予は如何にして数学教徒となりしか
なぜ関数解析のページを作ろうとしたのか、整理してみたい。
私は学生のころ、関数解析を学んだような覚えがある。 自分の過去のことなのに推測でいうのはおかしいのだが、じっさいそうだ。
学部三年生の前期か後期かは忘れた。応用物理の学生だから、関数解析を学んでも当然だろう。 事実、カリキュラムにあったから登録して講義に出た。 ところが、この講義の教官の言っていることがハナからわからないのだ。 それは、自分の頭が悪いからというのもあるが、同じ講義を受けている友人に聞いても異口同音にわからない、というのだ。 ということは、この教官の授業が下手だからだということを結論として出して、以降その講義はまじめに聞かないことにした。 だいたい、その講義がどんなカリキュラムだったか覚えていない。 かろうじて覚えているのが、その教官が「ヒルバート空間」ということばを何度も発していたことだった。 ヒルバートとは何か、おそらく数学のヒルベルトのことだろうという見当はついていたが、 ではヒルベルト空間というのは何か、単位は頂戴したがその後もわからなかったので、 のどにつかえた魚の小骨のように気になっていた。 そのうち時間がたち、どうやらヒルベルト空間というのは関数解析という分野における用語ということがわかった。 それならばもう少しヒルベルト空間というのは理解してやろう、という気持ちになった。
ちなみにこの教官は、ある関数解析の本の訳者としても目にしたことがある。
卒業して企業に入ったが、仕事に身が入らない。 入って一年になろうとするころ、となりの部の研究者と話をした。その研究者は、 「ディラックの量子力学を買ったんだけれど、結局読めなくて」 という後悔めいた話を私にした。ひょっとして、応用物理をやった俺にたいするあてつけか、 と思い、あわててディラックの量子力学の原本を買った。1986年2月2日のことである。
例によってつんどくのままだったが、最近関数解析の本を借りたら、 ディラックの本で関数解析的な手法を使っていて、数学的にはむちゃくちゃだが魅力的だ、 というようなことが書いてあった。それならば、関数解析がわかればディラックの本も読めるだろうと思った。
吉田耕作氏と加藤敏夫氏は、お二人とも押しも押されもせぬ日本の大数学者で、 ともに関数解析に関する著作を英語で上梓している。 その二人の共著の本を持っているのだが、 それは「応用数学」と名付けられている。 加藤氏は数理物理学が本業で、関数解析でも業績を遺せたから応用数学の本も書けたのだろうが、 吉田氏はどうだったのだろうか。そんな二人を知りたいとも思ったのだ。
さきほどのヒルバート空間が典型なのだが、この関数解析ではいろいろな数学者の名前が多く出ている。 関数空間の種別を表すだけでもこれだけある。
関数空間の名前だけではない。ほかにも数学者の名前がつけられた用語が多くある。 そういった数学者と近づきたいと思う。
物理数学の直観的方法という本がある。この本の p.87では、関数解析について次のように書かれている。現代数学が有用となる例として、 制御理論の安定性をひきあいに出して次のように述べている。
この安定性という問題は ICBM の制御などとも深くかかわっているために,旧ソ連では関数解析の理論が発達したのだともいわれる。
関数解析を学んだといえるには、何を理解すればいいのだろうか。 各種の本で、定理という名前に着目して見てみよう。
山田功の「工学のための関数解析」という本がある。この本の記載を見てみよう。
同書では、関数解析の線形理論には、corner stones と呼ばれる4大定理があり,
と述べている。
これらは次の通りである。
このなかで、ハーン・バナッハの定理だけが異質である。なぜかというとこの定理だけが空間の完備性を要求しないからである。 残りの3定理は、ベールの定理から共通に導かれる。ということは、これらまずはベールの定理と上記の4定理を理解すべきということだろう。
同書の第5章では、関数解析の諸定理の中で最も広く応用されている定理は「ヒルベルト空間における直交射影定理」であろう
と述べられている。射影定理は、凸射影定理と直交射影定理があるので、これらは大事なのだろう。
同書のまえがきでは、「ルベーグ積分」や「線形作用素のスペクトル理論」を割愛したと述べている。ということは、これらも大事なことなのだろう。
まえがきでは、関数解析で重要な,完備距離空間に関する Baire のカテゴリー定理は第 2 章で述べてある
というので、
この定理は重要であることがわかる(山田の著作の「ベールの定理」と同じである)。また、Hahn-Banach の拡張定理で必要になる、
と書かれているのは山田の著作のハーン・バナッハの定理と同じである。それから有界自己共役作用素のスペクトル分解定理、とあるので、
関数解析におけるスペクトル分解定理は一つの目標なのだろう。
他に出てくる定理の名前には、Ebelein-Šmulian の定理がある。
まえがきでは、定理の名前は出てこない。キーワードを挙げれば、Riesz-Schauder の理論、作用素の(半群の)理論、スペクトル分解、 自己共役作用素の理論である。
あとがきに出てくるのは、まえがきと重複するキーワードを除くと Dirichlet 問題の扱い、一般展開定理がある。
まえがきには定理の名前は出てきていない。実際に読み進めながら必要な定理とその理解に及んでいく。
まえがきにあるのは作用素論の解説ということである。ここで作用素とは、関数が属する空間、すなわち関数空間に関する写像を意味する。 その作用素論には何があるのだろうか。目次を見てみよう。 全部で 9 章からなるこの本で、第 1 章は関数解析の舞台と主役といっている。そして第 2 章はノルムと内積の説明である。 第 3 章ではバナッハ空間、とくにヒルベルト空間とある。特徴のあることばには「縮小写像の不動点定理」や「ソボレフの埋蔵定理」などがある。 第 4 章は「線形作用素の基本」だが、定理らしき文字はない。第5章は「射影定理とそれからの展開」であり、射影定理が重要であること、 それから Riesz の表現定理とあるからこれは重要なのだろう。また、Hahn-Banach の定理というものもある。 第 6 章から第 9 章ではなんたらの定理という文字は見当たらない。
関数解析というぐらいだから、解析の初級部分は必要である。また、関数解析とは無限次元の線形代数である、という言い方からすれば、 (有限次元の)線形代数も必須だろう。問題はその先である。 関数解析と切っても切れない関係にあるのがルベグ積分である。 たいていの関数解析の本を見ても、ルベグ積分の扱いには苦慮している。 知っていることを前提とする本もあれば、 付録でルベグ積分の最低限の解説をする本もある。そして、 なるべくルベグ積分に触れずに進むという本もある。
ルベグ積分で悩まなければいけないのは、その前段に測度論というややこしい分野があるからだ。よく、Aというやりたいことがあるのに、 AをやるためにはBを済ませるなければならず、Bを済ませるにはCが必要となる、という要求の連鎖に出くわすことがある (このような要求の連鎖を俗にヤクの毛刈りという)。 関数解析とルベグ積分、測度論はその典型ではないだろうか。 私としては、ルベグ積分は触れずに済ませたいが、来たらそのたびに泥縄式でやっつけることにしたい。 ルベグ積分の成書として、最近ちくま学芸文庫で復刊された吉田洋一の「ルベグ積分入門」を挙げる。
なお、ルベグ積分は通常ルベーグ積分と書かれるが、梶原壤二の「エリート数学」によれば、 Lebesgue のつづり字の bes の箇所は、bé と同じであり、 より正確には「ルベッグ」と読むのが正しいそうである。ただ、こんなことをいうと「衒学的」とさげすまされるので、中間をとって「ルベグ」と表記している、 という。吉田洋一氏がそこまで考えてルベグ積分の表記をとったのかはわからない。
数学は覚えておくべき概念や定理が多い。もちろん内容もそうなのだが、名称も妙に難しい。 なぜかというと、私から見ると字面から意味がとりにくいのである。 「微積分学の基本定理」とか「代数学の基本定理」といえば、基本的な定理ということでまだイメージがわく。 ところが、大学初年級の微積分や線形代数の先にある分野になると、人名がつけられた定理で埋め尽くされる。
関数解析では、まず空間種類の識別に人名が用いられる。典型的な関数空間であるバナッハ空間がその例である。 バナッハ空間とは完備なノルム空間のことをいう。だから、バナッハ空間と呼ばずに「完備ノルム空間」と呼べばいいはずなのだが、 そうはしない。 同様に、ヒルベルト空間は完備な内積空間のことをいう。必ずしも完備とは限らない内積空間を前ヒルベルト空間ということから、 名前をつけたがる癖というのは数学世界では相当なものだ。 そのほかにもいろいろな空間があるが、ほとんどが人名を付された空間である。
数学では人名がつく定理が多く、関数解析も例外ではない。 そして、その定理の内容を修飾する形容詞がついていることが多い。 下記はその例である。修飾形容詞はカッコで囲んでおく
この中には、カッコ内を略しても全く問題ないもの、カッコ内を略した時にデフォルトを指すことが決まっているもの、 カッコ内を略すと誤解される恐れがあるので必ずつけるもの、という区分がある。
ソボレフの埋蔵定理は、カッコ内を略しても問題はない。ベールの範疇定理にしても同様である。 一方、ハーン・バナッハの定理というと、ふつうは拡張定理のほうを表す。分離定理は、拡張定理の別形態である。
リースの(表現)定理は、カッコ内を省くと別の定理を指す可能性があるからつけるものと思われる。 リースと名の付く数学者は二人いて兄弟である。兄フリジェシュと弟マルツェルがいて、 表現定理はフリジェシュによる。ほかに、マルツェル単独の定理も、そして兄弟が協力して証明した定理もある。
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