「わたし」はとつぜん、学生時代の外套を思い出した。あの外套はどうなったのかをたどる。
25 年前になるだろうか。ファラオ叢書の「吉野太夫」を読んだ。こんな作品を書く人がいるなんて、と驚いた。 その後、「挾み撃ち」を読んだ。やはり後藤明生ワールド満開の小説だった。しばらくして世事に紛れて小説そのものを読まなくなってしまったが、 寿命が近づいたこともあり、後藤明生の小説群をもう少し読んでみようということにして、 後藤明生セレクション2にある挾み撃ちを再度読んでいる。 文庫本より、文字が大きいので読みやすい。
後藤明生の代表作といえばまずこの挾み撃ちになるだろう。解説では、後藤明生固有の脱線について言及される。 脱線は「とつぜん」という彼の代名詞となる符丁で示されるが、それにしても、とつぜんが同書 pp.376-377 が、同書のことばを借りれば「濫発」されている。 これには恐れ入った。
後藤明生の前期の作品は(前期だけに限らないが)、自身の分身を思わせる主人公を登場させている。 この小説では主人公が高校時代過ごした筑前の方言が出てきて、主人公の知人が何かにつけ「ばからしか、ち!」という。 この合いの手は確かにおもしろい。しかし、随所で出てくるのではない。この小説はp.245-p.451まであるが、このことばが出てくるのは、 集中的にp.329 に出て以降はその後の p.330 、p.335 、p.390 にそれぞれ一度、出てくるだけである。あまり「随所」という感じはしない。 ただ、合いの手で入れられているのは固定の文言ではない。あるときは朝鮮語の歌詞だったり、あるときはロシア語だったり、変幻自在である。 そんなテンポの良さが、この作品には感じられる。
p.443 で、主人公の「わたし」は名所旧跡を訪れる観光客について考え、こう続けている。
「(前略)おそらくわたしは、例えばモスクワでは、どこよりもまずノヴォ・ジェーヴチー寺院裏のゴーゴリの墓へ出かけて行きたがる人間に違いないのである」
そのあとも、ロシア文学で描写された橋や通りや河を見たいということを書いている。 このくだり、すなわち主人公が抱くロシア地へのあこがれは、 そのまま読み手である私と作者の後藤明生の間につながるあこがれであることがわかった。 だから私はこの小説を読んですぐに、後藤明生の足跡をたどりたいと思った。そこで、松原団地の界隈を歩いたり、バスに乗ったりしたのだった。 もっとも、作者は、主人公が住んでいる団地は草加の団地としか言っていない。 また別の小説ではR県のR団地としている。 このセレクションの小説で、作者の分身とおぼしき主人公が住んでいる場所については、松原団地という言葉を慎重に避けている。 現実ではない虚構の団地であるように描写することを、最低限の作法として守っているようだ。
この代表作「挾み撃ち」を誤って「挟み撃ち」と書いていた。お恥ずかしい。 https://book2.5ch.net/test/read.cgi/book/1074941240/133 参照 (2019-10-12) 。
書 名 | 挾み撃ち |
著 者 | 後藤 明生 |
発行日 | 年 月 日 |
発行元 | 講談社 |
定 価 | 円(本体) |
サイズ | |
その他 | 講談社文芸文庫 |
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