ハルプライヒ論文-ピアノ曲総論

作成日 : 2020-01-15
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フォーレのピアノ作品は、1881 年から 1921 年までと彼の創作期間の大部分にわたっている。 これらの40年間は、歴史の変遷と同様、音楽書法も大きく変化した。 フォーレが最初のピアノ作品を書いたとき、ワグナーとリストは存命であり、 ブラームスは絶頂期にあった。そしてフランスではサン=サーンスとラロが器楽分野を支配し、 セザール・フランクの主要作品はまだ書かれていなかった。 フォーレのピアノ作品の傑作である夜想曲第 13 番が書かれたその時点で、 シェーンベルクとストラヴィンスキーによって具現化された音楽史上最大の革命がすでに起こり、 また若き「六人組」が最初の影響を与えた。 フォーレの青年時代はさておき、 1918年以降の時代、全世界は 先鋭的かつ芸術的だった。 さらに、 その 1918 年までに、 ドビュッシーとラヴェルはともに鍵盤楽器の作品を書き終えた。 ドビュッシーは1918年に亡くなり、 またフォーレの一番弟子で30年の年下であったラヴェルも 1917年の「クープランの墓」の後にはソロピアノの作品を書かなかったからだ。 ラヴェルに関していえば、その後も2曲のピアノ協奏曲を 1931 年に発表したが、これはフォーレの没した7年後であった。

フォーレのピアノ作品は、 他の作品と同様、 最初の夜想曲と即興曲にみられる輝きと優雅さから、 後期スタイルのもつ、禁欲的かつ内省的で、崇高で希薄な雰囲気へと顕著に進化していることを如実に表している。 しかし、この進化はもっぱら個人的なものであるように思われ、 フランスの作曲家であれ、他国の作曲家であれ、 現代のトレンドの影響を受けないと考えるのは難しいだろう。 フォーレの和声は、完全に個人的で、転調を大胆かつ新奇に使用するものであり、 最遠隔調に容易に到達する目を見張るほどの手法は、 ショパンやシューマンのロマンチックなイディオムに起源を持つ。 この手法は 19世紀では段階的なプロセスで急速に発展したが、 20世紀ではこれらプロセスが統合されることはなかった。 フォーレを中傷する者はフランスにも海外にも多数存在するが、 これらの中傷者はフォーレの音楽が時代錯誤であることをまず強調する。 しかし実際には、彼は同時代から距離をおいていて、 彼の晩年のスタイルは間違いなく音楽史の孤立した現象だ。 この現象は、この先開花することはなく、 マイナーな模倣者たちには真似のできない、袋小路である。 フォーレの音楽的個性の質について最も印象的なことは、時代を超越している、ということだ。 フォーレの友人であるサン-サーンスは、「フォーレは年齢をとっていないし、これからも年齢をとらないだろう」と言った。 これはまさに至言であろう。 音楽や芸術における他の多くの主要人物と同様に、 フォーレは普遍的なものへと進化していた。 このように、彼の晩年の傑作は回顧とは程遠く、 傑作が生まれた当時の時代とはほとんど関係がない。 一方で、彼の初期の作品は衰退した19世紀の全体像に統合されていった。

量的には、フォーレのピアノ作品はフランスの他の作曲家をしのぎ、 ドビュッシーのピアノ作品とほぼ同数である。 フォーレ自身の作品のなかで比べれば、 ピアノ作品の数は歌曲の数とかなり近いが、 歌曲は彼の作曲家生活で、コンスタントに、そしてごく初期から書かれている。

フォーレは歌曲の分野で彼自身の個性を見つけている。これは ドビュッシーと似ているが、シューマンとは異なる。 フォーレの最初の10曲の作品は完全に歌曲である。 これは、シューマンの作品番号1から23がもっぱらピアノ作品であることと驚くほど似ている。 さまざまな合唱曲や、(未完成および撤回した)ヴァイオリン協奏曲の試みのあと、 室内楽の最初の2つの傑作 (イ長調バイオリンソナタハ短調ピアノ四重奏曲)は、 ピアノ独奏曲の最初の作品であるバラードの 作品番号 19 より前にきている。 このバラードは、作曲家が36歳の1881年にようやく登場し、 それまでピアノ作品が発表されていないという不本意かつ奇妙さがついに克服されたとき、 新たに得られた確証によって、前例のない期間で創造的なピアノ作品を生み出した。 1883年は、フォーレの鍵盤楽器作品制作における「驚異の年」であり、7つの作品が発表された。

オーケストラ版のバラードと、ピアノとオーケストラの晩年の作品「幻想曲」(Op.111) を除くと、ピアノ連弾の組曲「ドリー」を含めて、 フォーレのピアノ作品は合計で65曲に上る。 これらのほとんどは小規模であり、彼がより大きな形式を試みたのは2回、すなわち「バラード」と「主題と変奏」だけだった。 フォーレが開拓したジャンルのほとんどはショパンの作品にある:夜想曲のほか、舟歌、即興曲、ワルツ、前奏曲、 (フォーレには1曲だけの)マズルカである。 しかし、ドビュッシーとは異なり、彼は練習曲集を試みるための技巧の問題に十分にかかわってはいなかった。 室内楽では、より大きな形式を豊かに実らせた作曲家フォーレには、ピアノ作品にソナタが存在しない。 これに関しては、ロマン派後期の時代では一般的にピアノソナタが衰退したことを反映しているだけであろう。

早逝することのなかった偉大な作曲家と同様、フォーレはスタイルの発展につき3つの段階を経た。 これらは、フォーレのピアニズムの成果に最も顕著に反映され、 明らかに3つの期間に分類される。 第1期には、1886年までに書かれた作品が含まれる:夜想曲1〜5、舟歌1〜4、 即興曲 1〜3、ワルツ-カプリス 1および2、 バラード、マズルカ、3つの無言歌。この初期のグループでは、 フォーレの最も有名で最も頻繁に演奏される作品のほとんどが見つかる。 歌手が主に初期の歌曲を歌うように、 ピアニストは一般にこれら初期の作品を好む。 その結果、コンサートに行く人々は、 わずかに重要な作品に限定された、 フォーレの個性についての部分的で限定的な考えしか得られないことになる。 彼の主要な業績が比較的知られていないということは、フォーレが犠牲者でありつづけるという 誤解の原因のほとんどかもしれない。

成熟期の第2期は、ピアノ作品に関する限り6年のギャップを経て1892年に始まり、 1904年まで続く。夜想曲6〜8、舟歌5および6、ワルツカプリス 3および4、 8つの「小品集」、主題と変奏、連弾曲「ドリー」。 議論の余地のない傑作、夜想曲第6番と「主題と変奏」は、世評を獲得し、 広く演奏されるフォーレの天才に完全にふさわしい稀なピアノ作品である。

第3期は、3つのうちで最も知られていない期間であり、 1905年から1921年までの約16年間である。 前述の期間と明確に区別されるわけではなく、実際のギャップはない。 舟歌第7番は五重奏曲第1番(Op.89)と同時に書かれた。これは間違いなくフォーレの進化のマイルストーンである。 この最後の期間には、夜想曲第9番から第13番、舟歌第7番から第13番、即興曲第4番から第6番、 および9つの前奏曲集という、連続した高尚な傑作が含まれる。 これらは、後期の連作歌曲集、主要な室内楽作品、そして、 フォーレの唯一かつ残念なことに過小評価されている高貴なオペラ「ペネロペ」 の価値ある作品と共にある。

フォーレは「フランスのシューマン」と呼ばれることがある。 2人とも同様に、ピアノや歌曲、室内楽といった親密な形式に作品を集中させていたからだ。 しかしこのような比較は誤解どころの問題ではない。 初期の室内楽作品にみられる短いエコーを除けば、 シューマンの書法から受けたフォーレの作品への影響は見当たらない。

フォーレの音楽には、穏やかでバランスの取れた性質、彼の気まぐれな平衡と洗練の感覚、 持続的な音楽的思考と音色とリズミカルな連続性という、ほとんどバッハのような特徴が見られる。この特徴は、 シューマンの情熱的で短命の爆発からの衝動的で熱狂的な気性とは、 またシューマンの残忍なコントラストと永続的な落ち着きのなさとは別の世界である。、

フォーレは、ドイツ音楽での位置がやや似ている近世のブラームスに非常に近い。 どちらも内向的なアーティストであり、あらゆる形の勇気を避け、明白なことを恐れていた。 しかし、聴衆に衝撃を与えることを拒否し、その結果、二人の数多くのスタイルの革新性が隠れてしまった。 その結果、彼らが回顧的であり保守的であるという見当違いの意見につながった。 シェーンベルクは、「進歩的なブラームス」というエッセイで反響を巻き起こした。 しかし、フォーレに関してはこれに対応する研究はまだ書かれていない。

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MARUYAMA Satosi