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作成日:1998-05-09 最終更新日: |
私が所有している、まるまるフォーレについて書かれた書籍はこれだけある。 発行(邦訳)年代順にならべた。結構多いのではないだろうか。
ちょっと難しい。持ってまわった表現が多いが、実の父親にむかってだからか。
フォーレに関する資料では質・量ともに最高。 暇なときにこつこつ訳しているが、完成は当分先。
フォーレへの熱意にあふれた本。 わたしが最初にフォーレの魅力にはまったのは、 この本があったからだ。 もともと「バラード」を弾いた O さんから借りたものだったが、 あまりに夢中になって読んだことで少し汚してしまったので、 O さんには新品をお返ししたほどである。
4つの歌曲(牢獄、墓地で、イスファハンのばら、秘密)と連作歌曲集「幻想の水平線」を取り上げている。 綿密であるとともにフォーレの音楽の魅力に迫っている。原本ではピアノ曲に関する分析もあるようで、 そちらも見たいと私は切望している。
綿密である。困ったことに初版の誤植が多かったが、 2001年現在出版されている第3刷は訂正されている。
歌曲のほぼすべてについて綿密な紹介がなされ、歌い方の実際が丁寧に記述してある。 このもととなる記事が「音楽の世界」という雑誌に連載されていて、その頃から私は読んでいた。
重要な書簡はすでに知っていたが、これほどまでに手紙をやり取りしているとは。
詩人ごとにまとめたフォーレの歌曲の分析の書。 フォーレが自身の音楽を作るために詩そのものを「改悪」していたということを知り、驚いた。
フォーレに隠し子がいたという事実、しかもその隠し子をドビュッシーが育てていたことが書いてある。 その外自分の興味にあわせて読むといいだろう。 ここで挙げていないフォーレの文献・楽譜の紹介(1995年現在)もある。室内楽の記述が少ないのが残念。
ところどころ女性としてのフォーレへの目が出てくるところがおもしろい。巻末の作品リストは非常に詳しい。
名ピアニストであるマルグリット・ロンが、フォーレとの交友とピアノ曲についての思いを綴っている。
フォーレとの交友については、次の2点、 フォーレがコンセルヴァトワール院長への名誉欲を露にしたこと、 ロンがコンセルヴァトワール教授になることを長い間フォーレが妨害したことが特に面白かった。 どちらもフォーレ自身の気質だとは私には思えない。 特に、後者に関してはその思いは強い。 なぜなら、ロン自身フォーレのとりまきが悪い奴らで、 フォーレを唆したからだということを述べているからだ。 とにかく、聖人君子ではないフォーレが垣間見えるのが面白い。
ピアノ曲の解釈はごく限られている。特に、後期の作品についての言及が少ない。 極端な例をいえば、舟歌第11番は取り上げられていない。また、 夜想曲の第11番から第13番までは、個別の批評はおこなわれていない。 前奏曲集についても、やはり個別の批評はない。
ロンは、ピアノ曲についての解釈を述べたこの本の第9章で、次のように言っている。 「私としては、 難聴という試練がフォーレの音の領域をせばめる前に書かれた作品の方が好きであることを認めます。」 従って、舟歌第11番に対する扱いは、当然の帰結と考えられる。 その点は後期作品を愛する者にとっては残念である。 しかし、前期作品への讃美は力強く、また優しい。特に、夜想曲第四番、第六番、 バラード、主題と変奏というフォーレの代表作品に対する助言は、説得力に富む。
最後に、私が誤植と思ったものを記す。
ページ | 誤 | 正 |
---|---|---|
72 | 夫の墓碑名には | 夫の墓碑銘には |
92 | ヴァスルカプリス第2番 | ヴァルスカプリス第2番 |
144 | 夜想曲第13番作品117 | 夜想曲第13番作品119 |
157 | (楽譜左手)Cis | Dis |
また、125 ページに、 「そして彼の作品に色を添えるいくつかの『プレリュードとフーガ』。」 とあるが、 フォーレは『プレリュードとフーガ』という一対の形式ではピアノ曲を作っていない。 彼は9つの前奏曲といくつかのフーガ(そのうちの2曲は「ピエス・ブレヴス」に収められている)を作曲したが、 一対ではない。 また、この後に言及されるのは「前奏曲集」であるので、 たとえロンが『プレリュードとフーガ』と書いていても、 ここは訳者の権限で単に『前奏曲集』と書いておくのがよいと思う。
それと関連して、この翻訳では、 原本の誤植をわざわざ翻訳時にも並記してあるが、 並記の必要はなく単に正しい記述をすればよいと私は思う。 (音楽之友社(www.ongakunotomo.co.jp, 2002)
ジャンケレヴィッチのこの本では、 フォーレが採用した調性のイメージについて、 偏執なまでの考察をしている。なるほど、 変記号を好んで採用していたことの理由は、 わかるような気がする。 (新評論, 2006)
誤植はこれだけあった。
ページ | 誤 | 正 |
---|---|---|
47 | (『この世では』の)嬰ヘ長調 | (『この世では』の)嬰ヘ短調 |
48 | 脚注(15)の『九つの前奏曲』の『第七番』 | (削除)(同曲はイ長調のため) |
59 | 『夜想曲第1番』変ホ長調 | 『夜想曲第1番』変ホ短調 |
151 | そしてイ長調の調性 | そして変イ長調の調性 |
228 | 符点八分音符 | 付点八分音符 |
部分的にフォーレに関して言及された本には次のものがある。
さすがというべきか、女性関係の著述が多い。 現在は文庫本で入手可能である。
フォーレの分はほぼ40ページ。これが原点なのかという感じ。
さすがの解釈である。この本は横須賀線の鎌倉駅のホームの売店で買った。文化都市。
私は最初、新潮文庫版で本書を買い、 この中の「フォーレピアノ五重奏曲第二番」の賞賛に感激してフォーレを深く聞くようになった。 現在新潮文庫版は手元にはないが、その後ちくま文庫版で再発されたので、こちらを買い直し、読み返している。
なお、新潮文庫版では、作曲者を「フォレ」と表記している。 これについて、著者後記に「フォーレと書くのは言いようのない誤りで、フォレと書いた」 という主旨の一文があった。しかし、ちくま文庫版では著者後記はなく、 作曲者は「フォーレ」と表記されている。(2009-06-07)
詩的で暗示に富む文章。翻訳ではよくわからないかもしれない。他にショパンとサティが取り上げられている。
フォーレのほか、ヘンデル、ハイドン、シューベルト、ドボルザークの5人の作曲家について、 チェリストであるイッサーリスが、作曲家への尊敬をこめて若い人に語りかける。 詳しくはリンク先参照。
その他の文献としては次のものがある。
エラートからの室内楽全集がレコードで出ていたころ、 解説でついていた。 けっこういい。 上記の吉田秀和の評論もこの解説に言及している。
遠山菜穂美の記事、藤井一興、堀江真理子へのインタビューがある。 藤井さんの、 「フォーレは日本には驚くほど広まっていない」という言葉に、私はがっかりした。
私が覚えているのは東和男へのインタビュー、高橋清の文献紹介、三枝成彰の編曲など。現在私の手元にはない。