飯豊連峰縦走と石転び沢滑降

 確かに石転び沢はダイナミックな素晴らしい沢でした。しかしまたやってしまったのです。1年半前に抜釘したばかりの左脚脛腓骨を再び骨折。思わず心が躍ってとばしすぎたことを後で悔いてはみても・・・。


日時  1999年5月2日(日)〜5月4日(火)

行先  福島県山都町川入より飯豊連峰縦走、石転び沢滑降

日程と記録

2日(日)

 10:10 川入出発 --- 10:34 御沢小屋跡 --- 11:25 下十五里 --- 11:45 中十五里 12:10 --- 12:35 上十五里 --- 13:10 1265m地点 13:40 --- 15:00 地蔵山 15 :20 --- 16:08 三国岳、三国小屋泊 

 山都は蕎麦どころのようだ。道すがら「蕎麦資料館」の道標と蕎麦屋の看板を沢山見る。下山後はこの蕎麦とそして温泉が楽しみだ。川入より奥の落石の転がる細い道を進むとやがてキャンプ場に着いた。ここに車を停め、朝7時のさわやかな空気を吸いながら、草原で仮眠をとる。

 相棒の呼ぶ声で目覚めたとき、僕は妖精の夢を見ていた。その内容はもう思い出せないが、いささかエロチックな印象と寝汗だけが、覚醒後に残った。はじめは陰になっていた寝場所も、その頃には高くなった太陽の直射日光を受けて、快適な昼寝を提供する場所ではなくなっていた。

 10時すぎにキャンプ場を出発する。途中御沢を通り過ぎて堰堤まで行ってしまい、引き返す。いつもよりも重めの荷が懐かしい。昔はよくこうして数日にわたるスキー縦走をしたものだ。体力は落ちているはずだが、そんなに苦ではないことを喜んだ。

 下十五里・中十五里・上十五里と順調に稼いで行く。やがて雪田が現れ、それがつながってゆく。1265m地点で大休止をとり、シールを装着した。ミシミシとスキーを踏んで登る。

 地蔵山は真っ白で気持ちの良い山頂だった。しばらく展望を楽しんだ後、三国岳との鞍部に向かってつかの間の滑降を楽しんだが、鞍部からはなかなか厳しい岩稜帯で、スキーは担ぎとなった。

 

 三国岳からは明日たどる種蒔・飯豊・御西方面や大日岳が雄大に尾根を延ばしているのが望めた。まだ陽が高く、暖かな山頂はそれらをぼんやり眺める幸せな時間を与えてくれた。

 

 ゆっくり小屋に入り、1階の片隅に居場所を作る。水とラビオリを作りながら、2合の晩酌を楽しんだ。この夜の同宿者は4パーティ程度で、ゆったりと眠ることが出来た。

 3日(月)

 4:00 起床 朝食 5:50 出発 --- 6:30 七森 --- 7:00 種蒔山 --- 7:15 切合小屋 7:40 --- 8:20 姥権現 8:30 --- 10:00 飯豊山神社 10:10 --- 10:30 飯豊山10:45 --- 11:35 御西岳 11:45 --- 11:55 御西小屋 12:20 〜-- 14:00 1850m鞍部 --- 15:00 烏帽子岳 〜 15:45 梅花皮岳 --- 16:10 梅花皮小屋 16:25 〜 16:35 骨折、転倒、ビバーク 21:00 就寝

 天気が悪化しそうなので予定よりも早めに起床した。明日は山は大荒れだという。窓から覗く山々は朝食をとっているうちにやがて霧の中に隠れてしまった。隣のパーティーは、早速瘤岩方面に下山すると言っている。僕達はいささか心細かったが、大日岳往復をカットして縦走を続けることにした。今日中に梅花皮小屋に着けば明日は悪天になっても沢を下るのみだ。どうしても進めないようであればトレースもはっきりしているようなので引き返そう。

 種蒔山方面はやはり岩稜帯でスキーはひたすら担ぎとなる。このあたりに関してはあまりスキーを持ち込む意味はないが、残雪豊富な石転び沢の滑降が期待を裏切らないだろうことを慰めに重荷に耐える。山頂付近はガスっているがとりあえずは視界は保たれている。それにしても飯豊本山や御西岳などのこれから踏んで行くピークからの眺望が無いとしたら、ロングルートを辿る意味があるのか?

  僕達がたどり着いたとき切合小屋には2人が残っているだけだったが、置かれた荷物の様子を見ると超満員のようだった。みんな飯豊本峰のピストンに出掛けたらしい。内部でしばらく休憩をとって、逆コースなら快適な滑降が出来そうな雪壁をゆっくり登る。やがて姥権現、御秘所といったいわくありげな所を通過した。そういえば風化花崗岩に刻まれた襞の趣がなんだかなまめかしく感じられないこともない。

 

 飯豊山神社のお社はどれだったのか。一つは小屋らしきもの、もう一つはコンクリート作りの倉庫のようだった。夏には仮設のお社が建つのかもしれない。風の強いところだった。

 それにしてもなんとラッキーな巡り合わせだったろうか。僕達が飯豊山頂に立ったとき、それまでしつこくピークに絡んでいた霧がサッと晴れた。御西から大日、そして烏帽子岳にいたる山並みが豊富な残雪を置いて、そのフラクタルな雪型が美しい。少し霞んで見えるのも奥ゆかしいというべきだ。僕は驚喜した。今日の天気は下り坂ではなかったのか?この一瞬があっただけでも来た甲斐があるというものだ。しかし有り難いことにこの天気は一時的なものではなかった。

 さて、遠目にはなだらかでスキー向きに見えた本峰から御西岳へのスカイラインには、残雪はほとんど無く、やはりスキーは担ぎとなった。ただ、ここからは嶮しいところはほとんどなく、展望を楽しみながら地道に進む。真っ白く見える御西山頂ではスキーを履いて小屋までの一滑りを楽しんだ。

 御西小屋では数パーティがくつろいでおり、山スキーの登山者も1パーティーあった。僕達も比較的空いている1階に降りて休憩をとる。暖かくて快適だ。そういえばここは雪の下なのだ。

 先客たちを尻目に早々に腰を上げる。小屋から烏帽子方面の鞍部までは傾斜は緩いが気持ちの良い滑りを楽しめた。短い雪壁を担ぎで登り、小ピークから再びスキーを履いて滑降する。次のピークは右側をトラバースしてスピーディに越えることが出来た。小屋で出会った山スキーの4人パーティーが僕達の後を追っていたが、彼らはほとんどの行程をシールでこなしているようだった。だから登りは向こうが早く、滑りはこちらが早かった。僕達も1800m鞍部からはシールを着けた。

 

 烏帽子岳手前の1850m鞍部まではシールを装着したスキーが有効だった。ここで大休止をとり、スキーを担ぐ。笹原と雪壁を登って烏帽子岳の頂上に立った。ここで後続パーティーに道を譲る。彼らはシールを貼ったままのスキーで滑っていったが、ほどなくツボ脚に切り替えていた。梅花皮小屋まで担ぎとなることは逆コースの登山者に聞いて覚悟していたがやはり。

 梅花皮小屋で再び例のパーティーに追いつく。まだ4時過ぎだ。このままこの新しいきれいな小屋に泊まって疲れをいやすこともできるが、もし明日の天気が大荒れになるのなら、これから下ってしまった方がいいかもしれない。彼らも同様のことを考えて一足先に降りていった。僕達はしばらく休憩をとってからスキーを履く。石転び沢は傾斜も広さもそして深さも一級の素晴らしい沢だ。雪を取りに外に出てきた小屋の宿泊者と少し言葉を交わしてスタートする。

 相棒がビデオを構えていた。はたして僕はカメラを前にしていい格好をしようと思っていたのだろうか?滑り出しの雪質はそんなに悪くなかったので、やはり山の雪をナメていたのだろうか?後で考えると、我ながらかなりスピードが出てしまっていたように思う。滑るほどに傾斜が増していったのだから・・・。

 ターンはジャンプ系のターンだった・・・。昔の僕ならいつだってベンディングターンだった。だがいつの間にかゲレンデで格好良く見えるターンに飼い慣らされてしまっていたらしい。実際はここは騙し騙し滑るべき場所だったのだ。だがこのダイナミックなシチュエーションの中では、我知らず心が躍ってしまってもしかたがないだろう。その時はここに相応しいダイナミックなターンを決めたいという衝動が僕を不注意にした。いや、むしろ事故の直前、僕はやばいと感じて制動をかけようとしたのだ。だが引っかかりやすい雪の中での踏み切り。あっと思ったときには左脚が雪の中に潜って転倒してしまっていた。一回転して止まったときには、一度経験したことのあるあの強烈な痛みと膝がフラフラ揺れる不快な感覚があることに気がついた。全ては一瞬の出来事。「またやってしまったのか?だがこれは夢ではないのか?こんなに簡単に折れてしまうものなのだろうか?」自問自答を繰り返すが、どうやら夢や幻ではないらしい。僕の左脚は確かに折れていた。先行パーティーが僕の身に起こったことなど知らずに沢の底のほうで小さくうごめいているのが見える。ここは最も傾斜のきつい場所だ。

骨折の瞬間(QT Movie 1.5MB)

 相棒を呼んで、応急手当をしてもらう。ストックの副木と銀マットのギプスだ。そして無線での非常通信を行なってもらうが、誰もこの電波をキャッチしてくれなかったらとの不安が一瞬心をよぎる。情けないことだが自力下山は到底無理だ。いい気になってこんな山奥まで来た自分の無責任さと無力感を感じて情けなくなる。だが幸いすぐに応答が入って、小国警察署と連絡が取れた。今日の救助は無理ということで、その斜面でビバークをすることになったが、先ほど言葉を交わした梅花皮小屋の宿泊者も電波を傍受して3名が救援に駆けつけてくれ、雪洞掘りを手伝っていただいた。この人達は地元山岳会の方達のようで、山岳救助隊とも懇意のようであり心強かった。またツェルトは持っていたが、テントをお借りした。その間僕は迫り来る夕の寒気の中でシュラフとツェルトにくるまってガタガタ震えていた。それにどうしたわけかやけに息苦しく、陸に上がった魚のようにしきりにあえいでいたのだった。もうこの遊びも潮時かなと思いながら・・・。

4日(火)

 3:30 起床 5:00 朝食 6:20 山岳救助隊到着、7:00 出発 --- 11:00 温身平、救急車によって病院に搬送

 眠っている間は大怪我にもかかわらずまずまず快適だったと言っていいだろう。一時激しかった雨もすぐに止んで、風で飛んでくるザラメ雪がパラパラとテントを叩くのみだ。ただ兼用靴の中で左脚が腫れてきて、甲の部分が痛くて仕方がない。相棒を起こして銀マットのギプスを少しめくりあげてもらい、バックルの位置を直すと少しましになった。しかしそれでも1時間もするとまた痛みだし、何度か目を覚まして、その度に相棒の世話になった。そのうち靴の設定がスキーポジションになっていることに気がついて、これをウォークポジションに変えると脚全体のホールド感がフッとゆるんで楽になった。

 3時30分頃梅花皮小屋宿泊者の関係者(でおそらくは地元山岳会の有力者?実は連絡関係は全て相棒がやってくれているし、僕は負傷してあえいでいるのでそのあたりのことが判然としないのだが)の鈴木さんという方から連絡が入った。山岳救助隊1次隊は1時30分頃から行動を開始していただいているようである。ここへの到着は6時頃になるだろうとのことで、迅速な対応に感謝した。救助隊到着までに朝食をとる。雑煮だったが、今日は便意は御法度なので、餅は2個にとどめておく。小便はコッヘルにしたが、たっぷり500cc位はあっただろう。気の毒にこれは相棒に捨ててもらった。

 梅花皮小屋宿泊者達が下山途中に我々のビバークサイトに寄って、救助隊が動きやすいようにテラスを広げてくれた。やがて到着した5名の救助隊の方たちは陽気で、頼もしく感じられる。天気もとりあずは悪くなさそうだ。僕の搬送方法はレスキューハーネスによる地上搬送、つまりおんぶという事になった。脚がブラブラ揺れる事を思うとぞっとするが、仕方あるまい。ヘリコプターはスタンバイしているらしいが、空港周辺の視界が無く、現在のところ飛行不能とのことだった。

 救助隊はビニールの副木を用意されていた。脚をすっぽりと覆い、空気を注入して固めるものだ。便利な道具があるのだなと思った。これならレスキュー用品としてザックの隙間に忍ばせておいてもそれほどの荷にはならない。ただ兼用靴は大きすぎてこの副木の中に収まりきらず、結局ガムテープでグルグル巻きにして固めることになった。また我々の応急処置もまずまず適切だったようで、それをそのまま使えないかと思案してもおられたようだ。

 「身長は何センチだ?170?俺と同じだな。あまり背が高いと脚を擦るからな。体重は?60弱か。俺より軽いね。」後で聞いた話だが隊長の井上さんは昭文社の飯豊の山岳地図の著者らしい。(井上さん筆の今回の救助記録はこちら。救助活動の詳細な記録と、クリアな写真も掲載されています。)ガッチリした体躯の気さくな人だ。石転びの急斜面はこの人の背に負ぶさって下ることになった。「確保?まあ、飛ばされるときは飛ばされるからなあ。」ということでシュリンゲやロープの確保はせずに他の2名に先導されて下りはじめる。左側を下にした横歩きの状態で、力強く注意深い一歩一歩で降りて下さった。急傾斜をやり過ごすと、負い手は交代になった。

 傾斜が緩くなるとエアマットのスノーボートに横たわっての搬送になった。はじめは快適だったが下部になるほどデブリがひどく、ボートは激しく揺れた。途中から2次隊も加わってそのスピードはなかなかのものだった。後で相棒が「小走りでないと付いてゆけなかった」と言っていたくらいだ。また僕はシートくるまれていたのでよくはわからなかったが、搬送中にも雪崩が襲ってきたようだ。「落!」という叫びと共に一瞬激しく加速した。シートの隙間からは、後ろを振り返りつつ走る隊員の姿が見えた。そしてやがて僕の顔の上に雪の飛沫が降り注いだのだったが、後で相棒に聞いた話だと「直径2mほどのブロックが僕の5m後ろで止まったんや!」というきわどい状況だったらしい。

 沢の下部では左岸の登山道を再びおんぶで下ることになった。しかし道は非常に原始的なもので、ほとんど踏み跡のようなものだった。岩だらけで大抵沢に向かって傾斜しており、雪で倒れた潅木が道をふさぐなど障害物も多く、湿って滑りやすい。そのうえ、僕の患部は左脚なのだが、これが左岸の斜面と何度も接触することになるのだ。緊張させられるルートが続き、距離の長短にかかわらず負い手は激しく息を吐きながら頻繁に交代した。長身の負い手はこちらも楽なのだが、背の低い負い手だと左脚が岩などに接触したり、ハーネスの具合が変わって、男の大切な部分が圧迫されたり、あるいは揺すりあげられたりして、絶叫することになった。しかし、本当に皆さんにはよくしていただいた。救助隊に来ていただかなかったら、今頃は野垂れ死にしていても仕方がないだろう。

 堰堤の階段を下りてしばらく林道を進むと、樹の間から救急車や、それから全然歓迎しないが、テレビカメラが待っているのが見えた。救助隊の方にタオルを借りて頭から両頬に垂らし、その上からヤッケのフードを被った。カメラが僕達を狙っているのを感じながら、そこに近づき、待ち受けた担架に乗って、そのまま救急車に滑り込んだ。

 山都の蕎麦も温泉も夢に終わった・・・。病院で今朝の山形新聞に僕の記事が載ったことを知った。そして病院へ迎えに来てくれた家族から、神戸新聞にも同様に取り上げられていたことを知らされたのであった。


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