武蔵野うどん

関東の地図 讃岐うどんの東京進出の話題が連日テレビ、雑誌をにぎわせている。東京にはうどんはなかったのだろうか?
 どこの穴場?写真の店構えを見て、通なら行きたくなるだろう。うどんを茹でるのに薪を使っている店である。どこの何という店だろうか?当たる人はいないと思うが東京の東村山市、あの志村けんの、にある小島屋という。香川県に持ってきても、その外観からだけでも幻の店になることは間違いない。東京の近郊にこんなのが残っていることは奇跡のようだが、武蔵野には同様の店がまだ残っている。骨までしゃぶり尽くし次世代に何も残さない短期利益重視のアメリカかぶれの企業家がいつまでそっとしておいてくれるか不安であるし、その先兵たるマスコミが武蔵野うどんを嗅ぎ付けたらしいうわさも聞く。行くなら今のうちかもしれない。
 今回は首都東京、そして武蔵野の原風景を訪ねてみたい。 

 関西のうどん関東のそばと一般的に言われているが、現在の東京ではそばが圧倒的である。これだけをとらえて東京には日常的にうどんを食べる習慣がないと解説するエセ評論家もいるが、元々武蔵野は小麦の一大産地である。地元で穫れたものを食べる、ちょっと前までは当たり前のことであったように、当然の帰結としておいしいうどんがあり、うどんを日常に食べる習慣が根付いている。
 ところで武蔵野とは百科事典の説明は関東平野南東部の武蔵野台地を指し、北東は荒川、北西は入間川、南は多摩川によって区切られるとあるが、だいたい東武東上線、西武線、JR中央線の沿線で東京駅から1時間半くらいまでの範囲の台地上で雑木林と黒土があるところと考えればいいようだ。
 香川県の人は東京のうどんはまずい、食べないというが、黒いかけだしがそう思わすので麺は大阪のうどんよりレベルが高いと思う、つけだし文化でもある。もっとも今でこそうどんはマイナーな存在だが江戸でもそば(切り)が一般化する享保(1716〜徳川吉宗の治世)までは当然ながらうどんしかなかった。元禄の赤穂浪士が討ち入り前(1702年=元禄15年)に食べたのはうどんである。地位が逆転したのは、雑穀にも入らないそばを粋な食べ物と思わせた巧みなマーケティング戦略による。今や東京のおいしいうどんのいくつかはそば打ち職人の手によって生み出されていると言う悲しい現実もある。最近は同じ小麦粉を原料とするラーメンという強敵も現れた。武蔵野うどんを紹介する前に少し関東の麺事情をレポートしよう。ただ内容は適当に読み流していただきたい、そば、ラーメンについての質問にはお答えできるだけの知識がない素人の客ですので。
 
最初は小島屋  お寺や神社の門前にはおいしいそば屋、うどん屋があるが、江戸の昔から献上そばで名高いのが深大寺そば。武蔵野の面影を残す調布市の深大寺の門前にはそば屋が20軒ほどずらっと軒を並べる。その中で軒先に深大寺のそばは江戸の頃から品質がよいと評判だった、自分の店の歴史はとにかく古く、元祖だと由来を書いてあった嶋田家で食べた。残念ながらそばの評価は苦手だというよりまるで素人である、そこそこの量でそこそこの味としておこうか。
 東京の町には「藪」、「更科」、「砂場」、いたるところにそば屋の暖簾が目に付く、うどんの看板は少ないし、あっても「そば、うどん」である。ところで藪?、更科?、砂場?香川の人にはなじみが薄いので説明しておこう。代表的屋号には藪、砂場、更科の3系統がある。藪は昔あった団子坂の植木屋の藪の側の蔦屋に由来するそうだ。緑っぽい色と辛口のつゆが特徴の下町の味と言ったところ。藪の本家はかんだやぶそばだが、ざるが反対向きにおいてあり、その上にそばを盛っている、当然の結果量が非常に少なくなる。かんだ、並木、池の端が御三家と呼ばれているらしい。砂場は発祥が大坂の通称砂場で18世紀に江戸に進出、大阪には現在砂場という店はない。白い麺に甘めのつゆ。南千住の商店街の中にある店が少なくとも嘉永から続く本家筋だが、三越近くの室町砂場(石町の砂場)、虎ノ門砂場が有名。更科は麻布永坂町に信州出身の布屋太兵衛が店を開いてから(それ以前にも更級と言う店はあったらしい)。保科家に科の字を使うことを許されて更科とする。細く白い麺に辛口と甘口のつゆ、上品な山の手の味。暖簾分けした店は布○更科と名乗っている。商標等が複雑で本家筋がどこかはおいといて、創業家の店が総本家更科堀井。どの店も我々の感覚からすると高い。小腹の足しもならない量である。香川の人間はこの値段なら焼き肉を食いに行くだろう。
 
 ラーメンはもはや国民食だが、東京を代表する麺にもなった。本屋にはうまいラーメン屋のガイド本が並びネット上でも人気サイトが多い。町にもラーメン情報があふれている。加えて東京人は行列を作るのが好きで行列を見かけたらうまいラーメン屋があると思って間違いない。近年ラーメン界の進化は留まるところを知らず、またそのスピードゆえ、郷愁を感じるだけで刺激にかける遺物と昔ながらのナルト、ほうれん草、メンマ、薄焼き卵入りの東京ラーメンは言われているらしい。一昔前のラーメン激戦地荻窪の春木屋の和風だしが好きな私もラーメン界なら時代遅れなのだろうか。近年ではスープが入っていない油そばなるものまで作り出された。油そばとは一言で言えばスープのないラーメンだ。武蔵境の珍珍亭が元祖だそうだが私は珍珍亭の近くの丸善の油そばが好きだ。
 
 ではうどんはなかったのか?そんなことはない、前述したように、江戸時代(1603〜1867)も初期の頃は江戸でもうどんが一般的で赤穂義士は討ち入り前に饂飩を食べ(そば説も当然ある)、池波正太郎の鬼平犯科帳では長谷川平蔵(1745〜95、延享2〜寛政7)が一本饂飩なるものを食した文章もある。これが創作か歴史的事実かは分からないが本郷の高田屋には一本饂飩というメニューが今もある。江戸っ子にそばが一般的になるのは文化文政時代(1804〜30)であると言われているが、その後、現在言われる関東のそばが定着した。

 とりあえずこの位にして、次回はその2として、蕎麦の中で生きている東京のうどん事情に触れてみる。(2002秋記す、写真は4年くらい前から撮りだめためた物 )
 

 

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