藤谷 治:船上でチェロを弾く |
作成日: 2012-05-12 最終更新日: |
I, II, III の三部からなる。I はハイドン、ベーゼンドルファー、チェロについて、 II はモーツァルト、小説について、III はチェロ盗難事件と自身の音楽感について。
この本の amazon のレビューには星5つが1件、星1つが1件と極端に評価が割れている。 わたしにはどちらもわかる。その理屈を書いてみよう。
私には著者の音楽感性はうらやましく思った。著者はハイドンを子供のころからきいていたのだ。私は大人になってからである。 それはともかく、作曲家を比較するくだりがある。 著者は、ハイドンはとてつもない量の作品を残した。と述べる。少しあとで、 量産によってハイドンは並みの作曲家から偉大な作曲家へと変容をとげた、としてさらに続ける。
量をかけばいいという話でもない。 コレルリとかスカルラッティとかボッケリーニといった、 今もレパートリーに残っている作曲家の作品を、 固めて聴いてみるといい。退屈で退屈で、一時間ともたないから。 初期のハイドンにつまらないものが多いと書いたが、 彼ら当時の人気作曲家の凡作に較べたら、まだしも生気のあるものばかりである。
これを読んで少し首をかしげてしまった。 コレルリは1653年生まれ、スカルラッティは父か息子かどちらかわからないが、 父アレッサンドロだとすれば1660年、 息子ドメニコだとすれば1685年である。 ボッケリーニは1743年で、ハイドンが1732年である。 当時といって比較するのが適当なのはボッケリーニだけで、他の二人(か三人)と比較するのは無理がある。
そして、比較された三人(か四人)の作品は凡作なのだろうか? 確かに固めてドメニコのを除いて固めて聞いたことはないのでなんともいえない。 ドメニコだって固めて聞いたのはピアノソナタだけである。そして、私はドメニコの音楽の大ファンである。 生気のあるというのは、結局は個人の主観だろう。理由になっていそうで、なっていないような記述だ。
私自身はハイドンの交響曲の全曲は聴いておらず、後半の52-104までしか聴いていない。 それでも、ハイドンの音楽も大好きだといってはばからない。著者自身が II 部で、小林秀雄の「モオツァルト」に関して、 モーツァルトをハイドンと対比させた文章を引用して、それをこのように評している。
一人の芸術家を身贔屓のように愛するために、今一人の芸術家を見極めようともせずにおとしめるというのは、 批評としてはどうか知らんが、情愛としてはレヴェルが低い。
著者のこの言が、他の作曲家とハイドンとの対比にあてはまらないことを祈る。
著者はハイドンに関する文章の最後に註を置いている。
蛇足ながら。演奏においては「深い」とは「表面的」、もしくは「表層的」ということである。
このあと説明が続いていく。私はこの一見矛盾と感じられる主張に思わず膝を打った。そうなのだ。 この註をおいたわけはこういうことだろう。 著者は、リヒテルのハイドンを聞いてどうしても「深み」ということばをどうしても使いたかったようだ。 そして、同時にこのような抽象的なことばを使うことへの抵抗を吐露している。 この深みとは何かを自問自答した上での解答がこの註として現れたとみる。 この後どう進んでいくかは、同書を読んでもらいたい。
「船に乗れ」の評でも触れたが、ピアノはヴェーゼンドルファーではなくて ベーゼンドルファーとつづるのが正しい。綴り字は Bösendorfer であり、Wösendorfer ではない。
著者は、モーツァルトがチェロのために独立した、あるいはチェロが活躍する曲を書かなかったことを惜しんでいる。 それは、非常によくわかる。そして、その理由を推測しているがこれも非常によくわかる (その理由は敢えて書かない)。 ただ、私はモーツァルトのふつうの弦楽合奏曲で根音ばかり弾いていても、十分に幸福である。
彼の第2ピアノ協奏曲を評して「サーカスみたいな音楽」と言っている。なるほど。 一般には第1ピアノ協奏曲が有名だが、こちらは弦とピアノとトランペットという特異な編成のためか、 何かいろいろなことを考えてしまう。第2にはそれがない。 著者は、ドンチャカブンチャカした音楽を書かせたら超一流の人、と言っている。 そういえば、別の人がショスタコーヴィチを「赤旗まつりの行進曲の人」と書いていた。 必ずしもそれだけはないと私には思うのだが、暗い側面を感じるのは面倒だから、私には著者のように気楽に構えてみたい。
著者はチェロを中学・高校と習ったあと、チェロに触れない時期が長く続いた。チェロの盗難という事件にもあった。 その後チェロのけいこを再開する。大したものである。それも基礎練習である。 好きな曲を弾かせてくれる、というところは信用できないから、というのである。 私には耳が痛い。ずっとしろうとのままだものな。
著者はピアノも弾く。これは一人で続けていくという。バッハはフランス組曲やイギリス組曲がいいという。 フランス組曲の第6番はシャープが5つもある、という。あれ、第6番はホ長調だから4つではないだろうか。 それに、第6番が難しいのはイギリス組曲の方ではないかと私は思う。
私にとってのサン=サーンスは、どこか音楽の格が少し足りない、お気楽な曲をたくさん作ったおじいさん、というイメージだ。 サン=サーンスの弟子であったフォーレと比べてしまうからかもしれない。 著者は、ショスタコーヴィチと並んで、サン=サーンスを興味の対象として聴いているということだ。 まあ、私もサン=サーンスを敬遠している派だからなんともいえないが、実際に弾いてみると違うかもしれない。
というのはサン=サーンスの実体験があるからだ。 何年か前のことか覚えていないが、ある知人を訪問したらヴァイオリンを習っている娘さんがいらっしゃった。 ピアノのおじさんと何か合わせてごらん、と知人が娘さんに勧めた。 出されたのはサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調の第1楽章だった。私は絶句した。 楽譜は初見で、昔聴いたのも学生までさかのぼるから25年以上前だろうか。内心の焦りを抑え、おじさんらしく鷹揚に構え、 ピアノのトレモロを弾きだした。娘さんは非常に達者で、これからどうなるんだろうと舌を巻いた。
こういう技術性をアピールするのにサン=サーンスは格好の場ではないかと思う。 では晩年のソナタ群はどうか。ピアノ協奏曲群はどうか(第2番がいいという人はけっこういる)。
最後のほうで、著者は述懐する。《音楽もまた、ピアノと五線譜の外にあるものに、阿(おもね)ることはできないはずだ。日本人であろうと、 どこの国の人であろうと。》 単純なことばであるだけに、いろいろと突っ込みどころはあるが、私は著者の言に同意する。
書 名 | 船上でチェロを弾く |
著 者 | 藤谷 治 |
発行日 | 2011 年 3 月 |
発行元 | マガジンハウス |
定 価 | 1500円(本体) |
サイズ | 219ページ 19cm |
ISBN | 978-4-8387-2239-6 |
NDC | 914(随筆、エッセイ) |
その他 | 知人に借りて読む |
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