昔から歩くことが好きだったのではない。そして今も、無性に歩きたい、と熱望することはない。 ただ、歩いているだけで幸福になる、そんな場面がありそうだと思っている。 特に、知らないところを歩くのはなんとも楽しい。 私は根性なしだから高い所には登るのはあまりしないが、平地ならよく歩く。 学生時代は、学校から寮まで歩いて 50 分以上かかるところを平気で歩いていた。 もっともその後寮で自転車を手に入れた後は自転車にしてしまったが、 能率を気にするこの世の中で、ぼんやりと、あるいは早足で歩くのは気分がよい。
昔安い旅行をしていたときは、普通では考えられないぐらい長い道のりを歩いた。 日光駅から足尾駅までというのがその際たるものだろう。 ほかにも、高千穂駅から土呂久までとか、 けっこう歩いて訪れたところは多い。 しかし、年をとってすっかり歩きに自信がなくなり、また歩いた記憶も失ってしまった。 これらはたまたま負の遺産の思い出があったので覚えていた。
負の遺産ではないけれど、覚えていることもある。 鳥取駅と鳥取砂丘を往復したこともあった。 疲れて鳥取駅に着いたあと、 駅近くの酒屋に寄って「諏訪泉」を買った。 仲間にふるまったら喜ばれた。
京都駅から京都大学まで歩いて、あまりの長さに驚いたこともあった。
ここで一つ、長い間歩いた記憶が蘇ったので記そう。 場所は徳島県、池谷から鳴門である。 海水浴場をなるべく多く訪ねてみたいと思ったので、勤務先で徳島に出張があったのを機会に、 徳島で泳げる海水浴場を探した。どうやら鳴門にありそうなことが地図をみてわかったので、 夜のうちに鳴門に行こうと決めた。 高松から特急に乗って、車掌に「いけたにまで乗り越し」と言ったら、「いけのたに、ですね」 と訂正された。池谷から鳴門までの列車に乗れば楽に行ける、そう思って池谷駅で降りた。 午後8時ころだった。
さて、鳴門駅に行く列車の時刻を見たら、 2時間近く待たないといけない。仕方がない。 タクシーで行くことにしてまずは夕飯を食べようと食堂を探したら、 見つからない。鳴門で食べればいいや、とあきらめタクシーを探したら、 だいたいタクシー乗り場すらない。ああ、これがいなかというものか、と落胆した。 鳴門へ行く幹線は見つかったので、ここを歩くことにした。 流しのタクシーがあるかと思ったら、それすら走っていない。がっかりした。 30分ぐらい鳴門に向けて歩いた。それでもタクシーは見えなかった。私は決心した。 鳴門まで歩いて行こうと。結局3時間はゆうにかかったろうか。 市街地でビジネスホテルを見つけ、宿泊部屋に着き、本当にほっとした。 だいたいあのときは革靴で歩くという無茶をしたのだった。
翌日楽しみにしていた海水浴場は、バスで近くまで行ってそこから歩いてみた。 ところがどうやら海岸の再開発の場所になっていたようで、 テトラポットばかりが目立つ味気ない浜しか見つからなかった。 帰りは落胆していたため、バスを使う気になれず、鳴門駅まで歩いて戻った。 みやげの芋菓子がおいしかったのが、せめてもの慰みであった。
この駄文を書いているこの1月17日は、阪神・淡路大震災が起こった日である。 教訓の一つとして、「勤務場所から自宅まで歩いて帰ることができるようにする」 というのがある。だいたい道はわかっているつもりであるが、 実際にやってみないとわからない。それに、どれだけの距離があるのか、 正確には知らないのだ。この日読んだ新聞には、 勤務先にTシャツや履き慣れたスニーカーを用意しておくこと、という忠告があった。 避難袋は勤務先にある。あとで用意して、実際に歩いてみよう。 でも、実際に歩くのはつらそうだ。 池谷/鳴門間の距離よりもっと長いのだろう。考えるだけで疲れてきた。
2004年あたりと思うが、詳しくは思い出せない。当時の職場は両国にあった。ここから自宅のある越谷まで歩けるかが問題である。 1日ではつらいので、北千住を中継地点として、 まず両国から北千住まで歩けるか、次に北千住から越谷まで歩けるかを確かめた。
両国から北千住までは、問題なく歩けた。両国から浅草までは清澄通りおよび並行する通り、 浅草以北は墨堤通りでよい。
北千住から越谷は、結局歩けなかった。ほとんど国道4号線+旧4号線、および並行する通りを歩いたが、 途中、松原団地駅で疲れて、ここから電車に乗ったのだった。しかし、 松原団地から歩いたこともあったので、道で迷う問題はないはずだ。
こうやって歩いたことが、のちに東日本大震災で職場から自宅に徒歩で帰宅できたことにつながった。地震雑記参照。
その後、職場が両国から新宿に引っ越した。それもビルの 26 階である。東日本大震災を受けてわざわざ高層ビルに引っ越すとは、経営陣は何を考えているのだろう。 おまけに自宅からは遠くなった。
両国に職場があったときと同じように歩いてみることにした。ただ、両国のときとは異なり、歩く距離は長くなっている。 中継点は2箇所定めないといけないだろう。ということで、中継点は池袋と赤羽の2箇所に定めた。
職場から池袋は何なく歩けた。ただ、狭い道が多く、ひょっとして地震が起きるとビルの窓ガラスが割れてガラスの破片が道に散乱して歩けなくなるかもしれない、 と思った。
池袋から赤羽はけっこう難儀した。旧赤羽線(現在は埼京線)に沿っていけばいいだけなのだが、歩ける道が鉄道にずっと沿っているとは限らないので困ったのだった。
赤羽から越谷まで、すべて歩き切ることはあきらめた。実際に赤羽までは言って、埼玉高速鉄道線にそっていけばいいはずだ、と思って歩き始めたのだが、 けっこう日差しが強かったのと、道がわからないのとで、 結局鳩ヶ谷か新井宿あたりで埼玉高速鉄道に乗って帰ることにした。本来ならば、埼玉高速鉄道の戸塚安行駅まで歩き、そこから東に向って歩いて帰らねばならない。
秋葉原から飯田橋まで、意味なく歩いた。以下、その記録。
秋葉原から御茶ノ水までは何度も歩いた。そんなに迷うことはない。
御茶ノ水にある大勝軒を探して、発見をした。 この大勝軒は神田小川町にあるのだが、神田小川町は、靖国通りに分断されている。 奇数番地は靖国通りの北側に、偶数番地は南側に位置している。なぜ?(2009-06-17)
御茶ノ水から水道橋(実際には春日通り) までは、特に問題はなかった。
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