旅行記

作成日:1998-09-07
最終更新日:

1.負の遺産

昔はバカバカしいくらい旅行に出ていた。あまり意味のない旅行ばかりであったが、 たまにはちょっと考えたくなる旅行に出かけてみたくなった。 そのうち、「負の遺産」と題して、過去を照らす場所を取り上げてみた。

a. 足尾銅山

負の遺産を考えるきっかけとなった最初の場所である。 学生時代のサークルの雑誌に「日本のグランドキャニオンと呼ばれるすごいところ」と紹介されていたので、 足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)で行ってみた。

足尾に行くとき、どういうわけか日光から歩いて足尾に行った。途中の道路で山道が「がけ崩れ通行止」とあり、国道新道を通ったのが運の尽き、トンネルを1時間歩いて通ることになってしまった。あとで栃木県出身の人に聞いたら、あれは関東の国道で一番長いトンネルなのだそうだ。よく命があったものだ。
トンネルを抜けてほっとしながら、途中の渡良瀬川の水をすくって飲んだ。澄んでいて、うまかった。

足尾に着いた。間藤の駅から見上げる山には確かに木は全くなかった。荒涼とした風景が目に焼き付いている。 ふもとには工場があり、内部が暗かったにもかかわらず働いている人がいた。 このうら寂しい風景も忘れられない。(1987年ころ)

b. 大久野島

会社に入って最初の仕事がきっかけで毒ガスに興味を示すようになった。その過程で知ったのがこの大久野島である。 広島県の忠海(ただのうみ)駅から船でいった場所にある。 ここは第二次世界大戦の時毒ガス製造工場があったところだ。現在は国民休暇村になっている。
このときは、危険人物(とふざけて呼んでいた会社同僚の)O氏と連れ立って行った。 毒ガス資料館で毒ガス製造装置や防毒マスクを見た。いくつもの口がある製造装置のいびつさを見ていると、 いつしか目を背けたくなっていった。
島を去ろうとするときに、何匹かの放し飼いのウサギが目に入った。(1990年ころ)

c. 水俣

鹿児島に遊びに行ったことがある。そのついでに知人のKさんを引き連れていったのが水俣であった。 鹿児島本線を西鹿児島駅から北に行き、県境を越えれば水俣である。
株式会社チッソの門は水俣駅からすぐにところにある。会社の門から少し離れたところには水路があり、 澄んだ水が流れている。その水路にそって南にいったところに海が開けて見えた。
海の近くには公園があり、着々と整備がされているようだった。その一方で、海の一部を囲っているところがあり、 ヘドロのため魚をとって食べてはいけない旨の表示が見えた。おそらく熊本県と書かれていたであろう、 その表示の主にあたるところはわざわざ消されていた。
たしか、海の魚を食べてとってもよいという通達が出たのは今年(1998年)ではなかったかと思う。(1991年ころ)

d. 四日市

ここへは当時の職場の上司の命で行った。特に空気のことで感じることはなかった。 海をぼーっと眺めていたが、硫酸が垂れ流されている風もなかった。ただごま油の匂いがきつかった。(1985年)

e. 東大島

都営新宿線の江東区にある。六価クロムが出てきた土地に盛り土をして公園を造っている。その公園を見に行ってきた。 平坦な土地に見える小高い丘は少し異様である。休日にもかかわらず、人はあまりいなかった。(1994年ころ)

f. 下筌ダム

蜂の巣城で知られた熊本県にある下筌(しもうけ)ダムのことを、 私は松下竜一さんの「砦に拠る」で知った。 たまたま当時大分の東で働いていた T 教の当主 T 氏のもとに K さんと遊びにいったとき、 ドライブ先としてねだったのがここだった。無理なお願いをしてしまったことに気が付いたが遅く、 ガソリンを大いに使わせてしまった。
何時間かかっただろうか、着いた先の下筌ダムは大きな水を湛えていた。近くには蜂の巣上の主、 室原知幸さんが所望したという赤い橋も架けられていた。しかし、ダムには蜂の巣城の痕跡は見えず、 下筌ダムの案内所の掲示にも、流す放送にも、蜂の巣城のことには一つも触れられていなかった。
多数の杉に囲まれたダムには、小一時間ほどいた。(1990年ころ)

g. 土呂久

日本における毒ガスの歴史を語るとき、大久野島と並んで忘れてはいけないのがこの土呂久(とろく)である。ここでは農薬に使われる砒素を生産するための煙で砒素中毒になった人が大勢居るのだ。
川原一之さんの「口伝 亜砒焼き谷」を読んで気になった場所、土呂久は、延岡から出ている高千穂線(現高千穂鉄道)の終点高千穂駅から歩いて2時間ぐらいのところにある。頃は5月、高千穂線から見えるあちこちに、 川をまたいだ鯉のぼりが見えた。
高千穂駅に到着し、近くの神社にお参りしてから土呂久を目指して歩きはじめた。 かなりの行程を覚悟していたら、通りがかりの車にいた方が声をかけてくれ、途中まで連れていってくれた。
車から降りてさらに歩くこと三十分、土呂久に着いた。あたりを散策して、高台に腰掛けておにぎりを食べた。 人気はないように感じられた。草ぼうぼうの墓地も見てきた。

廃坑の入り口に鉄柵があり、進入禁止の看板があった。その看板をしばらく見ていると、 青年がわたしに声をかけた。「何か鉱物でもとりに来たんですか。」ここへ来た理由を一から説明するのももどかしく、 ええ、まあとかごまかした。 「ここは珍しい鉱物がたくさん採集できるんですよ」といいながらその青年は姿を消した。

帰り道はずっと歩いた。道沿いの家に住んでいるおばあさんから「ちょっとお茶でも飲んでいくかね」 と声をかけられた。「汽車の時間があるので」と断ってしまったのが今でも残念でならない。(1989年ころ)

h. 敦賀・美浜原発

大久野島のところで同行した危険人物O氏との旅行である。 原子力発電にどこかうさんくささを抱いている私がO氏と画策したのが、原発を象徴する敦賀の地への旅だった。
最初は「もんじゅ」まで見ようと思ったのだが、どうも入れる場所ではなさそうだった。 素直に敦賀原発と美浜原発を見ることにした。
バスで行くか、レンタカーにするか迷ったのち、結局自由度のあるレンタカーにした。 私は免許を持っていないので、すべて運転はO氏が行なった。
敦賀原発で不思議だったのは、発電所の排水溝の前で釣りをしている人がいることだった。
美浜原発では、海水浴場がすぐ近くにあった。その独特の光景は今でも忘れられない。
考えてみればレンタカー申し込みのさい、保険をあえてかけなかった。 これが一番危険なことだったようだ。(1990年ころ)

i. 長良川河口堰

一時期名古屋へ頻繁に出張していたことがある。金曜日の出張で、少し長居をして土曜日に見に行ったのが 長良川河口堰だった。近鉄の長島駅でおりてぶらぶら散歩をしていると見えてきた。
当時はまだ工事中でダンプの往来が激しく、近付いてみることはかなわなかった。
数十mおきに立っている塔は、無気味を通り越してユーモラスであった。後日誰かが刑務所の監視塔であると 言っていたのを聞いて、まさにその通りだと合点した。
行きか帰りかに長島町の町役場の脇を通った。役場には「伊勢湾台風によってこれだけ冠水した」という 棒が立ててあった。高さは2メートルを優に超えていた。
だれもがこんな冠水を望むわけがない。そうなのだけれど。(訪問は1994年ごろ、本稿記述は 2000-01-26 )

j. 原爆ドーム

私が初めて広島市街を訪れたのは1990年のあたりだったろうか。 大久野島や敦賀・美浜原発で一緒のO氏と同行したのが最初である。 大久野島旅行の前に広島に泊まり、原爆ドームなどを見た。 ドームは思ったより小さい、というのが偽らざる感想だった。 それも、札幌の時計台が小さい、というのと同じレベルである。

資料館にも行った。しかし、本館が当時改装中で資料そのものが別の建物にあった。 そのためか資料が少なく感じた。 そしてその資料を受け止める感受性がどうも鈍くなってしまったらしい。 何も感じなかったというのではない。以前高校生のときに出かけた修学旅行で、 長崎の資料館に行ったときの衝撃が強すぎたのだった。 長崎の資料館は天井が低く、全体に古めかしく、照明も暗く、 当時非常に重く感じ、それから今まで逃れられなかった。(2001-04-21)

k. 安中

私が廃墟の旅に興味を持っていることを話すと、 知人から「安中はすごいですよ、いってみたらどうですか」というのでそのことばに従うことにした。 信越本線で出かける用事があると、いつも安中の駅の目の前にある要塞が気になっていたのだった。

ということでこの駅を降りてみることにした。1990 年あたりであろうか。知人の言うには、 安中市に廃墟がいたるところにあるという。しかし、廃墟は見つけられなかった。 東邦亜鉛の、要塞のような工場の周りを回ってみると、灰がぼろぼろと空から落ちてきた。 おまけに雨まで降り出してきた。中心街まで逃げてきて本屋に入った。 読みたい本がなかったので何も買わなかった。(2001-06-17)

付記:この旅行の延長線として、巻の海水浴場(角海浜)がある。 海水浴場のページを参照のこと。 それから、原発予定地ということで珠洲市へ行ったこともあったが、 能登線の終点の蛸島よりさらに北にあったので結局断念した。


2. 山

以下は観光地である。観光地一般に関する私の態度を書き付ける。

観光地は行かないよりは行くのがいいだろうが、一度行けば充分だろう、そんな態度で接してきた。 「富士に登らぬバカ、二度登るバカ」ということばを聞いた。 わたしはこのことばに親近感を覚える。富士山もそうだけれど、 有名な観光地には私は一度は行っている。 しかし、二度以上行ったことがある観光地はごくわずかである。

閑話休題、山の話である。名前に山はつくけれど、山男ではないし、行った山は少ししかない。 少しだけ感想を書いておく。

富士山

中学2年のときに家族で行った。空気が薄いのには参った。

開聞岳

T 教の当主 T 氏が鹿児島出身ということ、 中学校の白地図で見事な等高線を描いていた山であるということ、 この二点で憧れていた山だった。 1991 年に行ったが時間がなくて挫折した。1992 年に雪辱を期して、 T 氏の披露宴が行われた翌日に 出かけた。期待に違わずすばらしい山だった。登山道の景色は確かめられなかったが、 頂上近くの道からの眺めはすばらしい。 池田湖を周りとする田畑はあたかもトランプのカードを ちりばめたようだった。

大山(おおやま)

何回か登っているが、 ロープウェイだかケーブルカーだかのお世話にならずに登ったことは まだない。軟弱者だ。 高校時代、遠足がここであった。クラスの仲間と早足で降りる競争をして、 その勢いで仲間の家で ウイスキーをあおった。このとき、初めておやじのビール以外の酒を口にした。

鋸山

千葉で一番高い山である。ほいほいと車で行って、ほいほいと帰ってきた。 とはいえ、頂上付近の切り立った崖は、高所恐怖症の私には怖かった。

高尾山

勤務先の同僚の Y 氏と行った。 彼が缶ジュースを山のそこらに投げ捨てたので、私は嫌な思いをした。 その思いをふるい落とすために山門にあった酒樽を揺り動かしたら、下りで足を挫いた。 いわゆる祟りであろう。

三ツ峠

1995 年だったろうか、 勤務先の方々三人と一緒に上った。風は強かったが気分よく晴れていた。 一人の方がすぐ疲れたと言い出して、 「(上り下りの道を避けて)まきましょう、まきましょう」と 何度も呟いていた。 そのとき、私を含めて四人で映った写真が今でもある。

至仏山

社会人になって3年目くらいに、同僚の Y 氏と後輩の K 氏と出かけた。 有給休暇をとっていった。 8時過ぎに山頂に到着した。曇っていたために眺望は今一つだったが、 「職場でみんながラジオ体操をやっているさなかに、 朝を山の頂上で気分よく迎えられるとはいいね」と楽しんだ。

燧ヶ岳

至仏山に上ったその日は尾瀬に泊まり、翌日燧ヶ岳に上った。鎖場があり、 ほうほうの体でのぼって喜んだのもつかの間、 下りで雪渓に足を抉らせ、数十メートル滑り落ちてしまった。 メガネはなくすし、腰をしこたま打った衝撃で小便は十時間以上で出なくなるしで困った。

日和田山、物見山

西武秩父線武蔵横手駅から同高麗駅に至る3時間あまりの山歩き経路の途中にある。 つれあいと二人で行った日はずっと曇っていて眺望は余りよくなかったが、 体のなまっている私にはちょうどいい運動になるぐらい、いい経路だった。 当然のことながら、この駅に止まる電車は1時間に1本か2本しかないので、 注意しましょう。

唐沢山

栃木県佐野市にある。東武鉄道葛生線の堀米駅か吉水駅、田沼駅からになる。

新田金山

群馬県太田市にある。金山城址があり、有名。東武鉄道伊勢崎線の太田駅から。


3. 湖

芦ノ湖

遠足で何度も云っているはずのところであるが、妙に印象が薄い。 近くの杉並木を通ったことがあるのと、芦ノ湖近くのこぎれいなレストランで 零の会の何人かと食事をしたことがあるのを覚えている。 このときの零の会の方々は上流階級の人ばかりで、私はとても話の輪に加われなかった。

富士五湖(山中湖、河口湖、精進湖、西湖、本栖湖)

山中湖は大学生になったその年にクラスの合宿というので行ったところである。 何をしたのかよく覚えていない。テニスかバスケットのようなことをしたかもしれない。

河口湖は毎年行っている。合唱団の合宿をやるのがここである。

精進湖は、サークル1年の合宿で行った場所である。 とてもサークルについていけなかったような気がしてならなかったが、 私はどういうわけかバナナをおかずにして飯を15杯食べたので、 これで仲間に名が知られることになったのかもしれない。 ある夜、湖畔に行って遊んでいたとき、私は急に他のメンツに手足をつかまれた。 つかんだメンツは「ちょうちょー、ちょうちょー、なーのーはーにーとーまーれー」 と叫びながら私を揺りかごの様に揺らし、今にも湖に放り投げそうにするのだった。 この文を書きながらしきりに「小事故」と誤変換されて出てくるのだけれど、 まさに小事故になるのではないかと(自分だけ)ひやひやしていた。 しかし、今になって思えば、その頃の私は手足をつかまれても揺らせるぐらい、 痩せていたのだ。

西湖、本栖湖は、精進湖に行ったときついでに回ったところである。 そういえば、このあたりの遊歩道を女性と回ったこともあった。ちょっと疲れたところで 二人でうどんを食べた。 わたしはうどんにとうがらしを入れた。これを見て女性は不思議がっていた。 なぜだろう。

女神湖、木崎湖、猪苗代湖

これらの湖も、サークルの合宿で行った所である。このときは、 海派と山派が対立して、結局山も水もあるところということで湖になっていた。

中禅寺湖

私は、小学校6年生の修学旅行で日光に行き、 東照宮と華厳の滝は見に行った。しかし、中禅寺湖を見た印象はなかった。 それ以来日光には行ったことがない。久し振りに日光もいいと思い、妻と二人で日光に行った。 2003年11月23日のことである。妻にとって日光は初めてである。 私は中禅寺湖には行ったことがないと思っていたので、まずそこに行くことにした。 ひょっとしたら紅葉がきれいだろう、と期待していたのだが、 既に中禅寺湖の周りの葉は落ちていた。 むしろ、日光に行くまでの車窓から見える木々の彩りが美しかった。

それだけなのだが、ついでに旅程を記す。 越谷に住んでいる私達は駅を7時すぎに出て、途中春日部で降りて快速に乗り換えた。 それで東武日光駅には9時過ぎに着いた。朝食を、駅前のレストランで食べた。 客はいなかった。少し考えて、 二人とも玉子丼を注文した。食べてみると、どこか甘い。つれあいに聞いてみると、 玉ねぎを炒める時にバターを使ったんでしょう、ということだった。なるほど、バターの味だ。 つれあいは「コーンポタージュの素も使っているような味がする」とも言っていた。 こちらはわからなかった。 なお、後でタバコを吸う男が入って来たのには閉口した。歩きながら吸うな。

バスに乗っていろは坂を経由して中禅寺温泉というバス停で降りた。 大人一人1100円である。 乗ってからフリー切符を使えば往復で2000円で済むということに気付いたが、 後の祭りである。渋滞はしていなかった。紅葉のシーズンが過ぎたからであろう。

中禅寺湖ではボートを漕いだ。実は、ボートを漕いだのは初めてだった。 学生時代に、某氏がお目当ての人を誘ってボートに乗り込んだはいいが、 オールを漕いで前に進めようとして進まず、「ふん、ふん」と鼻息を荒くしていた、 という伝説を思い出した。私はこの某氏の失敗を踏まないようにしたが、 実際漕いでみて、なかなか進まないのには参った。 なんとか岸から離れたが、どうしていいかわからない。私はあるピアノ曲を思い出した。 「さて何でしょう」つれあいに当てさせたら「フォーレじゃないの」とのこと。 実は全然考えていなかった。 私が思い出したのは、ラヴェルの「鏡」から「海原の小舟」であった。 それほど、湖のまん中に出て、不安だったのだ。つれあいのことばで、 フォーレを思い出したので元気を回復した。 まず舟歌第1番、第2番と主要フレーズを口ずさんだ。すると、つれあいから苦情が来た。 「寒いからもう戻りたい」それはそうだ。戻ることにした。 しかし、戻る向きがなかなか定まらない。つれあいが心配をしている。 「このボート、どこに向っているの?ちゃんと戻れる?」 私は次に第3番、第4番と次々に口ずさむが、戻っているかどうかなかなかわからない。 私は次々に第13番まで口ずさんだが、結局まだ戻れなかった。その途中、 他の手漕ぎボートと衝突までしてしまった。 おまけに、別の足漕ぎボートの連中がタバコを吸っていて、 すれ違っただけでタバコの臭いが伝わってきた。なんなのだ。 フォーレだけの神通力では戻れなかったので、 ショパンやチャイコフスキーの舟歌にも応援を求めて、なんとか帰ってきた。 1時間で戻ることになっていたのに対し、55分かかった。

それにしても、日光付近は「おならプープー族」が非常に多い。 日光全体はいい観光地であるが、この族は嫌だ。 なお、「おならプ−プ−族」の語源は、 みうらじゅんの本 を参照してほしい。

昼食は湖に近い食堂。湯葉はおいしかった。タバコが気になったのは相変わらず。

帰りもバスである。バスに乗り込むまで30分近く待った。なんとか座れて (いろは坂を通るときは、立たせてはいけないらしい)、いろは坂では、 いろはガルタを思い出すことにした。つれあいは、よく思い出せた。私は思い出せなかった。

その後は日光駅までうとうとする予定であった。東照宮までそのつもりであったが、 その先乗り込んで来たオヤジたちが酒臭い、ヤニ臭い、大声で喚くの三悪で、 傍で座っていた私達は気持ち悪くなった。渋滞していたこともあり、 思わず次の停留所で降りた。ところが、私達が降りてから渋滞は消えた。 三悪のオヤジたちが座れて、私達は走らねばならず (1時間に一本しかない電車が出発する時間がもうすぐだった)、さんざんだった。 おまけに日光駅まで走っているときに思わずつまずき、もう少しで倒れるところだった。 つれあいもへとへとになって走っていた。結局間に合って、下今市からは座れたのだが、 それからずっと足は二人とも痛かった。

つれあい曰く、「今日も電車に乗った1日だったね」。 (2003-11-23)

田沢湖

透明度が高いことで知られている湖だ。1990年ごろ行ってみると、 観光施設はほとんどなかったので、がっかりするとともに喜んだ覚えがあ る。湖のほとりに硝子のかけらがあり、これが妙に美しく輝いていたこと が印象に残っている。

このあとで北に行くバスに乗って、花輪線まで行った。 温泉に入ればよかったと、今は後悔している。

後の湖・沼はただ見てきただけのものである。


4. 遊園地のようなもの


5. その他観光地

尾瀬

至仏山・燧ヶ岳に登ったときの拠点。ミズバショウは咲いていたが、大柄なばかりで さして美しいという印象は持たなかった。ハエもけっこう多かった。 宿の風呂では石鹸を使ってはいけないといわれたので、風呂そのものに入らなかった。 これは私が不潔だからではなく、尾瀬の美しい自然を守るための美しい行為であった。 (自分で言っては世話がないか)

宮島

珍しく二度行った観光地である。二度目はつれあいと行った。このとき 食堂で一緒に入った親子丼が不味く、つれあいは腹をこわしてしまった。 これ以来つれあいは親子丼が食えなくなっている。親子丼の話はどうでもいいのだが、 観光地として整備されているのかいないのかわからない土地である。

天橋立

ここは半分しか味わっていない。砂嘴の道を歩いていたが、電車の時間の都合で途中で 引き返さなければならなかった。有名な公園まで行って、 そこから股のぞきというのをやらないと、ここに行ったことにならないようだ。悔しい。

松島

東北本線の最寄り駅から歩いたら結構あった。フェリー乗り場のあたりから 島々をみただけではなかなか風光明媚なところと見えた。しかし、 どういうわけか臭かったので、全体の印象はよくない。

鳥取砂丘

駅からトボトボと歩いて来てみると、やっぱり砂丘だと思った。ラクダに乗れます、 という看板が妙に痛々しかった。 帰りに、途中の喫茶店に入って昼飯を注文したことをなぜか覚えている。 もっとはっきり覚えていることは、駅の近くの酒屋でおいしい地酒をと尋ねて 「諏訪泉」を勧められたことである。おいしかった。その後で一升瓶を買ったが、 おいしくなかった。なぜだろう。

黒部・立山アルペンルート

至仏山のときと同じ、Y 氏と K 氏で行った。出立の日、職場で上司に「アルペンルート 行きますよ」といったら、なんと上司も同じ日に行くということだった。 ひょっとしたら会うかもしれませんね、といっていたら、案の定黒部ダムか室堂で一緒に なってしまった。なお、上司たちは室堂から立山に登ったらしいが、私達はそのままルートに 従って帰ってしまった。

後楽園

岡山駅からダラダラ歩いた。路面電車があるのでびっくりした。園そのものは 落ち着いていたが、いかんせん時間が 30 分しかなかったのでせわしなかったこと おびただしい。広い(と思った)池が印象に残っている。

兼六園

至仏山のときと同じ、Y 氏と K 氏で行った。兼六園そのものの印象は特にない。 5月の連休のときに行き、そのときはなぜかはしらないが入園無料だったことだけである。 あの雪つりがないと、兼六園という感じがしないのはなぜだろうか。 そういえば今急に、門の外にいる観光客と大形バス、土産物屋の像がふと出てきた。

沖縄

沖縄旅行記のページをどうぞ。

6. 梅の名所、その他名所

越谷梅林公園(仮称)

私は何を隠そう、梅が好きだ。長い間もつ清楚な美しさ、高貴な香り、 実も役立つ健気さなど、 バラ科の植物はこうでなくてはと信じる。同じバラ科でも桜はすぐ散ってよくない。 まあ、そんなことはどうでもよい。最近よく行っているのがここ。多少敷地は狭いが、 それなりの風情がある。東武伊勢崎線北越谷駅から徒歩15分。 徒歩は川べりをいく道がおすすめ。

池上梅園

こじんまりした中にも多くの梅が植えられている。都営浅草線西馬込から徒歩10分。

成田山

うっそうとしげる森の中にある梅は神秘的。成田線成田駅から徒歩15分。

越生梅林

駅から少し歩かないといけないのが難点(それも交通量の多い通りしかないのが残念)。とはいえ、 けっこう広い敷地にいろいろな梅があるのは楽しみ。東武線越生駅から徒歩30分。

曽我梅林

とりとめもなく梅林がひろがっている。梅林そのものより、駅から歩いていく途中の 日当たりのよい道が印象に残っている。御殿場線??駅から徒歩10分。

水戸偕楽園

入場は無料である。やはり、敷地は広いし、 枝振りも豪華だから、見ていて心が豊かになる。常磐線偕楽園駅(臨時駅、下りのみ)からすぐのはず。

熱海梅林

東海道線熱海駅から徒歩20分。

三渓園

根岸線根岸駅から徒歩30分。

百草園

京王線百草園駅から徒歩10分。

羽根木公園

小田急線梅が丘駅から徒歩5分。

梅屋敷

忘れた。たぶん京浜急行。

まりんきょ学問所部屋の中身と管理人自己紹介 > 旅行記


MARUYAMA Satosi