝早い電車なので、空いていると思ったらそんな事はない。立っている人も多い。
高校生らしいのもいっぱい乗ってきた。
この時間の快速は和泉鳥取駅に止まらないので東岸和田で普通に乗り換え。
こっちはガラガラと想像していたら、混雑。
なんと和泉鳥取駅で、高校生がたくさんおりて電車はすいた。この地に高校があるようだ。

さて前回の最後に「駅の近くに立派な鳥居があった」と下の写真。

この鳥居の神社は、海側にある波太(はた)神社の鳥居ではと行ってみることにした。
電車で一緒だった高校生の学校が近くにあり、交差点ではその波についていく。
また信号では先生が生徒に挨拶をしてた。
あの先生は社会科やなと言うと、まだまだくんは「いや数学でしょう」と、

行く前に、グーグルで駅から波太神社まで800mくらいと思っていたが、今調べてみたら1.9kmあったようだ。


波太神社の大きな鳥居に出迎えられました。


本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)というものだと、まだまださんが解説してくれた。
三間社というのは、前の柱が4本あると、間(あいだ)が3個あるため。流造りは、横から見たら前方に屋根がせりだし後方は短い非対称になっている。う~ん、勉強になるわ。
ちなみに、これから行く馬目王子は波太神社に合祀されている。
波太神社は海に近いし、大漁を祈願するのかと思ったら、機織り(はたおり)の神社のようだ。
駅の近くにあった鳥居は、熊野古道を往来する人がこの神社を遥拝するためのものらしい。


再びもどって和泉鳥取駅。
時刻は9時半。ここからメインの熊野古道を目指す。
すぐに府道64号と合流して上り坂とで和歌山県を目指す。

すぐの地蔵堂王子は見落として、最初の王子は大阪の最後の馬目王子跡。

足神さんだから、これからの道中の無事を祈願する(ウソ)。
府道と分岐して山中渓の集落に入ると石畳の道。


せっかくの石畳の道、もっと人に来てもらえばと思う。
集落に山中神社があり、馬目王子のご神体がここに持ってこられている。


山中渓の集落の南側にある道祖神の「賽之神」。
江戸時代に12月20日に紀州藩が重罪人や疫病の病人を和泉に追放した。
この時に災いが来ぬように戸を閉めて退散をねがったのがこの道祖神。
上部の石のフタが、それをあらわしているように思える。
しかし迷惑な話ではあるが、御三家の紀州徳川の威光でしたものなんだろうな。

山中の関所が左に見えてくる。
南北朝時代に、地元の法華堂を作るために銭を徴収したもので江戸時代には廃止されている。
今の時代も同じ事をしているような気もする。



大阪と和歌山にまたがる府道と県道。どんどん狭くなっていく。もう集落がないから両府県とも整備には無関心のようだ。
その割に車の通行は多い。歩道の部分がない上に雑草なんかがせりだして非常に危ないし歩きにくい。

和泉と紀州の境に橋があり、そこが日本最後の仇討ち場となっている。
仇の相手を紀州に見つけたかたき討ちが紀州藩に許可を持とめた。
紀州藩は仇を藩から無理やり追放して、この和泉に入ったところでかたき討ちをさせた。日本最後の仇討ち場である。
このHP書きながら、紀州藩って嫌いになっていってる。
紀州藩では、認めないから外で勝手にやってくれということだろう。

この境橋を越えて和歌山県。
車の往来も結構あるが、それと並行して走っている阪和道がうるさい。
のんびりと熊野古道を歩くという雰囲気が壊れる。

県境を越えても上り坂、雄の山峠(おのやまとうげ)。
12月に入って寒くなったが、上りの道で汗がでてきた。

峠には祠があり不動明王が出迎えてくれた。、道はそれを越えていってる。
右を走っていたJR阪和線はトンネルに入り、やがて線路が左に見えてきたら山口王子。


熊野古道の案内板は和歌山県側はしっかりとしている。大阪から歩く人はほとんどいないので、大阪は冷淡なんだろう。
観光としての熊野古道は、山の中の中辺路、海岸沿いの大辺路、本宮に行く大門坂をメインにしているので、この辺りはオマケ扱いさけているように思う。

歩をすすめていると→と友に山口神社への看板がかかっている。
いかがわしい場所に誘導されるのかと身構えた。田んぼや畑の横のくねくねとした道を歩いたていたら山口神社があった。


神社には私は詳しくはないのだが、ここまで見てきてワイドで立派だ。確か本宮もこんな感じだったような気がする。
屋根は檜皮葺ではなく銅板である。このへんは金がかかるので、そうせざるを得ないのだろう。

そろそろ腹が減ってきたが、食べる所がない。
ローソンの前を通った。
暖かい日差しがあれば、コンビニおにぎりを神社で食べる手もあるが、なにしろこの寒さでは店に入って食べたい。
まだまださんがRONさんから貰ったミニのサラミソーセージを二人でわけて腹をごまかす。
それにしても車が多いし、歩道がない。

県道からあるく道に入る。

すぐにあったのが川辺王子跡。


地域の人の世話がしっかりとしているのだろう。
古びてはいるが、きれいにしてあった。

実はこのへんの熊野古道は、ややこしくて迷うことがある。

そこで和歌山市が設置したのが、道に埋め込んでわかるようにしてある。

道がくねくねして90度曲がることもめずらしくない。
実際は、こんなに曲がる道ではなかったと思う。
道は時代によって変わっているし、現代では家も立て込んでいるのでかわっているのかもしれない。

刈り取った田んぼに立っていたのは中村王子跡の看板。





中村王子跡をすぎて、力侍(りきし)神社。また川辺王子跡でもある。
川辺王子跡は、前にもあったがここにもある。よくテレビで「諸説あります」と同じ。






しかし腹が減った。
国道24号に出会った。さすがに食べるところはあるだろうと店のあるほうに進む。
ありました、香の川製麺。
まだまださんは、カレーうどんを選んで失敗したと言ってたが、香の川製麺については神社ほど詳しくなかったようだ。
腹一杯になって、紀の川に向かうことにする。
入る所がわかりにくい。

このへんの紀の川の巾は広い。

左の写真は道を探している所。

決してあやしい人間ではありません。



紀の川は広い。橋の上から、あのへんで魚が釣れるだろうか、
果たして、オイカワは美味しいのかとの話になった。

橋を渡りきって叶前王子(はんざき)跡に行くのだが、右の地図ではコの字になっているのは紀の川の橋があるからである。
地図の橋の右側に渡し舟があったのだ。
地図の「緬」の字あたりから下に渡し舟があったと思う。
時代によって熊野古道が変わるというが、現代の橋で道がかわるのだ。




次の王子である川端王子跡に行く途中であったのは、庚申さん
下に見ざる聞かざる言わざるが彫ってある。
詳しくはまだまださんに聞いてほしいが、私はつい最近に人形浄瑠璃の「心中宵庚申」を見た。庚申の日は、夜は寝ないですごすらしい。






川端王子跡に出てから、少しわかりにくい道をたどる。
つぎの王子は和佐王子跡。
道より少し上がったところに跡があった。

ここでまだまださん持参のミカンをごちそうになった。
いい休憩になった。

道を進むと「和佐大八郎」の墓があった。
弓の名人らしい、三十三間堂の通し矢の記録はいまだに破られていないと帰ってからわかった。

さてさて車とカーブの多い道で歩道がお粗末。
少し歩くと・・・

熊野古道は舗装路を外れて山道に行くようだ。






今日、二つ目の峠の矢田峠、切り通しになっている。
短かったが時間も遅いことであり疲れがでてきた。

さっきの道にまた出てきて、警察の取り締まりのところから集落の道に入る。


ふと現れたかのように、平緒王子

もう本日のゴールの和歌山電鐵貴志川線の伊太祁曽(いたきそ)駅は近い。









伊太祁曽駅から帰るのだが、駅を通り過ぎて伊太祁曽神社に向かう。


拝殿の前に干支の虎が。なかなかリアルだ。インドの密林の中に置いてあったら逃げるだろう。
干支の彫り物は奉納されていて、来年の兎もすでに用意されている。


ここは紀伊の国の一の宮となっており、祭神は木の神様である五十猛命(いたけるのみこと)がまつられている。
屋根は、さすがに檜皮葺で今までの神社とはちがう。

伊太祁曽駅にもどる。
和歌山電鐵貴志川線と言えば、タマの電車。



ここからJRの和歌山駅に行き、まだまださんは帰宅。
私は、バスで新和歌ロッジにむかいました。



晩飯で酒を二合、地元の赤足エビをいただきました。
温泉に入ってぐっすりと寝ました。


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