地震雑記

作成日:2011-03-13
最終更新日:

東北大震災を体験して

はじめに

2011 年 3 月 11 日、東北沖で起こった巨大地震を東京で受けた。その顛末である。 被災された皆さまに心からお見舞い申し上げるとともに、 早期の復旧を祈念する。

ここで中小企業診断士のはしくれとして、 中小企業者のみなさんにお役にたつかもしれない、経済産業省のリンクを下記に張る。
東北地方太平洋沖地震等による災害の激甚災害の指定及び被災中小企業者対策について (meti.go.jp) (2019年3月16日現在はリンク切れ)、 要約は中小企業診断士日誌2011月3月に載せた。

さて右図は勤務先のある両国駅(墨田区)から自宅のある蒲生駅(越谷市)の地図である。 参考になれば幸いである。なお、両国駅から蒲生駅まで、地図上における駅間の直線距離は 19 km であった。 また、墨田区、越谷市とも、震度は 5 弱であった。

地震時の職場情報

地震のとき、私は職場にいた。18 階建てビルの 13 階である。地震が来たとき、 私はすぐにヘルメットをかぶった。ヘルメットは机脇に他の非常用荷物と一緒に備え付けている。 「丸山さん、おおげさですよ」といわんばかりの笑い声が聞こえた。 しかし、揺れは大きくなり、際限なく続いている。私を笑っていた者も声を失った。私の机上にある書類は崩れた。 壁にあるスライド式本棚は揺れ、棚からは本が落ちた。

誰も指示を出す者はいない。仕方なく私が「ドアをあけて避難口を確保して」と叫ぶしかなかった。 素直にみな行動していた。

同僚から、「サーバー室でサーバーが倒れている」との情報を受けた。 行ってみると、タワー型のサーバーが倒れていた。所有者と思しき職場に行き、大声で 「**部のサーバーが倒れています。確認してください」と伝えるしかなかった。 なんで俺が知らせないといけないんだ。俺は偉くもなんともないぞ。

そうこうしていると、出張中の大ボスから電話がかかってきた。 大ボスは 13 階の総責任者である。 「全社組織と連絡がとれない。なんとかしろ。」 全社組織は上の階、14 階にある。電話をつないだまま階段を上がり、全社組織の長につないだ。 全く、万歩計の数字があがるばかりだ。

最低限の用事を済ませて、本棚の本を戻したり、 不要品の始末をしたりしていたら、大ボスから再度電話があった。 「部長に、各部の安否確認をさせろ」 私の所属部は、大ボスが部長を兼務している。 ということは、大ボスだけでこの所属部の安否を確認することはできないということだ。 私の所属部では私が安否確認を補助することに決めた。 そして他の部では部長が在勤だったが、全社組織への安否確認は私が中継者となることに決めた。

別の同僚が知らせてくれた。「壁にヒビが入っています」 廊下に出てみるとモルタル壁にヒビが確かにはいっている。このビルは大丈夫だろうか。 エレベーターは当然停止している。

そうこうしているうち、定時を迎えた。私は帰宅することに決め、 同じ階にある他部の部長に帰宅の意を伝えた。部長からは 「連絡すべき社内のメールアドレスを教えろ」と命じられた。 連絡すべき最小限のメールアドレスと連絡が取れない人の一覧を作り、 電子メールで関係者に送った。言い忘れていたが、社内のメールシステムは動いていた。社外とのメールシステムは途絶えていた。

これで用事が完了したので、私は午後 6 時にビルを出た。 ビルから同時に出る同僚がいたので「家に帰るのか」と聞いたら、 「ビルで過ごすのでそのための水や食料を買出しに出かけます」との答だった。 なお、地震のため、エレベーターは止まっていた。したがって13階からは階段を使った。ビルで過ごす同僚は、13階まで階段で登ったはずだ。

徒歩による帰宅:両国から北千住まで

私が徒歩による帰宅を決めたのはいくつかの理由がある。 まず、この日が特別な日であり、家にどうしても帰りたかったこと、 そして、勤務先では定時後も多く残る者がいて連絡には問題ないと判断したこと、 最後に、徒歩による帰宅にはある程度の成算があったことである。

第 3 に挙げた、徒歩帰宅の成算があった、というのはこういうことだ。 4、5年前だろうか、広報機関からこんなことを勧められた。 それは<大震災が起こったとき、都心はいわゆる帰宅難民が予想される。 該当者は徒歩で帰宅可能かどうか試みるように>ということだった。 これを受け、つれあいを連れて徒歩帰宅を試したのだった。

一度に全距離を歩くのはつらいので、勤務先のある両国から北千住までの前半戦と、 北千住から自宅のある越谷まで後半戦の 2 回に分けた。 このとき前半戦は 2 時間 20 分、後半戦は約 4 時間かかった。 もっといえば、後半戦では家までの到着をあきらめ、途中で鉄道に乗っている。 詳細は、前半戦(seesaa.net) と 後半戦(sessaa.net)をみてほしい。 単純に合計すると 6 時間 20 分であるが、どちらもゆっくりだった。 今回は一人だから当日には着くだろう、道もだいたい覚えているし、なんとかなるだろう、 と思っていた。

さて、午後 6 時に職場を出ると、歩道は移動する人で溢れていた。 両国から北千住までは、清澄通りから隅田川沿いの墨堤通りを行けばよいことはわかっている。 北千住から自宅までは日光街道で一本だ。ただし、埼玉県内は 4 号バイパスではなく、 旧 4 号を使うことにした。 なお右上の地図で、清澄通りは両国駅から「駒形 PA」があるあたりまでになる (駒形 PA は首都高速のパーキングエリアのこと)。 ここで隅田川に突き当たる。 墨堤通りはこの突き当たりから隅田川沿いに北上し、 堀切で西に曲がり東武鉄道の牛田駅を経由して千住大橋駅の北にいたる道である。 そして日光街道は千住大橋から北上する濃黄色の道である。 4 号バイパスは、東京足立病院から分岐する濃黄色の道(日光街道そのまま)、 旧 4 号は、県道 401 号線で、東武伊勢崎線の東側に沿った薄黄色の道である。

ヘルメットをかぶり、災害非常袋を背負って私は歩いていた。 清澄通りに出ると人の列が途切れずに続いていた。公衆電話はところどころで見つかったが、どこも順番を待つ人が多く並んでいる。 並びながら休憩しようという気持ちはなかった。休憩する間があれば少しでも家に近づきたいと思っていた。 結局清澄通りには空いている電話ボックスはなかった。次の墨堤通りで探すことにした。

墨堤通りを行くと、白髭の巨大アパート群が見えてきた。 と同時に、正面にたまたま空いていた公衆電話が目に入った。 自宅に電話すると、つれあいが出た。まずは安心した。怪我はないという。 「徒歩で帰る。今日中に帰れるかどうかぐらいだ。よろしく」と伝えた。

電話を終え、歩き始めた。手がかじかむ。背中の災害非常袋には軍手がある。 休憩のときに軍手をはめようと考え、交差点で赤信号を待っているとき探してみた。 しかしあたりは既に暗くなっていて袋のどこに軍手があるかわからず、結局素手のまま歩いた。

墨堤通りと日光街道の交差点で、逆方向に向かう二人組に尋ねられた。 「青砥はこれから向かう方面でいいでしょうか」 しばらく考えた。青砥はどこだっただろうか。 頭が回らなかった。アオトという音に覚えはあるのだが、地名として認識できない。 少し考えて、青砥は京成本線の駅であること、ここから上野方面と浅草方面に分かれること、 墨堤通りを通過するときに京成関屋駅があったことを思い出した。 以上から、二人組が向かう方向に京成関屋駅があること、京成関屋駅と青砥駅は鉄道でつながれていること、 ゆえに二人組が向かう方向は正しい、と推論した。 そして単純に、「はい、それで合っています」とだけ返事をした。 二人組とはこれで別れた。 さて、この推論であっていたのだろうか。しばらく悩んだ。

日光街道は清澄通りよりも墨堤通りよりもさらに、徒歩の人が多かった。荒川という大きな川のために道が少なくなるから当然だろう。 北千住から対岸に渡るのは千住新橋である。 驚いたのは、腰が直角にまがったばあさんが腰を直角にしたまま歩いていたことだった。ただただ、感心するだけだった。 しばらく歩くと千住新橋の南岸まで来た。あとはうまく渡れるだろうか。 時間は午後 7 時 40 分だった。予定より早かった。

徒歩による帰宅:北千住から草加まで

千住新橋は、上流側と下流側両方に歩行者道路がある。私は上流側の歩行者道路を通った。大部分が北上する人たちである。 北岸に着いた。ここから歩行者が徐々に分散するだろうと見ていた。 しかし、見た目には歩く人の密度はほとんど変わらなかった。なぜだろう。おそらく、ほとんどがここからさらに遠くに住んでいる、 私のような人ばかりが帰っているからだろう。

ここからしばらくすると、日光街道と東武伊勢崎線の分岐点がある。 日光街道は真北に向かうのに対し、東武伊勢崎線は西新井まで「く」の字のように少し西側に逸れるからだ。 分岐点を過ぎると、いくら道路を歩いても、自分のいる位置がわからない。東武の駅と一致しないからだ。これがつらい。

足立区役所の前に出た。ここでようやく開いている電話ボックスを見つけた。 つれあいに 2 度目の電話をした。このときは午後 8 時半ごろだった。

電話を終えて北上を再開した。しばらくすると、回転寿司の スシロー(www.akindo-sushiro.co.jp) 足立保木間店が見えてきた。これはラッキー、と心のなかで呟いた。 千住新橋を渡る前までは休む間があれば少しでも歩いて北上したいと思っていたが、渡ったあとでは少し考えが変わった。 疲れを癒したい。それには何より休憩して、食べることだ。 それも、回転寿司なら一番だ。そう思って歩道橋を渡って内部をみると、 明かりはあるものの客は誰もいない。 入口には立ち入り禁止を表すと思われるバリケード(パイプ馬)が置いてあるだけで、 標示も何もない。がっかりして引き返し、北に向かって歩いた。

そうこうすると、4 号バイパスと旧 4 号の分岐にさしかかった。当初の予定通り旧 4 号を選ぶ。

すぐに、東京都と埼玉県の境を表す小さな川が見えた。この橋を渡り見上げると、 埼玉県を表す県章の看板と草加市の表示が見えた。これで一安心だ。 ちなみに、埼玉県章は「まがたま」の組み合わせであり、コバトンは描かれていない。

ひたすら歩き続けたせいで、太ももが痛くなってきた。それから、足指の皮も擦りむけて痛い。 足指の爪を切っていなかったからだろうか。

しばらく歩くと、町名が「瀬崎」となっていることに気付いた。 ならば、谷塚駅の近くだろう。もう少しで草加だ。 そろそろもう一軒ぐらい、回転寿司ならあるだろう。ところが見つからない。 草加の駅入口を過ぎて、 すし銚子丸草加店 (choushimaru.co.jp)が見えてきた。よし、今度こそ。 ヘルメットを脱ぎ、店舗に入った。客もいる。営業時間は 午後 10 時までと書いてある。 大丈夫。今は午後 9 時 10 分だ。
店員:「お客様は何名ですか」
私「一人です」
店員:「地震のため、本日は 9 時で閉店です。申し訳有りません」
地震で閉店ならわかるが、だったら「お客様は何名ですか」て聞くな。 俺が 100 人の客の 1 名だったら通すのか。
とそのときは怒っていた。しかし今思えば店員も非常事態でどう対応すべきかも分からず、 来店者を迎えるセリフがつい自動的に出てしまったのだろう。

がっくり来た。もう回転寿司には頼まない。頼らない。食えるところならどこでもいい。

右手に松並木が見えてきた。草加松原は有名である。しかし、いくら歩いても松原は続く。 いったいどこで途切れるのか。 よくもまあ、江戸時代の松尾芭蕉や伊能忠敬は歩いたものだ、と感嘆しながらわが身を叱咤した。 しばらくして、リンガーハット (その後閉店のため 2019 年 3 月 16日ではリンク切れ) (ringerhut.jp)が見えてきた。しかし、ここには客とおぼしき人は誰もおらず、 椅子がすべて机の上にさかさまに置かれていて店員が掃除しているのが見えただけだった。 そのためここでは何も尋ねずに通過した。母子二人が近くにいて、 リンガーハットの店員に向かって何かを嘆願しているようだったが、私は無視した。

歩き始めたが、もう食事を諦めていた。そのとき、 ブロンコビリー草加松原店(bronco.co.jp) という看板が見えてきた。 ここには客も店員もいる。今度こそ、頼む。 入ると、禁煙/喫煙の区別を聞かれたあと、席を通してくれた。やった。 営業していた店への礼と自分への褒美を込めて、 炭焼き厚切り熟成ぶどう牛サーロインステーキセット 210 g と 生ビールを頼んだ。時は午後 10:00 少し前だった。

草加から自宅まで

飯を食べ終えて店を出たのが午後 10:30 ごろ。ここからはもうすぐだ。 少し歩くと、関東外環自動車道の高架が見えた。この下をくぐると東武の新田駅入口になる。 さらに歩けば綾瀬川を渡る橋である綾瀬橋がある。ここを渡れば越谷市である。 綾瀬橋から日光街道はさらに真北に向かうが、私は川沿いの北西向きの道に逸れた。ここから家まで 15 分ほどだ。 この川沿いの道は普段めったに車が通らないのに、この日ばかりは上りの車で溢れていた。 渋滞する車を眺めながら、最後まで気を抜かないようにしていた。 家に到着したのは午後 11:00、歩数は三万五千歩ほどだった。

地震翌日

東京に出かける

土曜日である。余震は続くが、東京に出る用があったので電車を乗り継いだ。 東武線はかなりのところまで復旧していて、多少ルートを違えたが目的地まで着いた。 用事を済ませた後、仲間と酒を飲んで帰宅した。このときは、 計画停電という文字は頭になかった。

この日、不安なことが起こった。 普段は降りない松原団地の駅で、降りる人のために電車からいったんホームに出た。 その瞬間、挟む力の弱くなっていた歩数計が列車とホームの間をすり抜けて路面に落下した。 先を急いでいたのでこの日は拾ってもらうことをあきらめた。

追記:歩数計は次の絵の構造であった。

歩数計を接着していたがバネの力が弱くなり落ちる

不安な日曜日を迎える

地震3日めである。 地震が収まって、この機会にということで古い本や雑誌をスキャナーかける作業、いわゆる自炊を進める。あまりきれいになった気がしない。

会社を休む

地震4日目である。月曜日であり会社に行く予定だったが、やむを得ず休んだ。 というのは、最寄の東武線の電車が動かなくなったためである。 電車が動かないのは、原子力発電所の停止により電力需要が逼迫したという理由であった。 東武線で動いているのは竹ノ塚より南である。蒲生はお呼びでないということだ。 武蔵野線が動いていればいいが、ここも全線運休である。 当時代替手段ははここまでしか考えられず、結局休むことになった。

もし翌日以降も同様の事態が起こったときは、どのような代替経路があるだろうか。

バスに頼らない経路ならば、戸塚安行駅が一番近そうだ。 事実、地震の当日に南北線と埼玉高速鉄道は復旧していたようである。 もっとも、この経路がわかったのは地震5日め以降だった。

初出勤

地震5日目である。この日から伊勢崎線は蒲生駅でも動いていたため、意を決して出勤した。当然電車の本数は少なく、車内は混んでいる。 通常なら北千住から日比谷線に乗り換えるのだが、 今回はいやな予感がしてそのまま東武線で浅草まで行き、そこから両国まで歩いた。 帰りは両国から業平橋までバスで行き、それから東武線である。

メールなど

地震6日目である。震源地に近い北茨城市に友人がいるので、大丈夫かどうかメールした。 佐賀で親しくなった方からは、励ましのメールをいただいた。ありがたいことだ。 計画停電の影響でダイヤがすごいことになっている。 朝は通常通りである。 地震の日に持って帰った非常持ち出し袋をもっていく。電車の中で奇異な目で見られた。 帰りは前日と同じ両国から業平橋までバスで行き、それから東武線である。

会社での後始末

地震が起こってちょうど一週間後の金曜日を迎えた。 会社でも被害状況の確認などが行われた。 つれあいは、テレビが倒れてこないように工夫して台とつなげた。これでテレビが倒れにくくなるだろう。

地震を気にしながらの宴会

地震が起こって8日め、八重洲室内アンサンブルの練習に懲りずに出かける。 ミュージックの日と称して地震を少し気にして飲む。

部屋整理

地震が起こって9日め、部屋の整理を続ける。 友人に地震学者がいるが、テレビには出ていない。

風呂掃除

地震が起こって9日め、部屋の整理を続ける。 友人に地震学者がいるが、テレビには出ていない。 そんなことより、地震がこわい。 地震対策の品々を買ったが、まだとりつけていないところがある。

まだ混んでいる

地震が起こって10日目、電車が通常時より混んだ状態は変わらない。 二駅めでは降りる人が多く、流れに乗ったらもとの電車に乗れなくなった。 もっとも、すぐ次の電車が来ているということだったので、そちらを待ったらすいていた。 混んでいる電車の次に空いた電車が来るというのは、 寺田寅彦の随筆にあったことで、よく活用している。

メールをもらう

地震が起こって11日目、行きも帰りも通常の経路にした。地震後初めてである 北茨城の友人から無事であることのメールが来た。やっとメールが読める状態になったとのこと。 お見舞い申し上げる。

耐震構造が専門の知人のホームページを見た。 こんなことが書かれていたので、正直おどろいた。 (境有紀のホームページより、ニュージーランド クライストチャーチ直下の地震) (sakaiy.main.jp)

ニュージーランドは,単に地震国というだけでなく, その耐震工学の先進性でも知られています.世界の中で耐震工学をリードしているのは, 日本,ニュージーランド,アメリカの3国と言えるでしょう. つまり,今回の地震で被害が出たのは,耐震規定がお粗末だからで, 日本では大丈夫とは,言えないということです.

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MARUYAMA Satosi