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卑弥呼の鏡はどこへ行ったか
卑弥呼は贈られた100面の鏡を独り占めしたわけではないだろう。相当数が有力氏族の諸家に配分され、それぞれの家で墳墓に埋納されたり子孫に受け継がれたと思われる。卑弥呼の手元に置かれた鏡は、卑弥呼が死去した際にその墳墓に埋納されたと考えられる。鏡の一部が権威の象徴として代々の後継者に受け継がれたことは大いにあり得る。
- 卑弥呼の鏡の要件
既に出土しているあるいは今後出土する鏡の中から、「卑弥呼の鏡」を識別するために、「卑弥呼の鏡の要件」を検討しておく。
- 魏鏡のデザイン
方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、盤竜鏡など後漢鏡から魏鏡に引き継がれたデザイン。
- 18cm以下の面径
手持ち化粧道具として考えるとこれ以上の大きさでは実用にならない。
- 華北の銅原料
魏の尚方工官(朝廷の直営工場)がわざわざ江南の銅鉱から原料を仕入れるとは思えない。これらは敵対している呉の領域にありしかも遠方である。工場に常備している華北産の銅原料を使ったであろう。
- 同一文様では同一面径
鋳造品の収縮により鋳型を壊さないと製品は取り出せない。ということは製品の数だけ鋳型が必要なわけで、鋳型を作る雄型があるに違いない。
一つの雄型から100個の鋳型を作ることも可能であるが、それでは気が利かない。工場に保有する複数の文様の雄型からそれぞれ一定の個数の鋳型を作ったと考えられる。そうなればそれぞれの文様毎に、同一面径の鏡が複数枚鋳造されたことになる。
- 尚方作の銘文
尚方工官で作成したのなら「尚方作」の銘文があると考えるのが自然であり、卑弥呼に贈られた鏡に相応しい。
官営工場に個人名で製品を製作する工芸家がいたかどうか、また民間の工房から調達した可能性があるかどうかなど詳しい事情はわからない。
- 3世紀半ば以降の古墳からの出土
卑弥呼の使節が銅鏡を得て帰還したのが西暦240年、卑弥呼が死去したのが同248年であり、鏡が埋納されたとすれば3世紀半ば以降の古墳ということになる。
- 「卑弥呼の鏡」に有力候補
1965年に福岡県前原市大字平原字平原で「平原(ひらばる)遺跡」が発見されている。この遺跡はほぼ邪馬台国時代の物と考えられている。中心となる遺構は幅約2mの溝を18mX14mの長方形にめぐらせた「方形周溝墓」である。
この中心遺構から破砕した39面分の銅鏡が発見されている。注目すべきはその中に21面の「尚方作」銘方格規矩鏡が含まれていることである。
文様別の枚数は
- 尚方作流雲文縁方格規矩四神十二支鏡 (6面うち2面は同型)
- 尚方作流雲文縁方格規矩四神鏡 (3面すべて同型)
- 尚方作鋸歯文縁方格規矩四神鏡 (4面)
- 尚方作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡 (8面うち3面は同型)
である。この鏡の鉛同位体比率が測定されていて華北産の銅が使用されていると判定された。
1.の同型鏡2面、2.の同型鏡3面と4.の同型鏡3面のうち2面、合計7面は鉛同位体比率のデータが近接しており、同一原料で作成された可能性が高い。
この7面に含まれない4.の同型鏡1面の鉛同位体比率は同時に出土した倣製鏡のデータにきわめて近い値を示しており、「踏み返し」鏡である可能性がある。面径については不明であるが、面径が精密に測定されていれば、同型鏡が兄弟関係なのかあるいは「踏み返し」による親子関係なのか推定できるかも知れない。
同型鏡でない3.の1面と4.の1面も鉛同位体比率のデータが上記7面に近接しておりこれも同一原料で作成された可能性が高い。
これらは「卑弥呼の鏡」の要件を満たしており、有力な候補である。
- 民間工房製か
平原遺跡で発見された39面の銅鏡の中に「尚方作」銘の他に「陶氏作」銘の方格規矩鏡が9面含まれており、これもまた興味を引く存在である。鉛同位体比率のデータが「尚方作」銘のものに近接しており、同一鉱山の原料を使用した可能性がある。
文様別の枚数は
- 陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡 (5面うち2種の同型2面づつ)
- 陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神鏡 (4面うち2面は同型)
である。これらの鉛同位体比率は1.の同型鏡1面を除く全てのデータが「尚方作」銘同型鏡7面のデータに近接した値を示している。
除かれた1.の同型鏡1面の鉛同位体比率は「尚方作」銘のものと同様に倣製鏡のデータにきわめて近くこれも「踏み返し」鏡である可能性を示している。
- 新しい「卑弥呼の鏡」情報の探索へ
三角縁神獣鏡の呪縛から解放されて、真の「卑弥呼の鏡」情報の探索が可能になった。
情報の吟味と集積により、邪馬台国所在地問題にも解決の糸口が見えてくるのではないだろうか。