2
春香のいない場所で、春香の今後のことが決められることになった。千秋の家に居候させてもらっている間に、叔父さんと叔母さんたちは話し合うことにしたようだ。 一人になってしまった。 押入れの襖を開けて中から布団を取り出す。部屋の中央にどすんと置いて敷布団を広げると、掛け布団にシーツをかけるためにまた押入れに戻る。 布団を敷き終わると、部屋の中がしんと静まり返った。 一人きりだ。 夏見が亡くなってから、初めて痛切に感じた。 病院から火葬場まで慌しく動く周囲に、どこか人事のように感じていた感覚が、ようやく戻ってきた。 春香は急いで布団の中にもぐりこんだ。そしてぎゅっと目をつぶって、何も考えないように、自分に命じる。普段あまり使われることがないのだろう、布団からは樟脳の臭いがかすかに鼻についた。 不意に、鼻の奥がつんとなる。 あ、と思ったときには目頭が熱くなっていた。ツーッと右目から眉間を伝って左側へ一筋流れてゆく。横を向いた顔から次々に涙がこぼれ、枕にシミを作った。 「か・・・さん」 お母さん。 心の中で呼びかける。 夏美はいつも「なあに?」と体ごと振り返って春香の言葉に耳を傾けた。忙しくしている時が多くて、背中に向かって声をかけることがほとんどだった。でも、ちゃんと振り返って春香の目を見てくれた。 千秋と同じ茶色のさらさらの髪の毛に、優しい微笑み。温かい眼差し。 胸がえぐれるような痛みを感じて、のどの奥から押しつぶされた声が漏れた。まるでヒキガエルの声みたいだ。口唇がわなないて、引付を起こしたように筋肉がこわばり震えが体中に広がってゆく。息継ぎが出来ないクロールをしているみたいに息が苦しい。 あえぐように口を開ける。荒い呼吸と同時に変な声が出た。 どうしてだろう。 どうして自分は子供なんだろう。 大切な人が苦しんでいても、大変な目にあっていても、いつも何も出来ない。 ただビクビクとそばで震えて見ていることしか出来ない。 あの時もそうだった。父さんが母さんを苦しめているときも自分は何にも出来なかった。母さんはあんなに泣いていたのに。 そして私のために死んでしまった。 千秋の冷たい瞳を思い出す。彼も自分の姉を苦しめ追い詰めて挙句に死なせてしまった春香の存在を決して快く思っていないはずだ。 それだけじゃない、春香はあの父親の娘なのだ。 不思議だった。 どうして彼は一時でも私を預かると言ったんだろう? 最も憎んでいる男の娘なのに。 ああ、確かに、あの眼には憎しみがこもっている。 今日四年ぶりに見た千秋の瞳からは、優しさ、慈しみ、暖かさが全て消えていた。四年前には確かにあったもの。惜しげもなく自分に向けられていたもの。 父と、夏美と千秋の姉弟とは近所に住んでいて、春香が生まれる前から付き合いがあった。春香の幼い頃からの記憶のほとんど全てに、千秋の笑顔がしみこんでいる。口の端をにっとあげて笑うとき、少しだけ歯を見せて噴出すとき、その形が三日月を真横にしたみたいだと思っていた。千秋はいつも新しい遊びを教えてくれたし、悪戯の共犯者だった。必ず怒られたけど、ふたりでなら、何も怖くない。 春香は彼の笑顔が大好きだった。 それも父親が全てをぶち壊した。 千秋の、愕然とした顔が忘れられない。 仕事の上でも父に協力していた千秋は、彼の連帯保証人になっていた。千秋に全てをなすりつけて父が蒸発したときの彼の表情。見開いたままの瞳。噛み締めた唇。 姉の家庭環境が崩壊するのを何とか食い止めようとしていたところだった。何とか義兄を説得してやり直させようとしているところだった。変わってしまった父を最後まで信じようとしていた。 千秋の人生は父のためにメチャクチャにされ、そして信じていた心さえも裏切られた。しばらくしてその事実を受け入れた千秋の顔にはなんの表情もなかった。悲しみよりも失望する気持ちが大きかったのかもしれない。父の娘の春香の前でも、怒りも、憎しみも、彼は決して出さなかった。 その代わり、母と春香の前から姿を消した。 自分の姉を死なせてしまった元凶なのに。 見るのも嫌な存在だろうに。 だから実際にあんな目つきで・・・さも嫌なものを見るように春香を見ているというのに。 あんな眼で見るくらいなら。 私のことなどほうっておけばよかったのだ。遅かれ早かれこのままだと施設に行くことになるだろう。どうせ行くことになるなら預かる必要なんてなかったのに。 学校を辞めて働いて一人で生きていく事だって・・・できるはずだ。 結局いつかは一人にならなくてはならないのだから。 ああ 嫌だ・・・。 春香は鏡の向こうからほっぺに手を当ててこちらを覗き込む、冴えない少女を見て、しみじみと思った。青黒く目のふちを囲むクマ。ここ数日でやつれた頬は白くなって赤みがない。口唇だってカサカサになっている上に、噛んだ跡が・・・・・・。 いけてない。 まったくもってよろしくない顔をしている。 昨晩あのまま泣き疲れて眠ってしまった。眠れないと思っていたけれど、朝日をまぶたに柔らかく感じ、ふっと目を開けて、ようやく自分が眠っていたことに気がついた。 見慣れない木目の天井に、おや? と首を傾げてそのまま目線を横のずらせば、やはりそこには見慣れない欄間と、白地に松の木が描かれた襖がある。反対側に頭をよじると、先程感じた光が障子をクッションにして柔らかく広がっていた。自分の目線の低さに、ベッドではないことを意識する。 ああ、そっか。ここはちーちゃんの・・・・・・。 途端、昨日の彼の氷で出来た屋のような冷たい視線が鮮明に浮かんできた。思わず背中がのけぞり、体がすくんでしまう。目が覚めた。 思い出すだけでなんという威力。 あの目つきの悪さは眠気をも吹き飛ばす。そういえば目覚ましを用意してなかったが、それがなくても問題なかったわけだ。 のそのそと重い体を引きずって布団を上げると、障子を開けて左右確認をした。なぜか不法侵入者であるかのように。そろそろとつま先で廊下を歩く。音を立てないように洗面所に向かった。 鏡に写る人物に「わっ」と声が出る。 まさかこれほど自分の顔が・・・・・・なんというか、酷いというか、冴えないというか、よろしくないというか・・・・・・ぶっちゃけ、ぶっさいくというか。不幸のオーラが全身をがんじがらめにして、臭気を周囲にまで放っていそうな雰囲気だ。ここまで酷い自分の姿ははじめて見る。鏡に向かって水をビシャッと叩きつけてしまった。 こんなことではいけない。 朝が来れば大概のことは忘れて、元気になれる。それが春香の自慢だったはずだ。 「しっかりしろ!」 自らに渇をいれるため、両手を頬にパチコーン!と当てた。 思わぬ衝撃がはしる。 その場にしゃがみこむ。くらくらする。悲しくなった。気合を入れようとしただけだったのに。勢いがつきすぎて火花が散るかと思った。 腫れ上がって一重になってしまった瞼だけでもかなり痛い状況なのに、さらにほっぺまで下膨れになってしまっては目も当てられない。 「ぎゃ、逆効果・・・・・・」 いやいや、下を向くな。 「何をやってる?」 背後から突然聞きなれない男性の声がした。 肩が反射でびくりと震える。 考えるまでもなく声の主は分かっている。この家には春香以外一人しかいないからだ。 けれどやはり、思い出の中のものより低くてクールな声は、聞くたびに体が萎縮してしまう。 「ちー・・・・・・あき叔父さん」 恐る恐る振り返る。 千秋と目が合った。 彼は、洗面所の入り口に、ドアを開いた側に体を凭れかけ、両手を胸の前で組んで立っていた。まだ眠そうな半分閉じられた瞳が、不機嫌そうにこちらに向けられている。春香と目が合ったのに気がつくと、先を促すように瞬きを一つ、落とした。 「え、えと・・・・・・あの・・・・・・」 ああ、またやってしまった。心の中で呟く。 「うずくまって、何してるんだ」 半眼のまま、千秋の眉間にシワが寄る。訝しがられている。心に、ひやりと冷たいものが落ちる。 朝から人の家の洗面所で叫んだあと、自分で頬を殴りつけた挙句、痛さのあまりしゃがみこむ・・・・・・。 春香は頬に熱が集中していくのを感じた。恥ずかしさに下を向く。これでは、超ド級の天然ではないか。 自分のものよりもふたまわりは大きい、裸足の足元が視界に飛び込んできた。それは、音もなくもう一歩踏み込んでくる。 「おい」 声の近さに肩が跳ね上がる。 見上げると、千秋はすぐ真横から春香を見下ろしていた。 二の腕に大きな手がのびてくる。掴まれ、引き上げられる。片手で、大して力を入れていないように見えるのに、春香の身体は簡単に持ち上げられる。 身体が傾ぐ。足が一瞬地面から離れそうになって、ふわりとした浮遊感のあと、千秋の両手が春香の肩をとらえた。 自分の足でちゃんと立つと、目の前には三つ目までボタンが外された、パジャマの胸元が、ドン、と至近距離で主張しているのにぎょっとする。 思わず一歩後ろに下がった。 千秋の手が動くのを、目の端で捉える。 おでこに、千秋の手の甲が当てられた。身体の具合をはかる動作のように。千秋の手は、寝起きだからだろうか、意外にも温かかった。 ぽかんと千秋を見返した。 その温度にも、千秋の動作にもおどろいた。 頭二つ分も上から見下ろす瞳とぶつかる。やはり、そこには剣呑さが窺える。触れた、手の温度と反比例して、とても冷たい眼差し。 えらい圧力だ。 昨日の千秋は伊達ではなかった。一夜明けても怖い。 春香は、見えない力に押されたように、さらに一歩、後ろに下がった。同時に、千秋の手が離れる。 この人のこんな目に慣れることは、ずっとないだろう。そう思う。 「フロ」 「え?」 春香はきょとんとした。 フロ? フロなら後ろの擂りガラスの向こうにある。 千秋の手がすっと上がって、人差し指がそのすりガラスを指した。さっき、春香のおでこに触れた、手。 「フロに入ると言ってるんだ。昨日入り損ねたから」 「あ・・・・・・」 「さっさとどけ。それともそこでおれが脱ぐのを見たいのか? 別に、構わないけどな」 有言実行と言うがごとく。春香が動く間もなく、千秋はパジャマのボタンに手をかけて、上から外していく。前をガバリと開くと脱ぎ捨てる。躊躇いもない。千秋の手はその勢いのまま、ズボンにいく。 春香はぎょっとした。 下着まで本当に脱ぎ落とそうとする千秋に、あわあわと脱衣所の入り口まで走り寄る。まだドアを開けて出て行く前に、衣擦れの音が止み、風呂場のドアが開かれ、バタンと閉じる音がした。 心臓が飛び出しそうだった。 足から力が抜ける。 またその場にしゃがみこみそうになった。そうさせなかったのは、閉じた風呂場の向こうから、シャワーの流れる音が聞こえてきたからだ。 脱衣所のドアを閉じながら、思う。 千秋にとって、春香の存在は、きっと、目に入ってきても認識されない。いないと同じ空気のような存在なのだろうか、と。 どうでもいい存在。 そう言われたような気がして、心が沈む。 起きたばかりなのに、もう布団の中にもぐりこみたくなった。 |