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「あの、パンがあったので、洋食にしちゃいましたけど・・・・・・」 和食のほうがよかったのだろうか。 目の前の人を見て、そう考える。 千秋の身体はまだ全体に湿気を含んでいる。自然乾燥のままの髪の毛は濡れそぼって、肩にはバスタオルがかかっていた。ときどき、髪の毛からこぼれおちる雫を、面倒くさそうにタオルで押さえている。だが、目線は右手に握られた新聞から動かない。 「別に」 返事もそっけない。 千秋が風呂に入っている間に、冷蔵庫を開けて勝手に物色したところ、パンが入っていた。今からご飯を炊く時間もないことだし、と主食にあわせてベーコンを焼き、目玉焼きを作り、サラダを添えた。 風呂から上がった千秋は、それをチラリと一瞥しただけで、手もつけずに新聞を読んでいる。寝起きが悪いとか、そういうことは関係ないようで、風呂に入っても相変わらず不機嫌そうな顔をしているから、何か問題でもあるのだろうかと、気になる。いや、単なる無表情なのか。 一応、食卓には着いているから、食べる気はあるのだろう。 先に食べ始めるのもなんだか悪いような気がして、千秋が手をつけるのを待っていたが、それも気詰まりになってきた。先に食べることにする。お箸を持ち上げて、ふと気がついた。 「あ、目玉焼き・・・・・・」 春香の呟きに、千秋も顔を上げる。 「目玉焼き、半熟じゃなくて・・・・・・硬くしちゃった」 焼きすぎたわけじゃない。でも、忘れていた。 「ああ」 千秋は、目玉焼きに目をやると、無感動に頷いた。 「半熟のほうが嫌いだから」 「え」 思わず声が出る。千秋が怪訝そうな顔をした。 「同じなんですね」 「何が」 「同じです、お母さんと。半熟が嫌いなところ。私が自分の好みで半熟のゆで卵とか、目玉焼き出すと、いつも嫌な顔してました。だから、いつもの癖で硬くしちゃって失敗したと思ったんですけど・・・・・・よかった」 やはり、そういうのも血のつながりみたいなのがあるのだろうか。なんだか、うれしくなって、笑みがこぼれる。千秋と夏美のつながりが、自分とのつながりのように思えるのだ。 「卵が柔らかいのが嫌なのかと思えば、オムレツはとろりと半熟がいいとか言ってました、お母さん・・・・あ、いえ、夏美さんが。なんか、変なこだわりですよね」 「何で名前で言い換えるの」 「な、なんとなく・・・・・・」 「必要ないだろ」 なんとなく、千秋の前で夏美のことを「母」と呼ぶのは躊躇う。血のつながりのない、憎い男の娘が、何をぬけぬけと。そう、言われたらどうしようと思って。千秋の前では、無条件で縮こまる自分がいる。 千秋の手から新聞が離れる。ようやく、パンに手がのびる。食べる気になったようだ。目玉焼きに醤油をかけるのを見て、春香はまた、同じだ、と心の中で呟いた。 硬い黄身に醤油。 繋がるかけらは、案外多いのかもしれない。 夏美から、たくさん料理の作り方を教わった。最初は確か味噌汁の出しの取り方からだったと思う。十歳にも満たなかった春香は、まだ包丁の持ち方も危なかしい手つきで、夏美はハラハラと横で声を上げていた。だが、声を上げると、春香の手元がびくっと震えるのに気がついて、それからはよほどのことが起こらない限り、黙っていた。ただ、その視線だけは痛いほどだったが。 次に、スクランブルエッグ。混ぜるだけだったから簡単だ。 その次に、目玉焼き。焼くだけ。 出汁まき卵。少し、難しくなる。 半熟のふわふわオムレツ。これは、未だにうまくできるか自信はない。どうしても、硬くなってしまう。 歳を重ねるごとに増えていく料理の数だけ、夏美とのつながりを表していた。春香の作る料理には、夏美の味が反映されているのだから。 この、目玉焼きのように。 春香も目玉焼きに醤油をたらした。 「あ、今日、何時くらいに帰ってくるんですか?」 晩御飯のことを考えていた。 今日から家事全般をこなさなくてはならない。仕事から帰ってくる千秋の時間に合わせて、ご飯を作ったほうがいい。 「何時・・・・・・?」 また、千秋が怪訝そうに言った。 「はい」 「どこにも行かない」 「え? 仕事は? 今日、平日・・・・・・」 「ああ、仕事は家でしてるから」 びっくりした。昔と同じように、千秋は会社に勤めているものだと思っていた。一体、なんの仕事をしているんだろう? 「家でできる仕事? なにか自営業ですか? それとも、パソコンのお仕事とか・・・・・・あ、物を書く仕事とか?」 ふと、口を噤む。千秋が面倒くさそうに目を逸らすのが見えたからだ。 「あ、ごめんなさい・・・・・・」 お箸が、お皿に触れる音がする。それが気まずさを増長させた。 千秋は、ため息をついた。 「ここにいたいなら、あれこれ詮索するな。鬱陶しくてかなわない」 「詮索じゃありません・・・・・・ただ、気になっただけです」 「気になって、何でも尋ねるのを詮索って言うんだ」 そっけなく言い切る千秋に、言葉が途切れる。 詮索じゃなくて、知りたいのだ。何も知らない、千秋のことを。この四年間の彼を。春香の知らない、変わってしまった四年間を。単なる好奇心なんかじゃない。 「だって・・・・・・知らないから、あれからのこと、何にも。千秋叔父さんのことが知りたいんです」 「ずいぶん、ませた意見だな。正面切って、あなたのことが知りたいなんて、言われたのは初めてだ」 千秋は口唇をゆがめた。 「別に。知るようなことなんてないよ。借金を返すのに奔走して、あれこれ仕事しているうちに、今のようになった。それだけさ」 あとは知る必要はないだろ。言われて、それ以上尋ねることができなくなる。 「ほんのしばらくの付き合いなんだ。ここにいる間に必要じゃないことを、聞かなくてもいいんじゃないか。その方がお互いすっきりと付き合えるだろ。お前のためでもある」 「私のため?」 「そう」 ダークブラウンの瞳が鋭さを帯びて、真っ直ぐにぶつかった。 「むやみに情が移らないほうがいい。どうせ一時なら」 その方が、別れが楽だから。今後、おまえの人生にはこんな別れがたくさん待っているから。だから、慣れておけ。 そう、言いたいのだろうか。 「じゃあ、今必要な質問、します」 「何だ」 「好きな食べ物はなんですか?」 「は?」 「家事、私がやるんでしょう。だったら、必要な質問だと思って」 一瞬、千秋は息を詰まらせて、箸を置いた。 「・・・・・・別に、何でもいいけど。まあビールに合うような和食だったら大体」 「晩酌するんですね。分かりました」 頷く。確か、純和風なものが昔から好きだったような気がする。天ぷらとか。出汁のきいた煮物とか。その辺は、変わってないんだな、と実感する。 天ぷらと、お吸い物。 夏美の得意分野だった。でも、春香はどちらかというと、洋食系のほうが得意だ。これは努力しなくては。 「じゃあ、嫌いなものは?」 「・・・・・・ない」 一言で言い切った割には、間が空いた。 「昔、ピーマンが嫌いだったのは、直ったんですね・・・・・・」 千秋の眉間にシワが寄る。それを見て、失敗したのを知る。 でも、やっぱり、その辺は変わらないのか。今でも、ハンバーグに細かくミキサーで砕いたピーマンが入っていても、敏く嗅ぎ分けて、鼻にシワを寄せるのだろうか。夏美は容赦がなかったから、よくその手を使っていたが、千秋はどんな姿のピーマンでも、嗅ぎ分けて嫌な顔をしていた。 思い出したら、顔が緩んでしまう。 チッ。 千秋の口から、舌打ちがもれた。 「ずいぶん、明るく前向きなことだな」 春香の顔から笑顔が消えた。頬が引きつって固まる。 ―――おまえのせいで、母親が死んだっていうのに。 千秋の揶揄を含んだ言葉に、身体が震えた。 はっきりとした、春香を傷つけるための言葉だった。 それは、胸に突き刺さって、奥深いところまでえぐった。 「あたし・・・・・・そ、それだけが、とりえなんです! 母さんにもいつも、私の笑顔を見ると安心するって言われて・・・・・・だからそれだけは、忘れないようにしようって・・・・・・っ」 そこまでしか、声が続かなかった。喉に何かを無理やり詰められたように、息が苦しくなる。 泣くな、こんなことで。 この人の前では、泣いてはいけない。 頭のてっぺんがひんやりとしてくる。のどの奥からわななきが上がってこないように、口唇を噛み締めた。 千秋が、すっと目を逸らした。 |