ラパリサード(英語、フランス語ともに lapalissade) とは、自明の理、わかりきったこと、当然そうなること、という意味である。 また、同義反復、トートロジーとも近い。この語の成り立ちは少し説明を要する。
フランスにジャック・ド・ラ・パリス(ラ・パリース)という軍人・貴族がいた。 彼の墓には次のような碑文がある:
ci gît Monſieur de la Palice: s'il n'était pas mort, il ferait encore envie
(ラ・パリス卿ここに眠る:死ぬ前でも彼を羨む者がいた)
envie というフランス語は、英語でいう envy(妬む、羨む)の活用形である。
ところがこの後半が、うっかりか意図的にか知らないが、次のように読まれてしまった。
s'il n'était pas mort, il ſerait encore en vie
死ぬ前でも彼は生きていた。
ſerait という語は何かというと、serait のことらしい。当時の技術では、 文字 f も文字 s も同じ ſ のように印刷されていたという。これが面白い誤読につながった、 というわけだ。
この誤読に触発されて、18 世紀のフランスの詩人、ベルナール・ド・ラ・モンノエ ( Bernard de La Monnoye )は、ラパリサードを全連に含む 52 連からなる詩を作っている。 わたしはフランス語がわからないので訳出はできない。ともかくもその量に圧倒される。
スプーナリズムと比較しよう。スプーナリズムの名前の元になったスプーナーさんは、 必ずしもスプーナーリズムのことばを発していたという証拠はないが、 奇人であったことには変わりがない。ところが、このラ・パリスさんは、自分の死んだあと、 自分のあずかり知らぬところでことば遊びの名前を付けられている。
フランスでは、「ラ・パリスの言うことには〇〇〇だ」という言い方があって、 これは「〇〇〇というのは間違いようのないほど明らかなことだ」という意味になる。
なお、他の言語では、ラ・パリスに変えて他の人物を充てることがあるようだ。
日本ではラ・パリスにあたる人物は思い出せない。 思い切り言い方を変えると「あたり前田のクラッカー」だろう。
「彼は死ぬまで生きていた」式の文で、私が思いついたのは次の有名なことばだ。
犬が西向きゃ尾は東
ほかにも同じような諺がある
一応、意味を解釈する作業が加わっている。なので「馬から落ちて落馬した」というような同義反復は除いている。
ラパリサードがおかしな言葉遊びなのか、疑問に感じたが、 次に挙げる間違いがなぜおかしいのかと思うと、それがラパリサードなのだからと思う。 糸井重里(編)「金のいいまつがい」から p.250 の例を引用する:
娘(小4)の理科のテストの答えを見て愕然としました。「水のかさは次の時どうなりますか」 という問いに、「熱したとき→(あつくなる) 冷やしたとき→(冷たくなる)」。こんな当たり前なこと、 テストで聞いてくるわけないじゃないの!」
野暮を承知で(期待されている)解答例を示せば、熱したとき→増える、冷やしたとき→減る。 ただし、水の場合は 4℃ (より正確には 3.98℃)を境に、この温度以下に冷やすとかさが逆に増える。 そのため0℃近い水は密度が軽くなるので水面近くに移動するので、氷が張るのは水面近くからになる。
これはおかしさを狙ったのだとは思わないが、マキタスポーツ作詞、マキタスポーツ・ジミー岩崎作曲の 「雨ふれば」という歌がある。歌詞の引用は控えるが、これはラパリサードの例といえるだろう。 なぜラパリサードで作ったのかというと、 マキタスポーツは曲作りにあたって日本のポップソングの典型例をすべてぶち込んだので、 それを際立たせるために歌詞はあえて意味のない、いや、 意味の読みをさせないように、当たり前のことを並べたのだろう。
友人によれば「貧乏カネなし」なのだそうだ。もちろん「貧乏暇なし」のもじりなのだが、 今考えてみるとラパリサードである。
微積分のこころに触れる旅という数学の本で、 ラパリサードのもとになったラ・パリス(ラ・パリース)のことを初めて知った。
小泉進次郎は、日本の政治家である。この小泉が発するある種の言い回しが「小泉進次郎構文」、あるいは単に「小泉構文」や「進次郎構文」と呼ばれていることを最近発見した。 たとえば、2019 年の国連気候行動サミットに出席した小泉は、次のように述べている。
今のままではいけないと思います。 だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている。
この「だから」という接続詞はおかしい。なぜなら、「だから」のあとには、論理的に帰結可能でかつ新しい情報が提示されなければならないからだ。 しかし、このだからこそは、「Aである、だからこそ A である」という構文で、A であることを繰り返したにすぎない。ラパリサードに比べても、ひねりがない。
実際に小泉進次郎が発言した「進次郎構文」ではなく、周りが作った進次郎構文にはラパリサードを思わせるものがある。たとえば、 「君は誕生日に生まれたんだね」とか、(朝起きたら何しますか?という質問に対する)「目が覚めると思います」などがある。
もっとも私は、「小泉構文」と聞くと、小泉進次郎の父、小泉純一郎によるある主張を最初に思い出したのだった。それは、 2004 年、イラクのサマーワで日本の自衛隊が駐留して復興支援活動を開始したころのことである。 党首討論で「サマーワが非戦闘地域である根拠は何か」という質問に、当時の首相であった小泉純一郎は「法の趣旨は自衛隊の活動している地域は非戦闘地域だ」と回答したことだ。
「進次郎構文」を見ていると、晩年の武者小路実篤の文を思い出す。 晩年の武者小路実篤にはゴッホの自画像について次のような文がある。これは山田風太郎「人間臨終図巻」で知った。
彼はその画をかいた時、もう半分気がへんになつていたろうと思う程神経質な顔になつていたように神経質な顔をして、 この顔を見ればもう生きていられないような、神経質な顔をしていた。
小泉構文と関連があるのではないだろうか。
土屋賢二に「長生きは老化のもと」という、人を食ったなまえの著作がある。この表題も、ラパリサードといえると思う。
久しぶりにラブレーの「第二之書 パンタグリュエル物語」を読んでいたら、第2章の終わり(渡辺一夫訳の岩波文庫では p.34)で、こんな箇所に出会った。主人公のパンタグリュエルが生まれたのを見て、 産婆の一人が将来を占って言ったことばである。
―この御子様は毛むくじゃらでお生れなすった。きっとすばらしいことを色々なさるだろうし、生き長らえて行かれるうちには、お年もめされるこってしょうぞ。
ここには訳者による、生き長らえて行かれる…… = 自明の理を真面目な調子で言う十六世紀の民間笑話の技法。
という注釈があった。
ラパリサードは 16 世紀には既に、技法として確立されていたのだ。(
日本のロックバンド、エレファントカシマシの「生活」というアルバムの一曲に収められている「晩秋の一夜」では、次のような歌詞が出てくる。
日々のくらしに背中をつつかれて
それでも生きようか 死ぬまでは
作詞者の宮本浩次はラパリサードという意識はなかっただろうが、なぜかおかしい(