「お前の処遇とやらが決まるまでだ」

 千秋の声は硬く冷たかった。
 もう日付が変わろうとしている深夜。ひやりとした冷気が肩をなでる。春香の体に訴えてくるこの寒々しい空気は、障子の隙間から吹き込んでくる夜風のせいだけではないはずだ。
 目の前にいる千秋の声は、部屋の温度さえも下げてしまうほど冷たく感じられた。そしてその眼差しも。
 春香は黄色く変色した畳の、ヘリの模様をじっと見詰めたまま俯けた顔を上げることが出来なかった。
 きゅっと引き結んだ口唇から、思わず唸り声がこぼれそうになる。
 ただただ、目の前の千秋の視線が恐ろしくて。
 そして、罪悪感にさいなまれて。
 頼むからこっちを見ないで欲しい・・・、心の底からの願いはずっと叶わずにいる。

 叔父の千秋に会うのは四年ぶりだった。
 彼は確か春香とは12歳離れていたから、今年28歳になるはずだ。久しぶりに見た彼は昔の思い出の中より、当然のことながら年を取っていた。けれど、もともと童顔な彼は、老けたという印象がない。ちょっと大人っぽくなったなぁ・・・と、頭の片隅で思った程度だ。16歳の子供にそんなことを思われてもうれしくはないだろけれど。
 少し茶色がかったさらさらの髪の毛が四年前より短くなっているくらいで、千秋はほとんど変わっていない。大きいのに涼やかな印象を与える目や、黒よりも少し柔らかい光を帯びたダークブラウンの瞳。それと対になって納まっている形のいい眉。キリッと引き締まった頬も、春香の覚えているままだった。
 しかし、かもし出す雰囲気は、以前と決定的に違う。
 明るくて、いつも朗らかだった千秋。
 口唇の口角が笑っているときのように若干上がっているため、昔は常に柔らかく微笑んでいるよう見えたのに、今では歪んだ嘲笑を形作っているよう見える。全く表情のない顔に、冷たく突き刺さるような視線を放つ瞳。
 それがとてつもなく堪えた。
 無表情な顔が、無言で春香を責めているように感じる。
 こうなったのは誰のせいだ。そう、問いかけられている気分になる。
 この四年、ずっと千秋に再会したいと思っていた。でも変わってしまった千秋を見ると、とても、つらい。再開がこんなに辛いとは思っていなかった。
 春香は口唇を噛み締めた。何度も何度も同じことをしているせいで、下唇に傷ができている。血が固まってかさぶたになっている。カサカサとした死んだ組織が舌に伝わった。口唇を潤すために少し舐めるように舌を動かすと、その反動で肩より少し長いストレートの髪の毛が頬にかかった。
 はらりとかぶさる髪の隙間から、千秋の姿が見える。座布団も敷かずに畳の上に正座して、喪服姿で春香の正面に座っている。膝の上に置かれた筋ばった手は両方とも拳が握られていた。それすら彼の怒りが込められているように見えて、春香は直視できずにまた畳に目を落とす。
 実際、彼は怒っているのかもしれない。
 いや、怒ってはいなくとも、まず間違いなくこの状況を疎ましくは思っているに違いない。
 同じく、制服を着て正座している春香の太ももの上で組まれた両手が、じっとりと汗ばんで久しい。汗ばんでいるくせに、指先がかじかむほど冷たいのは極度の緊張からくるものだった。血の気が失せて白っぽくなった手をぎゅっと握り締めると、血の巡りの悪い指先がわずかにずきりと痛んだ。

 ふっと空気が漏れる気配がした。
 千秋が短く息を吐き出したのだ。
 春香は反射的に体を強張らせた。ぴくり、と拳が太ももの上で動く。
「とりあえず」
 不機嫌な声が、緊張した空気を打ち破り、また新たな緊張を生む。
 恐る恐る顔を上げる。
 こちらをじっと見下ろしていた千秋の視線が、変わらず春香を突き刺した。思わず息を呑む。どっと冷や汗が出るのを感じた。性急に動くことが出来ずに、ゆっくりと顔を下に向ける。
 人の視線から逃げるというのはなんて気まずい動作なんだろう。そう思ってはみても、千秋のこんな冷たい目を見返すことは、春香には到底不可能なことだった。
「ここに居るならそれなりに働いてもらう。家事全般はお前にやってもらうことにする」
「は・・・い」
 のどの奥までカラカラで、ろくに声も出ない。春香はなんとか返事だけを返す。それも掠れてしまい、気まずさが募る。
「学校は春休みだから問題ないだろう。あの様子じゃ新学期が始まるまでには片がつくとは思えないけど・・・ここから通うには遠すぎる。短期間の間に何度も編入試験を受けて転校するわけにもいかないし、少し休むことになっても我慢しろ」
「はい」
「一ヶ月もあればお前の行く場所も決まるだろうから、それまでのことだがな」
「・・・はい」

 ―――それが、例え施設に入ることになろうとしても、俺は知らない。

 千秋の声無き言葉が聞こえてくるようだ。春香は項垂れたままただ返事をすることしか出来なかった。
「じゃあ、とりあえず。寝ろ」
 言い放って千秋はすっと立ち上がった。もう用は無いとばかりに春香に一瞥も無く、障子を開けて出てゆく。後ろ手に閉められた障子は、スパンと音を立てて元の位置に納まった。


 シンと静まり返った室内で、しばらく春香は動くことが出来なかった。
「ああ・・・いけない」
 普段は恐らく客間として使われているのだろう和室の中央で、ぼんやりと座っている自分に気がついたのは、千秋が出て行って随分経った頃だった。壁にかかっている時計を見ると30分も我を失っていたようだ。
 ぼんやりとした頭を振り切るように、重たい体をゆっくりと動かす。
「わわっ」
 立ち上がるために片膝を立てたところでよろめいた。足先の感覚が全くない。長い時間正座していたせいで、しびれてしまっている。その事にも気がつかなかった。
「う・・・っ」
 力が入らないのを構わず立ち上がろうとして、足首がぐにゃりと内側に崩れる。畳の上に転がり両手をついて四つん這いになる。しばらく体を支えていると、続いてあの痺れが取れるとき特有の、突き刺さるようなぴりぴりとした感覚が襲ってきた。
 一ミリでも動こうものなら悶絶。春香は四つん這いのまま固まった。思わず両手の指先に力が入る。ギリッと畳に爪がめり込む。た、耐えろ・・・! 自分に必死に言い聞かせる。
 鼻のすぐ横にある二の腕を覆う制服の袖から、今日一日で焚き染められたようにこびりついた線香の臭いがきつく漂ってくる。春香は痛みと臭いに鼻をしかめた。
 なんだか情けない格好だな、と思う。このままではまるで漫画に出てくる、絶望に打ちひしがれて動けぬ悲劇のヒロインのようだ。
 まさに今の自分そのまんま。
 片手を前方に伸ばすと、きっと完璧だ。ドラマやお芝居だときっと効果で波しぶきか木枯らしがバックに流れるのだ。いや、案外薔薇の花びらが舞い散るのもありかもしれない。人間が何かに堪えねばならないときは、きっとこの体制をとってしまうのだろう。今の自分のように。
「んなわけないでしょ・・・」
 こんなときにこんな変なことを考えている自分が情けなくなってくる。きっと疲れすぎているんだ。だから、今は何も考えないほうがいいんだ。
 春香は頭の中を空っぽにするべく、痛みに耐えて立ち上がると、痺れを追い払うためにぴょんと軽くジャンプをした。そして、盛大に顔を顰めた。




四日前に母が仕事先で倒れた。
正確には、事故だった。
その数日前から体調のよくなかった母、夏美は、立ちくらみをしたのか階段の一番上に足をかけたところでよろめいて、そのまま一番下まで落下した。すぐに救急車に運ばれたものの、その翌日には息を引き取った。外傷は右手首の骨折だけだったが、後頭部を強く打ち付けていた。
打ち所が悪かった。
病院に駆けつけた春香に、医者は沈痛な面持ちで呟いた。
春香のうちには父親がいない。春香はまだ高校生になったばかりで、アルバイトをして少しばかり家にお金を入れるように頑張ってはいるものの、大した額ではない。母親は朝から晩まで働き通しだった。女二人でつましく食べていくだけなら、なんとかやっていけるくらいの収入はあった。でも、夏美は春香の将来の学費を見越して、自分の身を削ってまで働いたのだった。
過労とストレスが彼女を追い詰めた。
階段を踏み外して亡くなるなんて。
「だから、大学まで行かなくていいって言ったのに・・・」
 夏美の横たわる霊安室の中で、愕然と立ち尽くす春香の呟きは、そっとレノリウムの床に吸い取られていった。




 慌しくお通夜と葬式が執り行われるのを、ぼんやりとした目で見ていた。たくさんの人が春香に頭を下げていくのを頭の片隅で理解はしていたが、春香はただ棺の前で座っていることしか出来なかった。
「全く困ったことになったわね・・・」
 親族控え室で父の妹である真知子叔母さんが苦々しく呟いている。
「兄さんはあれから姿を消したまま連絡も無いのか」
 その隣で、父の弟の義文叔父さんがぬるくなったお茶を啜った。
「あるわけ無いでしょう? 借金残して、散々周囲に迷惑かけて蒸発したんだから。出て来れるわけが無いじゃないの。生きてるのかどうかすら分からないわ」
 春香はそこでもただ黙って座っていた。叔父さんと叔母さんの声を聞いたのは一体何年ぶりなんだろうか。そう、まさに今叔母さんが言った、あの時から会っていなかった。
 父親の正文が六年前に事業に失敗して、多額の借金を残したまま蒸発した。それまで優しくしてくれていた叔父と叔母は、手のひらを返したように春香と夏美のことを無視した。
 父のしたことを思えば、しかしそれもしょうがないことのように思える。

 父はどちらかというとお人よしで、人にだまされやすい人間だった。
 春香は実は母の夏美と血のつながりが無い。夏美は春香が幼い時に父と再婚した女性だった。彼女は父よりも6つ年下で、春香にもとても優しくしてくれた。二人の結婚が、まだ物心つく前だったので春香も違和感なく受け入れることが出来た。
 裕福だったわけではないが、仲のよい家族だった。いつも笑いが絶えない家だった。幸せだと思っていた。
 しかし父はそう思っていなかったようで、自ら起業して成功することに一生懸命だった。最初は苦しくてもその内だんだん波に乗ってくると、たくさんのお金が手に入るようになっていった。その頃から父は変わってしまった。
 以前よりも広い家に住み、贅沢な食事を好み、仕事上の人付き合いを何よりも優先させるようになった。家族よりも。そして毎晩お酒を飲むようになって、愛人を持つようになった。そのことが夫婦の間に亀裂を生み、家庭に摩擦が生じ始めた。すると仕事上のストレスが後押ししたのか、母の苦情が面白くなかったのか、父は母に暴力を振るうようになった。
 あのときの泣いている夏美の顔は、思い出すと今でもつらい。自分の父親が彼女を苦しめているのに、子供だった自分は何も出来なかったのだ。
 やがて事業に失敗した父親は、春香と夏美の前から姿を消した。多額の借金を残したまま。あのとき、置いていかれた衝撃よりも、解放されてホッとした気持ちのほうが大きかった。これ以上夏見の苦しむ姿を見なくて済むからだ。
 本当なら春香からも解放されて、一人になって自由に再び人生を歩いていくほうが、彼女にはどれだけよかっただろうに、夏美は春香を手放さずにそのまま育ててくれた。本当の娘として心から春香を愛してくれたのだった。
 そして、頑張って、頑張って・・・死んでしまった。

 私が殺してしまった。

 四角い箱に収められた夏美。黒で縁取られた額から笑う母。
 春香はまだ一度も泣いていない。こんな薄情な娘のために死んでしまった母。春香の頭の中には、どうして・・・、という言葉がずっと繰り返していた。
「春香のこと、どうするのよ?まだ未成年なのに」
「うちは三人も子供がいるんだ。とても無理だよ」
「あら、うちだってまだまだこれから手間のかかる子供がいるのよ。そんな余裕無いわ」
 二人の声がだんだん大きくなってくる。
 先程から、春香の今後の処遇をどうするか、かれこれ一時間近く話されているのだった。会話の当事者であるはずの春香は、しかし口を挟むこともできず、目の前に置かれた湯飲みを見つめた。
 一度も手をつけないまますっかり冷めてしまったお茶。そこに、自分の影が映っている。揺らぐこともなく、ぴんと張り詰めた、黒い、影。その輪郭を何度も何度も目でなぞるうちに、だんだんと自分も、のっぺりと薄い影のような存在になってしまう気がする。
 気分が悪くなってきた。
「外まで聞こえてますよ」
 すらり。ためらいを感じさせない音と共に、ガラス障子が開かれる。
 そこには背の高い男性が黒いスーツを着て立っていた。その人物に見覚えがあった。春香は、目を見開く。
「な、なんですか?」
 叔父さんが慌てて男性に向き直る。突然入ってきたことに対して面食らったのと、自分の醜態を知られたことに、苦々しい表情を浮かべて、男性を見上げる。
「失礼します」
 男性は、薄いフレームの眼鏡の奥から涼やかな視線を叔父さんに向けて、すっと動いた。そして春香の前の座布団に座る。
「ご無沙汰しております。夏美の弟の千秋です」
 千秋は、叔父さんと叔母さんに軽く頭を下げた。叔父さんと叔母さんは、よほど驚いたのか、ぱちくりと目を何度か瞬かせて千秋を見詰めた後「弟さん・・・」と小さく呟いた。彼らは過去に数えるほどしか会ったことがなく、顔を見ても思い出せなかったのだろう。
 よく考えれば、彼は夏美の唯一の血の繋がった肉親だった。今日ここに来ていておかしくはないのだ。でも、なんとなく、姿を現さないのでないかと思っていた。昔はよく面倒を見てもらったけれど、父が蒸発したときから、夏美とも連絡を取っていなかったようだった。だから、千秋とはあれ以来実に四年ぶりの再会になる。
「ちー・・・」
 ちーちゃん、と昔の呼び方のまま彼に声をかけようとして、口が固まる。こちらに顔を向けた千秋の、突き刺すような瞳が春香を射竦めた。鋭い、ほとんど敵意に近い感情を含んだ視線だった。
 千秋は再び叔父さんに顔を戻すと静かに言った。
「ここで話していても春香さんの今後のことは短時間で決められることではないでしょう。とりあえず、しばらくは私の家で彼女を預かります」
 引き取ることは不可能ですけれど。と、千秋は付け足した。


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